1‐5 悪意の中にようこそ

 マンションの8階。自宅の玄関前で、朱里は老婆に馬乗りされていた。

 老婆は、朱里の首筋にかみつこうとした時だった。朱里は渾身の力を振り絞る。落ちていた包丁の刃を老婆のわき腹に突き立てるのであった。老婆の体を裂く生々しい感覚に一瞬ひるんだが、自分の生死がかかっている。朱里は何度も何度も老婆の腹に包丁を突き立てた。

 浅い一撃は老婆をひるませ、次々に朱里は攻撃を繰り出す。次第に深くなり――。老婆のわき腹から血が噴き出す。ほとばしる血など気にも留めず、朱里は無我夢中だった。腹を刺されて絶命した老婆が自分に覆いかぶさるまで2度3度、繰り返した。

 化物がこと切れ、少し時間が経過。パニック状態から朱里が立ち返った時、スペシャルゲームに参加してしまったことを公開するのであった。


「……これって、本当に、ゲームなのかな?」


 見舞われた現実さながらの痛み喘ぎ、こう漏らす朱里。

 ずっとこうしているのも難なので、朱里は自分に覆いかぶさる老婆の死体をどかそうとするのであった。

 しかし、その時であった。


「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……」


 住んでいるマンションの廊下に響く金切り声。

 朱里に緊張が走る。

 たった今、倒した一匹だけではなかった。霧が漂うマンションの廊下に、あの老婆が姿を現した。

 猛烈にこの場から逃げたい衝動に襲われる朱里。しかし、身体の上には老婆の死体がのしかかっている。それは重く、ぶよぶよとした肉の塊をどかすのには骨が折れる。朱里はそのまま死んだふりをするしかなかった。


「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……」


 全身の力を抜き、老婆が通り過ぎるのを待つ朱里。死体は朱里の小さな胸の上に乗っており、肺を圧迫している。呼吸がうまくできないせいか、目がチカチカしはじめた。だが、ここでゲームに負けてしまうのは悔しい。スペシャルゲームが開催されて、すぐにやられてしまったというのは嫌だった。

(はやくどこかにいってくれないかな……)

 苦しみあえぐ朱里のことなど、この老婆は気にも留めていない。ゆらゆら頭をゆらし、ゆっくりと折り重なる2つの死体の元へ。うめきながら、じりじりと。焦らされる朱里はたまったものではなかった。

(はやく、はやく、どこかに消えて……お願いだから)

 朱里の顔を覗き込む老婆。半開きになっている朱里の目は閉じられない。生きているということを覚られる訳にはいかない。

 とても、苦しい。

 緊張のあまり、めまいがして前がうまく見えない。気が次第に遠のいていく朱里。老婆の生臭い吐息がかかる。

 非常に、臭い。

 咳き込みたいが、何もできない。咳き込んだら、現実世界に押し戻されると朱里は考えていた。まだ、スペシャルゲームに参加して5分も経っていない。しかし、朱里はもう数時間も経っているような気がしていた。

 もっと、スペシャルベームの世界を見てみたい。


「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……」


 間近にある老婆の顔。朱里は全くわからない。うめき声も次第に耳鳴りで掻き消えそうだった。けれども、気絶する際で、朱里は踏ん張っている。スペシャルゲームを意地が、朱里を支えている。

(どこかに消えて……お願いだから――)

 いなくなれと念じる朱里。


「……あれ?」


 どれくらい時間がたったのかはわからない。死体を演じ、気が付けば朱里のそばから老婆はいなくなっていた。

 安全を確認し、自分の体の上に載っている死体を横にやった。上半身を起こし、上着が赤く塗れていることに朱里は気が付いた。顔をゆがめ、嫌な顔をした。それから立ち上がると、朱里は外側に目をやった。

 霧が、濃かった。

 いつも見ているはずの光景、眼下に広がる道路と連なる一軒家の屋根がどこにもない。白いガスが邪魔して何も見えなかった。


「通りで暗かったんだ……」


 こうつぶやいた後、朱里は右手に握りしめている包丁を見た。玄関前に、ついている照明が照らす。赤黒い血がべっとりと就いた刃に、“こなみ”と銘が打たれているのを。

 手にしている包丁に打たれている銘がやたら気になる朱里。なぜなら、“こなみ”は彼女のかつての友人の名前だ。絶交してしまった友人で、朱里の兄のことをストーカーするほど好いていた。

 好いているというよりかは、愛しているといった方が正しい。

 その愛の大きさに、朱里は恐怖したことがあった。奇しくもここで、朱里はこなみと対峙した。そのことを思い出した。


(こなみ……大倉こなみ――)


 かつて親友だった女の子の顔を思い浮かべ、朱里は眉間にしわを寄せた。

 かぶりを振って想いを振り払うと、朱里は深呼吸をする。した後、霧の立ち込める世界に思いをはせた。

 外には危険が、きっとあの老婆が歩いているはずだ。

 そう考えると足がすくむが、それでも朱里は前に進む。廊下の突き当りにあるエレベーターに乗って、1階に降りるのであった。現実と同じ痛みを感じながら、ほの暗いエントランスへ足を踏み入れた。

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