Episode.7 レイニーブライド④



 なんとか小雨のうちに自宅へ辿り着くことができた。帰宅途中もひっきりなしに鳴るスマホのせいで、残量僅かだったスマホの生命線も見事に途切れた。

 物理的にも気分的にも重い足取りで、びちゃびちゃと靴底を鳴らしながらエレベーターへ乗り込んだ。頭に被っていたタオルを首にかけ、溜め息をつく。

(あいつ、まだいるかな)

 自分の家だとはいえ、さっきまで喧嘩していた相手が居座っていることを思うと、非常に帰宅し難い。他人の家で他人の物に勝手に触れ、壊すなんて最低だと思うが、いきなり怒鳴り散らさなくてもよかったかなと少し反省した。雨に打たれてずいぶんと冷静さを取り戻したようだ。

「ただいま」

 暗い気持ちで玄関を開けると、すぐ目の前に志穂がいた。スマホを握りしめて、片足だけ靴を履いている。

「あ、まーくん! さっきはごめんね。まだ怒ってる? 大事なもの壊しちゃってごめんなさい。今から探しに行こうとしてたの。電話も繋がらないし」

「いや、まあ、俺も怒鳴って悪かったよ。ごめんな。とりあえず部屋に戻ろう。雨に濡れたから、またシャワー浴びたいし」

「うん」

 散々心配していたが、どうやら杞憂に終わったようだ。

 彼女を部屋に戻るよう促し、自分も着替えをとりに行こうと一緒に部屋ヘ向かった。

「ねえ、そのタオルどうしたの? まーくん、そんな可愛いタオル持ってなかったよね……誰のタオル?」

 振り返ると、志穂は首に巻いたタオルを鋭い目つきで睨んでいる。

「あ、えーと。雨で濡れたから、通りすがりの女の人がくれたんだよ。親切な人っているんだなー」

「ふーん、そうなんだ。よかったね。それだけ濡れてたらタオルなんて意味ないけどね」

 一瞬ひやっとしたが、咄嗟に思いついたありふれた作り話で、なんとか誤魔化せたようだ。志穂は少し嫉妬しているようで嫌味を零した。

 この日はシャワーを浴びて、買ってきたケーキを二人で食べて、何事もなく解散した。

 そういえば、タオルを貸してくれた女性の連絡先を聞いていなかった。あの場所にはよく行くと言っていたし、なんとかなるだろう。


    *


 翌日。仕事の休憩中に、あの場所に行ってみることにした。

 彼女が帰ってからすぐにタオルを洗濯し、乾燥機にかけて、いつでも返せるようにと持ってきていた。昨日、東屋で会った彼女は、よくあの東屋にいると言っていた。もしかしたら今日もいるかもしれないと思った。

 仕事がひと段落したので、さっそくタオルを持って会社を出た。

 今日は晴れだ。

 会社から実際に歩いてみると、一〇分とかからずに鳥居の前まで辿り着いた。小さな鳥居をくぐり、道なりに進んでいく。階段を上り、平坦になり、下る。やがて紫陽花の群が現れ、鳥籠のような東屋が見えると、顔に一雫の水が落ちてきた。空を見上げると、さっきまで青空だったのだが、今は暗い雲が覆い、そして雨を降らせた。

「今日、天気予報晴れだったのに」

 せっかく洗濯してきたタオルも濡れてしまう。

 急いで東屋に駆け込んだ。

 短距離のダッシュにも関わらず息は上がり、両膝に手をついて肩で息をした。

「せっかく洗濯したのに」

「また濡れちゃったの?」

 顔を上げると彼女がいた。そしてその横には、あの人を蔑むような顔をしたサビ猫の姿もあった。

 猫は好きだが、こいつはなんだかイラっとする。

「すみません、洗濯してきたんですけど濡れちゃって。また洗って出直しますね」

「気にしなくていいのに。今日はお仕事? 今は休憩中なのかな?」

 スーツ姿を見て心配そうに見つめてきた。

「そうです。会社はこの近くなので、すぐ戻れるので大丈夫ですよ」

「あらそう? でも、この雨じゃ……」

 サァァァアアア——

 本降りのようだ。

「少し雨宿りしていったら?」

 彼女は口元に手を当ててクスクスと笑っていた。

「そうします」

 今日も雨の中、静かな時間が始まった。



「えっと、あー……。そういえば名前なんていうんすか?」

 今日も読書に夢中になっている彼女の横でスマホをいじっていた隆雅だったが、出会って二日目のほぼ初対面の女性と二人きりでは、気不味くて喋らずにはいられなかった。

 彼女は大きな目を更に見開いて瞬きをし「そういえば言ってなかったね」と、はにかみながら答えた。

「平塚巴。清らかで美しい子にって両親がつけてくれたのよ。あなたは?」

「津田隆雅」

「たかまさ……じゃあ、まーくんだね!」

 隆雅は一瞬だけ自分の片頬が引き攣ったのを感じた。志穂と同じ呼び方だ。

「なんでですか?」

「たっくんだと子供っぽいけど、まーくんだと優しそうな雰囲気にならない? イメージぴったりだなと思って。どうかしたの?」

「いや、俺、彼女いるんですけど、そいつと同じ呼び方するから。なんでかなって思って」

 巴の片頬も引き攣ったように見えた。

「彼女さんいるんだね。彼女さんはなんでまーくんって呼んでるの?」

「なんとなくって言ってたかな」

「ふーん、そっか。彼女さんいるのに、まーくんは知らない女と度々密会を繰り返していたのか。悪い子だなー」

 巴は悪戯に笑った。

「い、いや! まだ会うの二回目ですし、密会って……。浮気とかじゃないですよ? あれ、違いますよね?」

 焦って弁解しようとして第一声が裏返ってしまった。そしてこの状況に不安になり、つい疑問形になる。それがおかしかったのか、巴は口元に手をあてて再びクスクスと笑った。彼女はよく笑う。

「慌てすぎ。浮気じゃないに決まってるわよ。まさか、私に会って気持ちが浮ついてるの? それはそれで嬉しいんだけど」

「浮ついてないですよ! あ、いや、嬉しくないわけじゃないんすけど、それとは違って」

「どうせ家で、貸したタオルの匂いでも嗅いでたんでしょう?」

「そんなことするわけないじゃないですか!」

 巴は笑い続けている。目尻に涙まで浮かべて。隆雅は声を荒らげて抗議した自分が恥ずかしくなり、小さくなった。

「ごめんごめん、冗談よ。面白いからからかっちゃった」

「語弊を招くこと言わないでくださいよ」

 すっかり萎れた隆雅は、口を尖らせて項垂れた。巴の向こうから、サビ猫が相変わらずの表情で覗いている。

「ごめんってば。あ、ほら、雨やんできたわよ。仕事の休憩時間も残り少ないんじゃない? タオルなんていいから早く戻りなさいよ」

 巴に言われて東屋の外に視線を向けると、激しく地面を打っていた雨はすっかり小降りになっていた。

「必ずタオル返しますから。また来ますからね」

 隆雅は腰を上げ、サビ猫を一瞥すると、霧雨に近い雨の中を駆け出した。「お仕事頑張ってねー」と、呑気な巴の声が追いかけてきた。


    *

                                 

「彼女さんとは長いの?」

 読書に夢中だったはずの巴が、いつの間にかこちらを見つめていた。

「五年くらいっすね」

「五年? 長っ!」

 驚きながらも嬉しそうな、でも悩ましげな表情を浮かべ「結婚しないの?」「最近ちゃんとデートしてる?」「マンネリ状態になってない?」などと質問攻めをしながら詰め寄ってきた。

 今日はタオルを返そうと試みた四回目なのだが、天気予報は晴れなのに、今現在、東屋を取り巻くのは湿気を纏った雨だった。

 今度来る時は天気予報が雨でも傘を持ってこよう、と隆雅は心に誓った。

 仕事の休憩時間に会社を抜け出して、コンビニで昼食を買い、東屋で食べることにした。そしていつものように、この鳥籠のような東屋で雨宿りをしながら、無愛想なサビ猫を横目に、巴と他愛もない話をしているところだった。

 いつもは大人しい巴だが、今日の彼女は隆雅の恋人に興味があるようで、隆雅は質問攻めにあっている。

「なんで巴さんが心配してるんですか。んー……、結婚はまだ考えられないですね。デートも最近はしてないな。家でだらだら過ごすことが多いかも」

「ああ、雨男だもんね」

 悪戯に笑う巴に「違いますよ!」と、言下に否定の言葉を投げた。

 だが巴も負けじと即座に反論する。

「でも、まーくんが来る度に雨が降るんだもん。晴れてても雨が降りだしたら、まーくんが来る合図みたいに正確よ。天気予報よりね」

「いや、それはこっちのセリフですよ。俺がこの場所に近付くと雨が降りだすんです。そしたら案の定、巴さんがここにいるし。絶対巴さんが雨女なんですよ」

「じゃあ検証しよう。まーくんが彼女さんと遊園地デートの約束をして、その日に雨が降ったらまーくんが雨男。降らなかったら私が雨女」

「いいですよ。じゃあ今度の日曜日に彼女誘って……あれ? なんで俺、彼女とデートすることになってるんですか」

「いいじゃん。雨男じゃないって証明ができるし、最近行けてないデートにも行ける。一石二鳥だよ」

 巴が何を考えているかはわからないが、彼女の策略にうまく誘導されてしまったような気がする。その証拠に、彼女はとても楽しそうにサビ猫を抱き上げ、膝の上に乗せて頭を撫でている。

 隆雅は仕方なく、その策略にはまってやることにした。

「まあ、いいですけど。遊園地か……久しぶりだな」

「よし、決まりね。次会った時に結果聞かせてね。あ、日曜日の天気を見ておけばいっか。楽しみだね。今日はこのあと用事あるから、先に帰るわね」

「あ、はい。じゃあ、また」

 隆雅が軽く手を上げると、巴は大きく手を振り返した。傘を差して、雨が落ちてくる空を一瞬見上げると、すぐさま走り出して帰っていった。

(天気予報が晴れでも、俺のせいで傘持ち歩くようになったのかな)

 隆雅もコンビニ弁当を急いでたいらげ、早めに職場へ戻ることにした。

(遊園地か……。志穂、予定空いてるかな)

 今日の雨はずいぶんと激しい。通り雨なことを願いつつ空を見上げると、分厚い雲がどこまでも広がっていた。これはしばらく止みそうにない。巴もこの空を見て急いで帰ったのだろうか。雨はだんだんと激しさを増してきた。

 戻る前に連絡しておこうとスマホを開き、早速、志穂宛にメッセージを送った。

『今度の日曜日空いてる? 久しぶりに遊園地でも行かない? ここんとこ家でごろごろしてるだけだったし』

 返事はすぐに来た。

『行く! 楽しみー!』

 ずいぶんと喜んでいるようで、無駄に一〇個のハートが語尾にくっついていた。思わず吹き出し、こちらもすぐに返事をした。

『じゃ、日曜日よろしく。詳しくは追って連絡する』

 返事を送り、スマホをスーツのポケットにつっこむ。どこからかやる気が込み上げてきて、顔が緩んだ。

「さて、仕事頑張るか!」

 気分が良くなった隆雅は意気込みながら立ち上がり、ベンチの上で寝そべっているサビ猫の頭を撫でた。鬱陶しそうに顔をしかめるサビ猫をよそに顔を上げると、あれほど強く降っていた雨が止んでいた。

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