Episode.7 レイニーブライド⑥



 巴と会わなくなってから梅雨が明けた。日々気温が上昇し、雨の日はずいぶんと減った。湿度が高くなければ過ごしやすい気候だ。

 そそのかされて作り始めた指輪は、案外早く仕上がった。学生の頃に一緒にアクセサリーを作っていた友人に声をかけたのだ。今ではそれを本職にしている彼に協力してもらったこともあり、時間や手間はかからなかった。足りない工具を借りたり、ワックスで作り上げた蝋原型をシルバーにするための鋳造工程を手伝ってもらったりと、人の手を借りたものの、本気を出せば自分にもこれだけ上出来なものが作れるのだ。転職しても成功するかもしれないと自惚れるほどに。自慢したいが相手がいない。最近は東屋を訪れることもなくなっていた。

 指輪ができたことや、プロポーズすると決意したことも報告したかったので、仕事の休憩時間に久しぶりに東屋を訪れてみたが、やはり巴の姿はなかった。季節は初夏だというのに東屋の手前を埋め尽くす紫陽花は、相変わらず艶やかに咲き誇っていた。色とりどりの幻想的な景色を背景に、あのふてぶてしいサビ猫が転がっている。

「今日も来てないのか?」

 サビ猫は答えない。

 隆雅は諦めて会社に戻った。

 できれば本番を前に少し話したかった。今日プロポーズをするのだと。

 今日は志穂と付き合い始めた記念日だった。

 仕事の鞄の中に、綺麗にラッピングした宝石箱を入れてきたが、とりあえず会社のロッカーにしまっておこうと取り出した。仕事が終わるまでに、プロポーズのセリフを考えなくては。

 場所は巴が教えてくれた、森林公園の中の東屋にした。志穂にも伝えてある。薔薇の花束も用意した。何度も花屋に足を運んで、店員の女性と相談しながら決めた薔薇の花束だ。仕事が終わったら、一度帰宅してシャワーを浴び、花屋に行って花束を受け取り、その足で公園に行ってプロポーズをし、そのあとにレストランで食事をする。あとはセリフだけだ。

 隆雅は仕事中ずっと考えていた。プロポーズのセリフと、最近会えないでいる巴のこと。

 案の定、集中力が欠けている状態では仕事が進まず残業となり、二時間のタイムロスとなった。一度帰宅する時間はないどころか、花屋に伝えた約束の時間を過ぎていた。

 急がねば。

 職場の個人ロッカーから、綺麗に飾られた宝石場を取り出した。

『手作りなんて素敵じゃない! 世界にたった一つの指輪だなんて……きっと喜んでくれるわよ』

 巴の言葉が蘇る。彼女の顔を思い浮かべながら不安になる。喜んでくれるだろうかと。

 ふと腕時計を見て、時間がないことを思い出した隆雅は、慌てて宝石箱を鞄に入れて職場を飛び出した。

 外に出ると、少し雨のにおいがした。降らないことを祈りつつ、街灯りに照らされ、行き交う人々で賑わう通りを足早に通り抜けた。

 すっかり顔馴染みとなった花屋の店員に声援を送られ、薔薇の花束を受け取り、待ち合わせ場所へ急ぐ。

 志穂と待ち合わせた場所は、巴が教えてくれたオススメスポットだ。大きな森林公園の中にある隠れ家のような東屋。巴はああいった場所が好きなのだろうか。公園の地図には載っていないが、志穂にはなんとか場所を伝えてある。もう着いている頃だろう。

 隆雅は公園に着いて愕然とした。そこは街灯の少なさからか、あまりにも暗すぎた。志穂にとっては恐怖でもあり、女性一人でふらついていては危険だ。志穂は無事だろうか。夜にこの場所の下見をしておけばよかった。いや、付き合った日にこだわらずに、日曜日の昼間にすればよかった。

 後悔しながら東屋に向かう。薄暗い街灯の元、目を凝らしながら進んでいると、木々が密集する中に舗装されていない細い道を見つけた。そこに入り込む。更に進んでいくと、両側にブルー一色の紫陽花が艶やかな輝きを放ちながら出迎えてくれた。もう少しだ。

 やがて姿を現した東屋には人影があった。

「志穂!」

「まーくん?」

 やっぱりそうだ。よかった、と隆雅は安堵した。慌てていたのでうっかりしていたが、

「その花束どうしたの?」

 そう、この花束を隠すことを忘れていた。サプライズで渡したかったのが丸見えだった。言い訳する必要もなかったので、もう言ってしまおうと覚悟を決めた。飾る必要なんてない。伝えたいことはシンプルに一言だった。

「俺と——」


    *

  

 役目を果たしきれなかった真っ赤な薔薇の花束を振り子のようにぶら下げながら、雨の中、街灯や路面店の灯りで照らされた小洒落た通りを一人で歩いていた。雨が降っていても、仕事帰りに食事に行く人や買い物を楽しむ人で、路面店が立ち並ぶ石畳の通りは賑わっていた。

 そんな煌びやかな通りを、傘も差さず、びしょ濡れで花束をぶら下げた隆雅は、周囲の視線を集めていた。訝しげに見つめる双眸が、あちらこちらで光っている。

 隆雅は気にした様子もなく、規則正しく靴底を鳴らしながら歩き続けた。

 雨のにおい。雨が地面を打つ音。びしょ濡れになった服が肌にへばりつく感触。それらに懐かしさを感じながら、まっすぐ帰宅しようとしていた。

 公園を出てから、路面店が立ち並ぶ石畳の通りを歩いてしばらくすると、人集りを見つけた。その中央には、隆雅と同じように傘も差さずにびしょ濡れになったカップルがいた。ただそのカップルは、喧嘩の真っ最中なようで、暴言を吐き続ける男と、水たまりのできた冷たい石畳の上に転がされた女の姿が見えた。男は暴言だけでなく、手まであげているようで、遠くからでもわかるほど、女の白い腕にどす黒い痣が見えた。

「何してるんですか」

 俺だったら絶対に声なんかかけない。面倒事なんてごめんだ。女に暴力を振るう奴を止めに入るなんて、自分が何をされるかわからない。多分、殴られる。そして喧嘩に発展するに違いない。他人のために怪我をしてやる必要なんてない。正義のヒーローじゃあるまいし。

 ただし、それは見ず知らずの赤の他人であればの話。

「何してるんですか、巴さん」

 隆雅は無意識のうちに人集りを掻き分けて、喧嘩をしている二人の前に立っていた。そして、全身びしょ濡れで男に暴力を受けていた女性——巴に声をかけていた。巴は雨に濡れることを気にした様子もなく、石畳にへたり込んでいた。

 派手に罵声を浴びせていた男は手も口もピタリと止め、急に割って入ってきた人物を見た。

「彼氏さんですか? あ、旦那さんですか」

 巴の左手の薬指には、高価な指輪が雨に濡れて鈍く光っていた。

「結婚してたんですね。これが旦那さんですか? 酷い人ですね」

 今まで、巴が指輪をしていたところは一度も見たことがなかった。一人で行動する時は外していたのだろう。一人の時くらい、こんな男の存在など忘れたいに違いない。

「まーくん、なんでここに? あ、その花束って……」

 巴は喧嘩を止めに入った人物が知人だとわかると、ようやく口を開き、声を掛けてきた男の名前を呼ぶ。その右手に握られた薔薇の花束を見て、心配そうに見上げた。

 人の心配をしている場合ではないというのに、まったくこの人は。

「誰だお前! 巴の知り合いか? 男の連絡先は全部消させたはず……」

 男は状況がつかめずに訝しげな視線をぶつけてきた。そんな男をよそに、巴の元まで近付いて跼み、手をとった。隠しきれない痣が、服の袖からいくつも顔を覗かせている。雨のせいだろうか。その手はいつも以上に、青白く酷く冷えきっていた。

「酷い人ですね……いつも旦那さんに?」

 彼女は『いつも』という言葉に目を丸くして驚いた。今まで気付かれていないと思っていたのだろう。戸惑いの表情を浮かべ、心の中を覗き込むかのように目線を合わせた。そして、静かに小さく頷いた。

「おい、お前! 人の女に勝手に触ってんじゃねぇよ!」

 怒鳴り声と共に、右の肋骨に強い衝撃が入った。「きゃっ」と巴の小さな悲鳴が聞こえた。硬い靴の先で蹴りを入れられたようだ。その衝撃で、体制が崩れた。咄嗟に左手を地面についただけで、たいしたことはなかった。奥に潜んでいる学生時代の積み立て筋肉が、少し役に立ったようだ。

 バランスを崩している間に、男は巴の前に立ち、汚い虫を見るかのように見下していた。

「お前、浮気してたんだな」

 男は拳を振り上げた。巴は目を瞑り、両手で頭を庇い、体を小さく丸めた。

 咄嗟に地面を蹴り雨水を弾いた。その勢いで体当たりをして男を体を飛ばした。右手に掴んだままの花束から、真っ赤な花びらが数枚舞い、線の細い男の体はあっさりと転がった。

「彼女は浮気なんてしてないですよ。連絡先も交換してないし。自分には交際してる女性がいますし。まあ、さっき別れましたけど。彼女とは何もない、ただの友人ですよ。証拠もないのに疑いだけで人を殴るのはよくないですよ。しかも男が女性になんてみっともないですね」

 転がった時にぶつけたのか、腕を抑え込み、獣のように呻いている。男は大袈裟に痛がりつつも、こちらを睨み上げて威嚇する。

 隆雅はそんな男を気にも留めず、巴に手を差し伸べた。

「立てますか?」

「ありがとう」

 巴は素直に手をとり立ち上がった。膝には擦り傷があり、そこから僅かに出血もしている。

 嫌悪感を抱いた。彼女にではなく、そこに惨めに転がっている男にだ。彼女をあの男から引き離すべきだと思った。

「行きましょうか」

 巴の手を引き、この場を立ち去ろうとした。

「待て!」

 大袈裟に身体中が痛む素振りをして転げ回っていた男が、急に立ち上がり、巴の手を掴もうと腕を伸ばしてくる。咄嗟に、右手に持っていた薔薇の花束で、男の顔面を叩いた。勢いよく真っ赤な花弁が舞い、この醜い空間を一瞬で美しく飾った。

「あんたに彼女を縛る権利なんてない。旦那のくせに、守るべき人を傷つけてどうすんだよ。あんたの隣に彼女を置いとくなんてできない。……行きましょ、巴さん」

 あの素敵な花屋の店員に、せっかく作ってもらったのに。薔薇の花束は、本来の役割とは全く違った形で役目を終えて、無残に散ってしまった。

 軽蔑、嫌悪、義憤、様々な感情を背負った重たい花びらを被った男が、再び叫ぶ。

「待て! この阿婆擦れ女ぁ!」

 男はまるで野獣の様に醜く表情を歪め、襲いかかろうと地面を蹴った。

 瞬時に巴の手を強く掴み、夜の町を駆け出した。

 通行人が皆見ている。そろりそろりと車道を走る車の中の人も、窓越しに覗いている。非日常的な光景に、驚きと期待の双眸が、あちらこちらから向けられる。後方には獲物を狙うかのような恐ろしく歪んだ表情をした野獣が迫っているというのに、今、物語の中心にいるような気がして心が躍った。

 足場の悪い石畳の上を、三つの足音が駆け抜ける。楽しげにリズムを刻む巴のヒールの音が耳に入る。振り返ると巴は、息を荒げながらも笑っていた。

 はたから見たら奇妙な光景だろう。雨の中、傘も差さずに、踊る様に笑いながら手を繋いで逃げ回る男女と、その後ろを鬼の形相で追いかける男。おまけに男からは、その姿には似つかわしい真っ赤な花弁が舞っている。

 注目を浴びながら町中を駆け回る。

「ねえ! まーくんは何してたの? 傘も差さないで」

 うるさい雨音の中から、明るい声が耳元に届いた。

「プロポーズですよ! 見ての通り惨敗ですけど。巴さんこそ何してたんすか?」

 雨音に負けない様に声を張る。

「私もケジメつけようと思って! まーくんが来てくれてよかった」

「てか、もう一回聞きますけど、結婚してたんですね!」

「うん! でももう離婚するぅ!」

 笑った。雨に打たれ、体温は奪われていく。高揚感と爽快感を抱いたまま走る。巴の言葉が届いたのか、後方から「ふざけるなぁ!」だの「俺は許さないぞ!」だのと男が喚いている。

 路面店の前や、高いビルの間を通り抜けたり、傘を差した人の間をすり抜け走る。

「雨が降ってきた時は、もしかしたら、まーくんが来るんじゃないかって思ったけど、まさか本当に現れるなんて。まーくん、ヒーローみたい。ありがとう。でも、やっぱり雨男だね」

 息を切らしながらも、巴は楽しそうに叫んでいる。

「はは。間に合ってよかったです、雨女さん」

 どれほど走り続けただろうか。遠に息は上がり、苦しいはずなのに、顔は笑ったまま。建物の間の狭い歩道に入り込み、雨を受けながら走る。大きな雨粒が視界の邪魔をする。この先に大通りがある。タクシーでも拾って男を撒こう。

 大通りに飛びだし、右折したところで、角に建つビルの名前が目に入った。

「あ、巴さん。こっち」

 彼女の手を握る力を一層強くし、九〇度右へ方向転換し、そのビルに飛び込んだ。

「え、なに?」

 肩で息をしながら、今飛び込んで来たガラスの扉を振り返ると、巴の旦那が走っていく姿が一瞬見えた。

 それを見て、どちらからともなく吹き出し、盛大に笑った。

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