2-2 化物

 老婆は音で獲物を視認する――。

 対処法が分かり、朱里に少し余裕が生まれた。

 自宅があるマンション前。先ほど服の上から噛まれた肩を手で揉んで痛みを和らげると、朱里はため息をついた。

 長い息を吐いて、過度の緊張でこわばった体を柔らかくする。力が入りすぎていたら、逃げるときにうまく走れないことがあるのだ。サイコナイトで何度も朱里はこけ、キラーに捕まった。そんな訳で何度もゲームオーバーになったから、恐怖が体にどう作用するか朱里は知り尽くしていた。

 落ち着いたところで、朱里は状況の把握に入った。

 今、置かれている状況を認識し、これからどうすべきか目的をはっきりしなくてはならない。

 まずは自分の所持品を確かめる朱里。

 路上にいるから、徘徊している老婆にいつ出くわしてもわからない状況にある。また、霧が濃く、どこから奇襲されるか全く見当がつかない。交互に包丁を持ち、左右のポケットをまさぐってさっさと済ませる。


(あれ? ない! ない……どうして――リモコンがないんだろう?)


 リモコン――リザルト画面にあったブラウン管のテレビのスイッチのことである。サイコナイトのゲームではそれを使ってゲームをリタイヤしたり、サイコナイトからログアウトしたりできるツールだ。

 それがないということは、どういうことなのだろうか?

 デスゲームに無理やり参加させられた兄のことがよぎり、ぞっとしない。今、とんでもない状況にあるかもしれない。そう考えると、朱里の体がこわばった。


(サイコハザードかな? ……いや、運営の人も対策してるはずだから、そんなことはないと思うけど――ゲームオーバーになったらまずいよね? うん、まずい気がする)


 現実世界と同じ痛覚であること。

 今いる場所から脱出できるツールがないこと。

 それらが、ゲームプランナーの意図したものなのかはわからない。バグなのかも、演出なのかもわからない。


(そういえば――)


 ふと思い、朱里は右腕の手首を気にした。

 ゲーム内での経過時間を確認できる腕時計が右腕に装着されているはずなのだが、何もない。

 恐怖にとらわれそうになったが、朱里はかぶりを振って振り払う。


(とにかく、ほかのプレイヤーに会わないといけないよね?)


 朱里は考えた。

 ほかにもプレイヤーがいるかもしれない。他のプレイヤーと会って情報交換する必要があると考えている。

 そもそも、今いる仮想世界が、本当に夢の浜なのかわからない。

 仮に――ここが夢の浜、だとしたら?


(夢の浜だとしたら、きっと学校があるはず。学校に行けるかはわからないし、危険だけど行く価値はあると思う)


 こう結論付けた後、


「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……」


 再び老婆が現れた。

 背を丸め、とぼとぼ歩く老婆。ぶつぶつ何かを言っているが、朱里には老婆が何を言っているのかわからなかった。

 ここで朱里は考えた。

 手にしていた“こなみ”と銘が打たれた包丁を、家の前の用水路に投げ込んでみる。包丁が水面を割ると、ドボンと落ちる音がした。


「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!」


 朱里の目の前にいた老婆は音がした方へうなり声をあげると、奇声を発して用水路に飛び込むのであった。

 老婆がバシャバシャと水音を立てると、どこからともなくほかの老婆も集まってきた。老婆たちは用水路に詰めかけ、水をかけあった。互いの手がぶつかり合い、鋭爪が当たると戦い始める老婆たち。威嚇から始まり、かみつき合いを始めた。

 この隙に、朱里はそっとこの場を離れる。歩いて、通う高校へ向かうのであった。

 いつもは自転車を使っているのだが、自転車は車輪がまわる音が老婆たちの耳につくかもしれない。老婆に襲われるのはたまったものではないから、仕方なく歩いていく。

 視界が悪い。周囲に気を付けながら、マンションを背にする朱里。

 老婆たちの金切り声がやたら耳につく。走って逃げたい気持ちにかられるが、できない。老婆たちに気づかれるかもしれなかった。それが非常にもどかしい。

 まっすぐ進み、朱里は交差点へ。

 誰もおらず、信号機は完全に沈黙していた。

 暇なときにお邪魔しているコンビニの電気は消えている。そばを通り過ぎるも、自動扉は反応しなかった。

 コンビニの脇を通り過ぎ、交差点を左に曲がる朱里。次第に用水路でせめぎ合う老婆たちの声は小さくなっていく。もう少しで――と、焦燥感にかられるが、なるべく抑え、朱里は音をたてないように神経質に歩く。

 濃い霧の中、道なりに進む朱里。交差点から、500m進んだところで声は途切れた。そっと息を吐くと立ち止まり、朱里は少し肩の力を抜いた。


(やっと、離れられたね)


 霧の中、どこかにいるであろう老婆に気取られないように息を吐く朱里。

 彼女が暮らすマンションは千堂(ちどう)。そこから今は尼堂(にどう)という場所に差し掛かっている。

 ここで少し――霧が薄くなる。

 地方都市である夢の浜は、古くどこかくたびれている。店はだいたい個人経営で、チェーン店は活気がない。

 かつてここには尼寺があり、堂が建っていたというが面影はどこにもない。連なっているのは古めかしい家々。それだけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます