Episode.7 レイニーブライド⑦



「お客様、申し訳ございませんがお静かにお願いしま——」

 入ったビルはホテルだった。一階がロビーと、一般開放もされているレストラン。二階より上に宿泊用の部屋がある。最上二つのフロアには展望風呂やサウナ、エステ、プール、バー、フォトスタジオの入った一風変わったホテルだった。

 フロントから駆け寄り、声を掛けてきた女性スタッフが、飛び込んで来た二人を見るなり目を丸くして口を噤み、すぐに別の言葉を発した。

「お客様、大丈夫ですか!」

 女性スタッフの目線は二人を見比べた後に、巴で止まった。彼女の腕や足にある痣や傷。膝にできた真新しい傷口からは血が滲み、雨水とともに足先まで肌を伝っていた。ふかふかの絨毯が、雨水を吸って、二人の周囲だけ色を濃くしていく。

「あ、予約していた津田です。彼女、さっき転んでしまって。何か処置できるものはありますか?」

 全身びしょ濡れで、巴に至っては怪我だらけで、そんな中でも冷静に予約していることを伝える隆雅の姿に混乱しつつ、それでいて焦りを隠しきれずに早口で、

「しょ、少々お待ちください! あ、あちらのソファに掛けてお待ちくださいぃ!」

 と、ロビーのソファを示した後、慌ただしく駆けていった。

 フロントに戻っていった女性スタッフを見送り、目を丸くしている巴と目が合った。

「予約してたの?」

「プロポーズした後、ここで食事するつもりだったんですよ」

「無駄にならなくてよかったね」

 また互いにクスッと笑みを零した。

「あっち、座りましょうか」

「うん」

 濡れた服を気にして、ロビーのソファに浅く腰掛けて数秒。すぐに別のスタッフが温かいお茶を煎れて現れた。

「いらっしゃいませ、津田様。この度は大変なご災難でしたね。どうぞ、こちらをお召し上がりください。ハーブティーです。体が温まります。お怪我の具合はいかがですか?」

 物腰の柔らかい初老の男性スタッフは、ソファの前のローテーブルにティーカップを二つ置き、巴の方へ向き直って様子を伺った。

「ええ、見た目ほど痛みませんので大丈夫ですよ」

 スタッフは優しく微笑むと、名刺を差し出した。

「あの、よろしければお二方にご提案があるのですが。私は当ホテルのマネージャーでございます。ご存知かもしれませんが、当ホテルの館内にはフォトスタジオがございまして、貸衣装がございます。そのままではお二方とも風邪を引いてしまいます。こちらでお召し物を乾かしている間、貸衣装をお召しになられてはいかがでしょうか?」

「あ、いいですね。代金は——」

「いえ、サービスでございます。なにしろ本日は大事な日とお伺いしておりますので」

 マネージャーは気さくに片目を閉じて見せた。隆雅は巴と視線を交わし、互いに相槌を打った。

「では、お言葉に甘えて。宜しくお願いします」

「かしこまりました。では早速ご案内致しましょう」

 マネージャーの側に立つベルボーイに荷物を預け、フロントの奥にあるエレベーターに乗り込んだ。そして、上階のフォトスタジオへと案内された。



 もう少し質素なものはなかったのだろうか、と隆雅は落ち着きのない様子でテーブルについていた。用意されたのはタキシード。しかもモノトーンの落ち着いた色ではなく、明るいブラウンのジャケットにチェック柄のベスト。なんていうか、若い服装だ。普段は真っ黒なビジネススーツ、オフの日はラフでシンプルな服しか着ないので、今着ているようなお洒落で派手な服装は落ち着かない。ご丁寧に靴まで貸してくれた。

 巴はまだかと、レストランの入り口に何度も視線を送った。

「おまたせ」

 巴の声に顔を上げると、びしょ濡れだった彼女はすっかり見違えた姿になっていた。いつも会うときはカジュアルな格好をしていた巴だが、今目の前にいる彼女は鮮やかなブルーのイブニングドレスに身を包み、少し高めのヒールを履いている。雨に濡れた髪が顔にかかり、少し色っぽく見えた。

「見違えました。誰かと思いましたよ。こっち、どうぞ」

 向かいの席の椅子を引いて座るように促す。巴は頬を染め、らしくない表情で静かに座った。華やかなドレスに緊張しているのだろうか。

 雨で濡れた髪、桃色に染まった頬、艶やかな唇。女性らしく粧し込んだ彼女は、いつも以上に綺麗だった。

 お互い慣れない格好で、緊張感が漂い、つい黙り込んでしまう。どちらからともなく口を開くが、言葉が被って口を噤む。

 やがて気まずい空気に耐えられなくなった巴が「今日はいろんなことがあたったね」と、会話を切り出した。

「まーくんはプロポーズ失敗するし、私は吹っ飛ばされるし、それに雨に濡れちゃうし」

「雨に濡れるのは、わりといつものことですよね」

 会話が始まったところで最初の料理が運ばれてきた。彩り鮮やかな前菜だ。

「まーくんは雨男だもんね」

「いや、巴さんが雨女なんじゃないですか?、巴さんが東屋にいる日は、東屋に近づくと雨が降りだしてたんですよ。俺、人間じゃないのに関わっちゃったんじゃないかって、ちょっと怖かったです」

「なにそれ、酷い。ちゃんと人間だもん」

 笑みが零れる。いつもそうだ。彼女といると自然と笑顔になる。

 話していくうちに緊張が解けたようで、いつもの戯けた巴に戻っていた。次々運ばれてくる料理の合間に、お互いの事情を話した。巴に言われた通り指輪を作ったこと。今日、志穂にプロポーズしてフラれたこと。その帰りにたまたま巴が旦那と喧嘩している現場に居合わせたこと。

 巴は結婚していた。暴力の絶えない旦那と一年間共に過ごしてきた。自分の時間を見つけて気分転換したりしてなんとか関係を続けてきたが限界がきたようで、先ほど別れようと告げたらしい。それであの喧嘩になったと。

 息抜きに通っていた東屋に隆雅が訪れた日はとても驚いたと。なにしろ、あんな場所に入ろうとする者はいないようで、隆雅が初めてだったそうだ。同じ時間を過ごして、話をしていくうちに隆雅の恋愛事情を知り、自分がうまくいってないこともあり、応援したくなったそうだ。隆雅の渋々ながらも変わろうとする姿に触発され、自分も変わらなくては、と決心したらしい。

「離婚なんて大変だと思いますが、俺に力になれることがあるなら言ってください。それにしても驚きました。いろいろと」

「ありがとう。本当ね。同じ日に、お互いに決心して行動に移すなんて」

「いろいろありついでに、もう一つ事件起こしてもいいですか?」

「え、やだ、何する気なの?」

「俺と結婚してくれませんか?」

 巴は目を見開き、やがてクスクスを笑い始めた。その表情に、初めて会った日のことを思い出す。口を開こうとした彼女に、慌てて言葉を重ねて、それを制した。

「あ、返事は今度でいいんで。これだけ確認してもらえませんか?」

 仕事用の鞄に入れておいた宝石箱を取り出した。それを見て巴は、驚喜と疑問が混ざり合って混乱し、訝しげな視線を送ってきた。そして、中身を察して訊いた。

「やだ、使い回し?」

「違いますよ! ほら、早く開けてください」

 巴は、強引に突き出された白い宝石箱と受け取り、何がおかしいのかクスクスと笑いながら、ブルーのリボンをゆっくり解いた。箱を開け、中から出てきた眩しく輝くダイヤが一粒ついた指輪を見た。驚いた様子はなく、手にとってまじまじと見つめている。

「つけてみてください」

 巴は無言で指輪を左手の薬指に通した。

「ぴったり」

 安堵の吐息をつき、指輪を嵌めた彼女の姿を改めて見る。小さく輝く一粒の星が、よく似合っていた。

「どうしてぴったりなの? これって今日プロポーズした彼女さんに渡す指輪でしょう?」

「そう思うじゃないですか。俺も彼女に渡すつもりで作ってたんですよ。巴さんの言う通り、ちゃんと手作りなんです。その指輪よく見てください。気付きませんか?」

 巴は、薬指にぴったり嵌った指輪に視線を落とし、目を凝らして観察し始め、すぐにはっとして息を飲んだ。

「このデザイン……」


『作り終わったら私のも作ってよ。私っぽいデザインで』

『巴さんっぽい……雨のイメージしかないっすね』

『何それ、私そんなに湿気っぽいイメージなの?』


「雨だ……」

「言われた通り、巴さんっぽいデザインにしてみました。というか気付いたらそれになってたんですよ」

 中央に小さな宝石を一粒留めた指輪は、側面に唐草模様が彫られている。それは流れる雨雫を連想させ、指輪を伝う唐草の先には、雨粒を思わせる小さな球体の装飾が可愛らしく並んでいた。

「彼女のために婚約指輪作ってたのに、いつの間にか、あの日に測った巴さんの指のサイズで作っていて、いつの間にか、巴さんに似合いそうなデザイン考えていて、いつの間にか……それが出来上がってました。彼女の指のサイズは、巴さんより一つ上なんですよ。だから彼女の指には入らない。それなのに、これ持ってプロポーズしてきたんですよ。断られて安心しました。彼女には失礼ですけど、断られることは確信していた気がします。これでよかったんです。俺はこれを作って正解だったんです。手作りの指輪を渡したい人は、他にいたんです」

 あのとき確かに、プロポーズはした。



「俺と結婚してください!」

 花束を突き出し、頭を下げる。だが、すぐに顔を上げた。

「本当はこうやってプロポーズするつもりだったんだ。だけど、ごめん。俺と別れてくれないか?」

 志穂は目を見開き、とても驚いているように見えた。だがその表情の陰には安堵の表情も見てとれる。志穂は戸惑ったように視線を泳がせながら何も言えずにいる。

「殴ってもいい。俺が悪かった。もっと早く言えばよかったんだけど、何年も付き合ってたからなかなか言い出せなくて。志穂とのこれからのことを考えても、結婚とかその先一緒に過ごしている未来が想像できないんだ。ごめん」

 深く頭を下げた。殴られる覚悟をして身構えていたが、投げかけられた言葉は予想外なものだった。

「自惚れないで」

 耳を疑った。暫く頭を上げることができなかった。殴られるか罵声を浴びせられるか、もしくは泣かれるかを予想していたのだが、全くの想定外の言葉に脳が処理しきれなかた。

 隆雅は恐る恐る顔を上げた。何も言えずに呆然としている隆雅に、志穂は更に言葉を浴びせた。

「私があなたをまだ本気で好きでいると思ってたの? 私はずっと待ってたけれど、結婚する気配なかったし、最近は気を遣ってばかりで疲れちゃうし、全然会ってくれないし。この前の遊園地は楽しかったけど、それでもやっぱり待ちくたびれちゃった。私、他に好きな人ができたの」

 足の爪先から少しずつ凍っていくような感覚を覚えた。体が動かない。志穂の言葉を整理している間に、どんどん身動きがとれなくなってしまった。

 自分から別れ話を切り出したのだから、相手の気持ちが自分以外に向いていたことなど関係ないのだが、彼女の気持ちに気付けなかった自分が、少し情けなかった。仮にも五年ほど共に過ごしてきた相手なのに。そして、僅かながら心が傷を負った。

 動かなくなった隆雅を見て志穂は溜め息を零し、困ったように眉尻下げた。

「もっと早く言えばよかったね。本当にごめんなさい」

 志穂はそのまま東屋を離れていった。遠ざかる小さな足音を聞きながら、少しほっとしてしまった。

 なぜ、こんなことに。なぜ、志穂ではだめだったのだろう、と自分自身を問い詰める。

 やがて、雨が降り出した。

(ああ、そうか。雨だ)

 志穂にフラれて安心した意味が分かった。

 はらはらと落ちてきた雨は次第に強くなり、東屋の外でうごめく紫陽花たちを潤わせる。薄暗い中で放たれる淡いブルーの光が、紫陽花たちの命の灯火のようだった。

 日差しの強い夏は目前。だが、彼らはもう少し生きられるのだ。



「そういえば、まーくんって何歳なの?」

 巴と遭遇する前のことを思い返していた隆雅は、突然声をかけられて変な声を出した。それに巴が笑う。

「二十五です」

「一つ上だったの? 年下かと思ってた。頼りなくてなよなよしてるし、子供っぽいし、敬語だし。あと長年付き合ってる彼女ほったらかしにしてるし」

「それはもういいじゃないですか。終わったんですから。それに俺も同じですよ。巴さんは年上かと。童顔のくせに大人っぽいし、落ち着いてるし」

「それ褒め言葉として受け取ってもいい?」

「あ。貶したつもりが……」

「まーくんってしっかりしてそうで、ぬけてるよね」

 巴は楽しそうに笑っている。

 指輪を作り始める前から、もしかしたらこの笑顔を初めて見た時から、心の奥では決めていたのかもしれない。あれこれ悩んでいた頭よりも、指輪を作っていた体の方が気持ちに正直なんだな、と隆雅は思った。

 ふと笑みを零した隆雅に、巴は不思議そうに首をかしげた。

「どうしたの?」

「どうやら俺は巴さんに出会った時から、ふてぶてしい顔した猫についていったあの時から、運命に導かれていたみたいです」



「じゃあ返事は、またあの東屋で」

「待ってます」

 乾いた服に着替えて外に出ると、雨はまだ強く地面を打ち続けていた。ホテルで借りた傘を差し、巴は雨の中、石畳の上をゆっくり歩んでいった。彼女の薬指から、街明かりを反射した光が届いた。

 最後まで彼女の後ろ姿を見送ると、ふっと雨が止んだ。

「やっぱり雨女じゃないすか」

 一人、微笑した後にはっとした。

「連絡先、聞いておけばよかった。……まあ、なんとかなるか」

 今まで連絡先を知らず、だが何度も会えていたことに、すっかり安心しきっていた。その後、ひどく後悔するとも知らず。

 彼女は東屋に姿を現さなかったのだ。何日も。

 晴れの日も、雨の日も。

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