Episode.7 レイニーブライド②



 今日はせっかくの休日だというのに、生憎の雨だ。せめてゆっくり体を休めようと、昼まで寝たかったのだが、彼女から立て続けにかかってくる容赦ないモーニングコールに起こされてしまった。遮光カーテンで閉ざされた真っ暗な部屋で目を閉じたまま、着信音を頼りに手探りでスマホを見つけ、画面に表示された相手の名前を確認することなく応答した。

「もしもーし」

 寝起きの第一声は、乾いた喉を無理矢理こじ開けて絞り出したような掠れ声だった。受話器越しでは、さぞ聞き辛かったようで、

『もしもし、大丈夫? 苦しそうな声だけど。首絞められでもしたの?』

 と、そんな声に聞こえたらしい。

 もそもそとベッドへ潜り、布団の温もりを感じながら、早く電話を切って二度寝がしたいとぼんやり願った。

「大丈夫。それよりどうかしたのか、志穂? こんな朝早くに」

『朝早くって、もう九時よ? 今から、まーくんの家に行ってもいい?』

「えー」

 目を閉じたまま眉間に皺を寄せ、あからさまに嫌そうな返事をし、ベッドの中で身を縮こませて丸まった。

『えーって何よ! 今日は午後からデートの約束してたでしょ? 雨が降ったら、まーくんの家でまったりデートって。今日は雨が降っちゃったから、これからそっちに行こうと思って。少し早いから一応電話したのよ?』

 少しばかりじゃない。正午を回るか回らないかではかなり違う。予定が午後からだと昼まで寝れるというのに。

 寝起きに聞く女性の甲高い声はどうも苦手だ。脳に直接、警鐘を鳴らされているかのように響く。思わずスマホを耳から遠ざけた。でも聞こえなくなるので、すぐに耳に近付ける。意味が無いことは承知の上だが、反射的にだ。

「あー、じゃあ十一時まで待って。今起きたところだから、これからシャワー浴びるし、部屋も片付けたいし」

 受話器越しに、だいぶ渋るような呻き声が聞こえ、たっぷり悩んだ末に「わかった」と、なんとか了承を得ることができた。思わずガッツポーズをした。

 電話を切り、スマホを枕元へ放り投げて布団にくるまった。休日の睡魔に勝てるはずがなく、また、そのメリットもなく、あと三〇分だけと言い聞かせ、二度寝という至福の時間を過ごすことにした。窓の外の雨音が心地の良い子守唄となり、すぐに眠りに落ちた。



 気がつくと、眩しい光に目を攻撃されていた。寝起きにはあまりにも強い刺激で、思わず顔をしかめ、布団の中へ逃亡しようとした。が、布団を掴もうとした手は虚しくも空振りし、冷たい風が肌を撫でるように吹き抜けていった。

「寒っ!」

 ベッドの中は温かいのだが、この時期はまだ肌寒いので、布団がなくなってしまえば一気に寒くなる。窓が開いていては尚のこと。外から冷気が入り込み、一気に体温は奪われていく。

 眩しさで目は未だに開かず、手探りで掛け布団を見つけようとするも、どこにもない。なぜなら、愛しの掛け布団は奪われていたのだから。

「なんでまだ寝てるのよ。十一時って言ったの、まーくんなんだからね?」

 またこの甲高い声。働く前の脳を劈かれ、無理矢理状況を整理させるために、なんとか思考を巡らせる。一瞬の静寂と、その背景に雨音を聞いて飛び起きた。

「てか雨じゃん! なに窓開けてんの!」

 ベランダのある窓へ視線を向けると、小さな体で、丸めた掛け布団を一生懸命に抱え込み、怖い顔を作って睨む彼女——志穂の姿があった。

「大丈夫よ。少ししか開けてないし、屋根があるんだから。風も強くないし雨入ってこないよ。それより、もう十二時なんですけど。どうしてまだ寝てたのかしら?」

「せっかくの休日なんだから、まだ起きたくな——」

 志穂が投げた布団という名の大玉が、せっかく起こした上半身にクリーンヒットし、誘惑だらけのベットへ押し戻された。面倒臭さと苛立ちを感じながらも布団をどかし、睡魔の誘惑にも負けずにベッドから下りた。

 志穂はこの部屋の鍵を指先で弄びながら、相変わらずの表情だ。

 合鍵なんて渡すんじゃなかった。

「せっかくの休日なのに。隆雅のバカ」

 志穂は小声で呟きながら、人の家のソファに勝手に寝そべった。彼女が本気で怒っている時はあだ名ではなく、下の名前を崩さず呼ぶ。つい口から溢れそうになった溜め息を飲み込み、彼女を横目に浴室へ向かった。

「とりあえずシャワー浴びるわ」

 返事の代わりに、ソファに置いてあるクッションに突っ伏す音が聞こえた。

(せっかくの休日なのに? それはこっちのセリフだ)

 毎日朝から夜まで仕事をして疲れているのに、休日になれば今度は彼女のお世話? とんでもない。自分の体を休めたり、趣味に没頭したり、有意義な時間を過ごしたい。これが本音だ。

 最近、志穂との時間に価値を見い出せなくなっている。付き合って五年。学生時代の同級生で、互いにいい歳だ。結婚を視野に入れてもおかしくないのだが、こうも毎週会っていては自分の時間がなく、この先を考えられないでいた。一人の自由な時間が欲しいのだが、結婚をすればその願いは更に遠退くだろう。デメリットしか頭にない今はまだ『その時』ではないようだ。

 服を脱ぎ捨てて浴室に入り、シャワーを出す。ほどよい水圧にして温度を確かめてから頭からかぶる。勢いのある水音が、現実世界と遮断してくれるように浴室に響く。彼女がこの家にいる気配も打ち消し、自分の世界へ入り込む。体を伝うお湯が、寝汗やら皮脂やら、倦怠感も一緒に洗い流し、体が軽くなるのと同時に目が覚めてきた。

 ボディソープを手に取り、体を念入りに洗う。耳の後ろから首、脇、陰部、足の指の間。年齢的に体臭が気になってきていた。特に今日は、睡眠の邪魔をした悪魔とはいえ、可愛い彼女が家に来ているのだ。何かがあるかもしれないので一応清潔にしておく。お家デートには付き物のイベントだ。脳が冴えるよりも先に元気になった下半身をなんとか鎮める。

 浴室の扉を少し開き、片手を伸ばして、洗濯機の上に置いておいたバスタオルを引っ掴んで再び扉を閉めた。向こうの部屋で耳を攲てる彼女の気配を感じた。急いで体を拭き、パンツだけ履いて、歯を磨く。

(さて、どうやって機嫌を取ろうか)

 休日をゆっくり過ごしたかったからとはいえ、約束を交わし、時間まで指定したのだから、こちらに非がある状況だ。

 女は面倒だ。一度損ねた機嫌はなかなか戻らない。ケーキでも買ってくるか。いやでも、ここで好みのケーキを買ってこられなければ機嫌は更に悪くなるだろう。好みを聞くのもアウトだ。「五年も一緒にいて、まだ私の好きなもの覚えてくれてないの?」なんて言われて終わりだ。

 考えている間に、口の中に広がった歯磨き粉の泡に喉を刺激されてえずく。そのまま吐き出して口をゆすいで、鏡で自分の顔を確認した。

「よし、目が起きてる」

 志穂の機嫌をとるためのアイデアが浮かぶよりも先に、寒さが襲いかかってきたので、着替えを取りに急ぐ。服は彼女がソファでくつろいでいる部屋にあるクローゼットの中だ。

 バスタオルを軽く腰に巻き、上体を晒しながら部屋へ戻る。学生時代に運動部で鍛え上げた筋肉が、今では乗っかった薄い脂肪に姿を隠している。奥に潜んだ筋肉自体も細くなっているようだ。鏡を見るたびに筋トレをしないとな、と焦るものの、仕事と彼女の相手で毎日が忙しく過ぎていくばかりで、すっかりたるんでしまった。

 扉を開けると、ソファに置いてあったクッションを抱きかかえて丸まった志穂がいた。頬が僅かに膨らんでいる。

 このいじけた姿を見ると、昔は可愛くて愛おしいと思ったのだが、今ではあざとさを感じるばかりだ。

「まだ怒ってるの?」

 志穂を横目にクローゼットへ向かい、手頃な部屋着を引っ張り出す。もぞもぞと動く気配を感じるが、返答はない。

「ケーキいる?」

「いる!」

 即答で飛び起きた。

「何がいい? 買ってくるよ」

「苺のショートケーキ!」

「わかった。すぐ買ってくるから大人しく待ってて」

「うん!」

 ちょろいな、と思った。好みを覚えてないことに怒られるかと思ったが、それも杞憂に終わった。

 ジーンズを履いて、適当に引っ掴んだ長袖のTシャツにパーカーを羽織った。財布とスマホを手に、早速ケーキを買いに行くことにした。

 外が雨だからか、志穂はついてくる気配はない。ソファと一体化したままだ。

「じゃ、行ってくる」

「行ってらっしゃーい」

 この時点ですでに彼女の機嫌はすっかり良くなっているが、仕方なくケーキを買いに外へ出た。せっかくの休日だというのに。まったく、憂鬱だ。



 ケーキ屋は徒歩一〇分圏内にあるので、苺のショートケーキとフルーツタルトを買って戻ってくるのに、三〇分とかからなかった。

 帰宅して、志穂がくつろいでいるであろう部屋に戻ると、彼女は机の前で立ったまま固まっていた。帰宅したことにも気付いた様子がなく、仕方なく声をかける。

「ただいま」

 まったく。せっかく雨の中ケーキを買ってきたというのに。いったい何をしているんだ。

 急に声を掛けられた志穂は、肩を一度だけ大きく震わせ、ゆっくりと振り返った。ホラー映画で、背後にいる幽霊の気配に気付いたヒロインがゆっくり振り返るあのシーンのように。

 彼女の手には、青い何かが乗っていた。隆雅はそれに見覚えがあった。先日、ケースに入れて机の引き出しにしまっておいたはずの物。

「お前、何してるんだ! 人の物を勝手に触んな! しかも、おい……まさかそれ、壊したのか?」

 休日の楽しみで、趣味で作っていたシルバーアクセサリー。その基となる形成段階のワックス——蝋が割れていたのだ。

「だ、だって、まーくん全然かまってくれないし。私を放ったらかしで夢中になるなんて、どんなものか気になって」

「だからって他人の物を勝手に触れていいわけないだろ! ましてや壊すなんて……。お前、自分のスマホを他人に触れられて気分いいか? 悪いだろ。そういうことだよ。わかるだろ」

「……寂しかったんだもん」

「いや、言い訳の前に、まず謝れよ」

 志穂は目を丸くして、それからひどく落ち込んだ。肩を落とし、下を向いたきり動こうとしない。

 大きな溜め息を一つつくと、志穂は肩をぴくりと震わせ、怯えて見せた。その姿さえもわざとらしく、苛立ちを覚える。このまま同じ空間にいては怒りを抑えきれない気がして、頭を冷やしに外へ出ることにした。

 しょぼくれる彼女には特に何も告げず、再び財布とスマホを引っ掴んで無言で部屋を出た。とにかくこの場をすぐに離れたい気分だった。彼女が引き止めに来ないことなんて、どうでもよかった。

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