Episode.7 レイニーブライド①



 〝結婚してください!〟


 の、前って何を言えばいいんだ?



 二〇時。

 今日の仕事中、俺の頭の中を支配していたのはそのことばかりだった。定時で切り上げるつもりが、何度も脳内シミュレーションを繰り返していたおかげで、思いの外仕事が進んでおらず、たっぷり二時間の残業をするはめになった。

 窓の外はすっかり日が落ちて暗くなっている。

 二時間のタイムロスはかなり大きい。

 予定通りにはいかなくなったが、急がねば。この後ずらせない予定がある。

「津田さん、帰るんすか?」

「ああ、あとは頼んだ。俺、今日はこれ以上残れないんだ」

「わかりました。そんなに急いで何かあるんですか?」

「大事な用事だ。じゃあ、お先に」

「お疲れ様です。お気を付けて」

 とっくに定時を過ぎた社内は未だに明かりが点いており、疎らに残った社員たちが各々のデスクにへばりつき、パソコンと睨めっこしている。珈琲の香りと、奥の喫煙室から漏れる煙草の臭い漂う一室に閉じ込められ、与えられた仕事を期日までに間に合うように必死で片付けていく。八時間という勤務時間内では、到底終わらせることの出来ない量を。朝から夜までパソコンと向き合い、ひたすらキーボードを打つ仕事は、目と頭がイカれそうになる。

 椅子に掛けてあったスーツを羽織り、緩めていたネクタイを締めて鞄を引っ掴み、カタカタとキーボードを叩く音の間を通り抜け、奥にある個人ロッカーの前に立った。自分の名前が記されたロッカーを開け、中から小さな白い箱を取り出した。ブルーのリボンで飾られたプレゼント用の宝石箱。それを大事そうに眺めていると、ある人に言われた言葉が脳裏を過ぎった。

『手作りなんて素敵じゃない! 世界にたった一つの指輪だなんて……きっと喜んでくれるわよ』

 複雑な表情を浮かべ、手のひらに乗っかる小さな箱を見つめていたが、はっとして腕時計に視線を落とした。時間が無いことに改めて気付く。宝石箱を鞄の中に優しくしまい、ロッカーを乱暴に閉めて駆け出し、職場を後にした。



 外はとっくに日が落ちていたが、オフィスビルや飲食店が立ち並ぶ町中は、至る所にある街灯や建物の灯りで随分と明るい。仕事を終えて駅へ向かう人、食事へ行く人、人、人……。波のように流れていく人の間をすり抜けながら、目的地へ向かう。

 都会の夜空には星は見えないものの、まん丸の月が淡い光を放ち、優しく見守るように浮かんでいる。本格的な夏を目前にしたこの時期は、湿気のせいでかなり過ごしにくい。すぐに汗が滲み、シャツが脇や背中にへばりつくのが不快だ。

 通り過ぎる車の走行音や、すれ違う人たちの話し声に紛れて、小洒落た石畳の歩道を、規則正しく靴底を鳴らしながら急いで歩いた。予定では定時で仕事を終えて一旦帰宅し、シャワーを浴びて身なりを整えてから向かうつもりだったのだが、うっかりしていた。この後に向かう花屋には『二〇時に』と伝えてある。腕時計を見ると、すでに十分が過ぎていた。歩くペースを乱さず、人や自転車を避けながら、煌びやかな町中を進んだ。



 目的の花屋に辿り着いた頃には、時計の針は二〇時十五分を指していた。

「すみません、遅くなってしまって。津田です」

『close』と札が下げられた花屋のガラス扉を開け、店員の女性に声をかけた。店の表に出していた花を、中へ片付けていたところだろう。店内は花で埋め尽くされていた。

「あら、津田様。お疲れ様です。ご用意できてますよ」

 気立ての良い若い女性店員が、一つに束ねた長い髪を揺らしながら奥へ入っていった。その背中に「ありがとうございます」と声をかけ、目線を店内の花たちへ向けた。薔薇、百合、胡蝶蘭、男でも知っている有名なこれらの花以外にも、見覚えはあるが名前のわからない花が、店中に飾られていた。華やかで夢のような空間で花の香りに包まれ、少し酔いしれそうになる。レジカウンター付近のテーブルには、ラッピング済みのフラワーアレンジメントがいくつか並べられており、足元には、

「紫陽花か……」

 そう呟いた瞬間、奥にいた女性店員が、綺麗に束ねられた薔薇の花束を抱えて、ひょっこりと顔を出した。

「あら、紫陽花お好きなの?」

 突然声をかけられ、驚いて顔を上げた。

「いえ……、この前までよく見かけましたから」

「梅雨の時期は公園とかにたくさん咲いてましたよね。うちの店にある紫陽花もここにあるのが最後なんですよ。一緒に買っていかれますか?」

「いえ。あ、花束綺麗ですね。ありがとうございます」

「大事な日ですもの、私も張り切っちゃいましたよ」

 無邪気な笑顔で花束を差し出す彼女には、花屋という仕事がピッタリだと思った。

「頑張ってくださいね」

「ありがとうございます」

 花束を受け取り、軽く会釈し、入口のガラス扉に手をかけた。

「あの……、また来ますね」

 ガラスに映った自分の姿を眺めながら、花屋の女性店員に一言残し、そのまま振り返らずに店を出た。背後で彼女が優しく手を振る気配を感じながら。



 外の空気は、いつもよりほんの少し湿気を帯びているように感じた。空を見上げると、相変わらず淡い光を放ち続けるまん丸の月に、薄い雲がかかり始めていた。月に模様を描きながら流れていく雲を見て、今夜は降らないでくれよ、と願いながら次の目的地へ急いだ。

 花屋からはそれほど離れていない。五分も歩けば着く場所だ。

 待ち合わせ時間は二〇時三〇分。ギリギリだ。

 待ち合わせ場所は、都会の中に突如現れる大きな森の中にある。正しくは、森ではなく森林公園だ。中央にある大きな池が特徴的なこの公園は、都会の喧騒を遮るように周囲を木々で囲まれている。広い公園のいたるところには、四季に合わせて色とりどりの花が咲き、寛げるよう所々にベンチが設置されている。散歩コースとなる歩道もある。

 早朝から夕方は、ジョギングや犬の散歩コースとして多くの人が利用するため賑わいをみせている。アスレチックなどの遊具があるわけではないが、子供たちもボールを持ってきたり、自転車に乗ったり、中にはゲーム機を持ち寄りベンチに座ってゲームをするなど、それぞれ自由に遊んでいる。

 四方を背の高い木で囲われているとはいえ、昼間は人通りも多く、日が当たるので明るい。だが、夜になれば人通りは一気に減少し、街灯が寂しく照らすだけの静かで薄暗い空間となる。ベンチには仲良さげなカップルがいたり、家路を急ぐ人が近道として公園内を通過するくらい。

 この広い公園の中には、昼間でも人通りの少ない——というより誰も来ない場所がある。公園内の歩道から逸れて奥へ進むと、最も木が密集している場所がある。その中には、ひっそりと佇む小さな東屋がある。そこが待ち合わせ場所だ。看板も、公園の案内地図にも記されていない、舗装されていない細い道を進んでいくと顔を出す。誰が何のために建てたのかもわからない。まるで秘密の鳥籠のような場所だった。ここは彼女が教えてくれた場所だった。手作りの指輪が素敵だと言っていた彼女が。



 公園の入口に着いた時には、腕時計の針はすでに二〇時三〇分と約束の時間を指していた。

 入口に立ち、辺りを見渡してはっとした。

(あれ? 夜ってこんなに暗いのか?)

 下見などしていなかった。公園の中にいくつもの街灯があることは昼間に確認済みだったが、予想外に暗かった。待ち合わせしているあの場所には、街灯はあっただろうか。

 強く地面を蹴って駆け出した。広い公園内を全力で走り抜け、待ち合わせ場所のある公園の最奥へ向かったが、心配は杞憂に終わった。

 東屋の近くまでくると、街灯が周辺を淡く照らしていて、他の場所と然程変わらない明るさだった。

 東屋のある場所は、まるでその場所を気取られぬようにと、人の身長ほどある木々がぐるりと囲っていた。東屋へと続く細い道の両側にはブルーの紫陽花が咲き、迷わぬよう道案内するかのように奥へ続いていた。

 先日、天気予報では梅雨明けを報じ、初夏の気候に変わり始めた。今はまだ花弁が焼かれることなく、艶やかなままの紫陽花が咲き誇っているが、強い日差しが照りつけるようになれば、この紫陽花たちももうすぐ萎びるのだろうか。

 舗装されていない足場の悪い地面を踏みしめ、紫陽花たちに導かれながら進んだ。屋根が見え、やがて開けた視界に小さな東屋が現れた。その中にぼんやりと人影が見える。

「志穂!」

 線の細い人影に確信を持って呼びかける。名前を呼ばれた女性が振り返り、ゆっくり立ち上がった。

 街灯の逆光で顔が見えないのだろう。目を凝らし、確認するように応える。

「まーくん?」

 彼女の傍に駆け寄り、街灯の元、互いに確認するように目を合わせた。無事でいることに安堵の吐息をついた。

「ごめん、待った? こんなに暗いなんて思わなくて。怖かっただろ? 大丈夫か? よくこの場所わかったな」

「うん、大丈夫だけど……あの、どうしたの? その花束」

 言われて気付いた。はっとして視線を落とすと、自分の右手には花屋で受け取った薔薇の花束が握りしめられていた。これは、今目の前にいる彼女のために用意したもので、決して疚しい物ではない。見つかっても問題はない。だが、できれば彼女より先に着いて、東屋の椅子の下にでも隠して、サプライズみたいに渡したかった。

 だいぶ前からシミュレーションしていたことは、残業した時点で狂い、今こうして崩壊した。ここからはアドリブだ。伝えたかった言葉は結局まとまらず、今言える言葉は一つしかなかった。

 意を決して深呼吸を一度だけした。

 訝しげに見つめる彼女の双眸を見つめ返し、薔薇の花束を差し出した。

「俺と、結婚して下さい」

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