Episode.7 レイニーブライド③



 感情を抑えきれず、沸騰したまま家を飛び出してきたが、そういえば外は雨だった。傘を持ってくるのを忘れてしまった。幸い今は小降りなため、傘を差さなくても歩ける。今更戻るのも腑に落ちないので、興奮を鎮めるためにも、少し散歩をすることにした。

 町中の背の高いビルに紛れる自宅は、一階にコンビニが入っているアパートの一室。外へ出て、アパートの前の歩道を抜けて大通りに出れば、その通りに面した華やかな路面店がどこまでも続いている。さっきのケーキもこの通りで買った。

 石畳の道を進むと、徒歩五分の場所には最寄りの地下鉄の駅の入口が、大きく口を開けて人々を飲み込んでいる。

 咄嗟に掴んだ財布とスマホ。この二つさえあれば、何も不都合なことはないはずだ。財布の中身は千円札が三枚。あとは免許証、保険証、ポイントカード……。とにかく問題なさそうだ。

 太陽の光を透かすような灰色の雲。流れは速い。明るい雲からはらはらと小さな雨粒が舞い続けている。本降りになりそうで、でも止みそうで。なんとも曖昧な雨に打たれながら、湿った地面を踏みしめて歩き始めた。

 天気が雨にもかかわらず、休日の昼間は人通りが多い。通行人の間を縫うように歩を進めた。一歩踏み出す度に、靴底が水を弾き、跳ね上がった雨粒がズボンの裾を濡らしていく。

「ん? なんで俺が家を出なきゃいけなかったんだ?」

 雨のおかげか怒りは鎮まり、すっかり冷静を取り戻した頭で考えてみると、おかしな点に気付いた。

「あいつが出てけばいいのに。俺ん家だぞ……ったく」

 苛立ちを覚えた心は、やがて呆れ返り、足を踏み出す度に冷静さを取り戻す。気分転換にはいいかもしれない。それに一人の時間ができたわけだ。

 目の前に迫った地下鉄の駅の入口へ吸い込まれるように歩いていき、階段を下りた。体が覚えている感覚に身を任せ、ただひたすらに彼女の機嫌をとるためにはどうしたらいいか、自分の時間を手に入れるにはどう話したらいいかを考えながら歩いた。

 体は勝手に改札を通り、電車に乗って二駅先で下りた。職場へ向かうルートだ。無意識にいつもの通勤ルートを辿っていたことに気付き、周囲を見渡すと、石畳の歩道の両側に飲食店やアパレルショップ、雑貨店など、様々な路面店が立ち並ぶ町中にいた。

 休日に職場の近くへ来るのは、なんだか嫌な気分だ。

 建物を挟んで一本向こうには広い車道があり、ひっきりなしに車の走行音が聞こえてくる。すれ違う人の声も耳に入り、一気に現実に引き戻された。聴覚と共に嗅覚も冴え、僅かな変化を感じた。

(あ、雨のにおいだ)

 改めてそう思った瞬間、鼻先にぽたりと大きな雨雫が落ちてきた。空を見上げると、いつのまにか薄い雲は流され、どんよりとした分厚い雲に覆われていた。本降りになりそうだ。一度降り出したらしばらく止みそうにないことを確信すると、雨宿りができそうな場所を探すために歩き出した。

 どこか雨を凌げる場所はないか、両側に建ち並ぶ路面店を覗く。ガラス越しに店内の様子をうかがうも、ゆっくりできそうな喫茶店はどこもいっぱいだ。それどころか飲食店以外の店内も混雑していて、中へ入っても窮屈そうだ。今日は日曜日か、と人の多さで思い出す。

 できれば座れる場所がいいんだけどな、と道沿いの店をしらみ潰しに確認しながら足早に歩む。長時間立ちっぱなしで雨が止むまで待つのは辛い。

 雨が強くなってきた。職場の近くとはいえ、通勤以外ではあまり訪れないので、雨宿りできそうな場所がどこにあるかわからない。

 路地を曲がり、少し狭い道に入ってみた。

 高いビルに日の光が遮られ、薄暗くて不気味に感じた。人の気配がなくなり、店も、雨宿りできそうな場所もなく、しまったと思って引き返そうとした。

 すると足元に、どこからともなく一匹の猫が現れた。鋭い眼光をぎらつかせたサビ柄の猫だ。丸顔で可愛らしいフォルムだが、目つきだけが悪い。目を奪われたようにしばらく見つめていると、サビ猫の口の端がつーっと引き上がり、嘲笑った。かのように見えた。驚いて何度も瞬きをしてサビ猫の顔を見たのだが、どう見ても人をバカにしているような、哀れみを帯びた視線をこちらに向けている。

(なんだこの猫は。感じが悪いな)

 雨に降られ、なぜか猫に哀れみの視線を向けられ、すっかり気分を悪くした隆雅は、身を翻して大通りに戻ろうとした。

 一歩踏み出した瞬間に、さっきのサビ猫が煽るように目の前を走り抜けて視線を奪った。その動きにつられて猫の姿を目で追うと、サビ猫は狭い道の奥に向かって走り、途中でぴたりと静止して振り返り、「ついてこい」とでも言うように顎を突き出して示した。そして左の方へとことこと歩きだして姿を消した。

 放っておけばいいのに、すぐに大雨を降らせるであろう雨雲を一瞥し、猫のあとを追った。まるで人間のような表情を浮かべたサビ猫が気になって仕方ないのだ。

 猫についていったら猫の集会所へ案内されたとか、プレゼント(ネズミの死骸)を貰ったとか、迷子になっていた時に道案内されたとか。プレゼントはいらないが、猫に助けられたという不思議な噂が脳裏をよぎってしまった。隆雅はほんの少しのロマンチックな期待を胸に抱き、好奇心に侵されながら駆けだした。

 雨が強くなる。ビルの間に入り込んできた大きな雨雫がぽたりと落ちるたびに、体温を奪いながら肌を濡らしていく。

 サビ猫が曲がった場所まで来ると、薄暗く寂しげなビルの間に、突然、鮮やかな朱色の鳥居が現れた。冷たいコンクリートの建物に挟まれ、ひっそりと佇む鳥居は、大人はかがまないと通れないほどの小さなものだった。鳥居から先には、ごつごつとした石畳が奥まで伸びており、その両側は生い茂る緑で埋め尽くされている。かがんで鳥居の向こう側を覗くと、数メートル先には上り階段があった。階段の先は建物の間に隠れるように曲がっていて見えない。猫の姿もない。全身を打つ雨が更に強くなってきた。

「何もなかったら恨むかな」

 勝手に幻想を抱いておきながら、理不尽な脅しの文句を残して鳥居をくぐった。足場の悪いごつごつとした石畳は雨でよく滑る。強い雨に焦り、足を滑らせないよう慎重に、かつ早足で進む。そして一段一段が高い石の階段を夢中で上る。大粒の雨が降り注ぎ、服に染みを作っては広がっていく。靴は雨水を存分に吸収し、ぐじゅぐじゅと嫌な音を立てながら足を引っ張る。

 肌にへばりつく衣類を不快に感じながらも、くねくねと曲がる石の階段を上り、平坦になり、少し下る。まるで迷路の中を歩かされているような感覚に不安になり、全くの別世界に飛ばされてしまうのではないかという恐怖と、だがそれと同等の好奇心が押し寄せる。

 サビ猫の、人を嘲笑うかのような表情を思い出し、引き返してなるものか、と歩み続ける足に一層力を込めた。

 どれほど歩いただろうか。気付けば窮屈だった道幅は少し広くなり、道の両側にはブルーやピンク、バイオレットなど、色とりどりの紫陽花が咲き乱れていた。白や赤、薄い緑も混在する美しい紫陽花たちは、ビルの影に隠れているおかげか、太陽の光に花弁を焼かれることなく、どの紫陽花も艶やかで、そこら一帯を埋め尽くしている。

 これほどまでに多彩な紫陽花が混在する景色は今までに見たことがなかった。この幻想的な光景に感嘆し、やはり別の世界に導かれてしまったのかもしれないと思いながら視線を上げた。目前には鳥籠のような小さな東屋が現れた。まるで秘密基地みたいだと思った。

 屋根がある場所を見つけ、これで雨宿りができると安心した。ずいぶん濡れてしまったが、濡れ続けるよりは幾分かマシだろう。職場の近くだというのに、こんな場所があるなんて知らなかった。そもそもビルの間の狭い路地に入ることすらなかったのだが。

 ここに入り込む前に小さな鳥居があったが、どうやらこの東屋が最奥の場所らしく、神社などは見当たらない。考えるよりも雨を凌ぐ方が先だ、と急いで駆け込んだ。

「やっと雨宿りできる! うわー……、びしょ濡れじゃん。それしにしても、さっきのサビ猫はいけすかない顔だったが、幸運の猫だったみたいだな」

 意味が無いことはわかっているが、服の裾を絞ってみる。そこから滝のように流れる雨水を見つめていると、

「大丈夫?」

 と、ハッキリとした女性の声が聞こえた。

 人の気配を感じなかったので、驚いて勢いよく振り返った。そこには椅子から中途半端に腰を浮かせ、肩にかかるストレートの黒髪を湿気で膨らませながら、戸惑いつつも様子を伺う女性がいた。左手に文庫本を持ち、右手は行き場に迷っているのか変な位置で浮いている。歳は同じくらいだろうか。

「うわ! す、すんません。人がいると思わなくて騒がしくしてしまって」

 声が裏返り、それが恥ずかしくて顔が熱くなった。その様子を見た彼女は目を丸くし、そして口元に手を当ててクスクスと笑った。

「よかったらこのタオル使って。私は濡れてないから要らないわ。風邪引いちゃう」

 彼女は、バッグから取り出した水色の花柄のタオルを押し付けてきた。勢いに押し負けて受け取ったタオルで、濡れた髪や肌を拭った。

「あ、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 にっこり微笑んだ彼女は、ベンチに腰掛け、手に持っていた文庫本を開いて自分の世界に入り込もうとしていた。

「あの、これ洗って返します。ここへは、よく来るんすか?」

「気にしなくてもいいのに。でも、この場所はよく来るの。だからもし、また会えたらその時に返してくれればいいわ」

 柔らかく微笑んだ彼女との間に、ふっと風が吹き抜けていった。軽やかに舞った彼女の長いスカートの裾から、華奢なふくらはぎが覗く。その細く綺麗な肌に、腐った果実のような緑色の痣が見えた。

「足、大丈夫ですか? ぶつけたんすか?」

 目線を辿り、それがふくらはぎに向けられていることに気付くと「そうなの、箪笥にスライディングしたの」と笑っていた。

 反応に困り、微笑した。「隣、座っていいですか?」と許可を得て腰掛けようとして、彼女の向こう側にさっきのサビ猫を見つけた。

「その猫」

「ああ、この猫ちゃん、いつもここにいるの。ここの守り神かもしれないわ」

 そう言って彼女は、東屋の外に視線を向けた。ビルの壁と東屋に挟まれる狭い場所、そこには小さくて存在感の薄い社が、雨に打たれながら佇んでいた。

「やっぱり神社なんですね。入り口に鳥居があったのに社が見当たらないから不思議に思ったんですけど、こんなところにあったなんて」

 鳥居から伸びた細く入り組んだ道を辿って来ると、目の前に現れるのは鳥籠のようなこの東屋で、小さな社は東屋の影に隠れてしまう。誰が何のためにわざわざ社の前に風変わりな東屋を作ったのかはわからないが、迷路のような入り組んだ道と、建物の中に隠された小さな社と東屋は、まるで秘密基地。心の奥底にしまいこんだ子供心をくすぐられるようで興奮した。

「本当、不思議な場所よね。普段は誰も来ないから、静かで落ち着く場所なの。猫ちゃんがいるから寂しくないし。外の紫陽花も不思議でしょう? あんなに綺麗でいろんな色の紫陽花が一緒に咲いているところ初めて見たわ」

 彼女も同じことを感じていたようだ。多彩な紫陽花が混在する幻想的な景色は、確かにあまり見ないものだ。土の性質により花弁の色が変わると聞いたことがある。酸性だと青く、アルカリ性だと赤系の色に。花弁の色の変化は、これ以外にも様々な要因が影響しているらしいが、これほど違いがでるものなのだろうか。

 この場所は本当に現実の世界なのかと、少しだけ疑問に思った。

 彼女はそれきり読書に没頭していた。

 激しく雨が地面を打つ音が聞こえるが、横から雨が入り込んでくることはなかった。時折強い風が吹くと、細かい水飛沫が顔につく程度で、不快に思うことはなかった。

 ただ、ベンチに座ってしまったことを少しばかり後悔していた。二人掛けのベンチは狭く、彼女との距離は思ったよりも近かった。というのも二人と一匹なので、サビ猫が居座っていなければ、もう少しゆったりと座れるのだが。

 東屋の中で二人きり。見知らぬ女性の隣に座る機会など滅多にないからか、奇妙な緊張感が漂った。

 彼女との会話もなかった。彼女はひたすら読書に夢中で、その間、気不味さを誤魔化すためにずっとスマホを見ていた。時折、家にいる彼女から着信があったが、その度に腹の虫が疼くので拒否をした。

 濡れた衣類に体温を奪われて凍え始めた頃に、ようやく小雨になったので帰ることにした。スマホの充電も尽きそうだ。

「じゃあ、俺は小雨のうちに帰ります。タオル今度返しますんで」

 文庫本に視線を落としていた彼女は、顔を上げて微笑んだ。

「気にしなくていいわ。でも、また会えることをちょっとだけ期待してるね」

「ありがとうございました。じゃ」

 軽く会釈をし、足早にその場を離れた。少しでも濡れないようにと、借りたタオルを頭に被ると、ふわりと柔らかい花の香りがした。

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