Episode.5 春色の絨毯に蜜の香り



 ここは私の秘密の場所。

 町外れの山の中に、ぽっかりと穴が空いたような窪地がある。そこら一帯を覆い尽くすのは春色の絨毯——蜜蜂たちが真っ白なドレスで着飾って踊っているような、マーガレット畑だ。

 木々が囲い隠すようにしてできた開けた場所で、中央に大きな木が一本だけ、小さな花たちを見守るように鎮座している。

 私はここで一人で過ごす時間が好きだった。春の匂いに包まれ、時折、蜜蜂が上機嫌でぶんぶんと歌いながら通り過ぎる。木々の囁き声や、流れる白い雲、柔らかに笑う太陽。人の気配は一切ない。

 平日は毎日学校へ。休日は部活やバイト。忙しなく過ぎていく日常に疲れた時、この秘密の場所は、あたたかく迎えてくれるのだ。

 春の陽気なそよ風に導かれるように、今日もここへ辿り着いた。

 学校であった嫌なこと、部活での疲れ、バイトで働く度に経験する理不尽さ。この場所に来ると、全てがちっぽけな悩みだと思える。どこまでも広がる空や、高々と聳える木々、そして凛々しく咲く花たち。自然に囲まれていると、人間の社会なんて小さな世界だなと思った。

 だが一つだけ、小さな悩みとして片付けられないことがある。それは儚い恋の悩みだった。

 相手は仲の良いクラスメイト。気持ちを伝える勇気がなく、その後に訪れるかもしれない関係の変化に怯え、なかなか第一歩を踏み出せないでいた。

 穏やかな風が髪を撫で、白い花弁と共に舞い上がった。微かな蜜の香りと花粉が鼻腔をくすぐる。むずむずと鼻を鳴らしながら、遠くを眺めて黄昏た。

 ふと、足元に揺れる一輪の花が視界に入り、「そうだ!」と目を輝かせ、パチンと手を打ち鳴らした。

「ごめんなさい」

 そう言って、一輪のマーガレットを摘み取った。

「……好き」

 ひらり。

「……嫌い」

 ひらり。

 花弁を一枚一枚引っ張る。

 静かに舞い落ちる白い花弁とともに、切ない声音も零れ落ちていく。花弁が減るにつれ、緊張感が漂い、手に汗が滲む。

「好き」

 ひらり——

「お前、何してるんだ!」

 突然、空から人の声が降ってきた。

 驚いて周辺を見回したが人の姿はない。おそるおそる頭上を見上げると、花を見守るように鎮座する大きな木、その上に一人の少年がいた。一番下の太い枝の上に立ち、生い茂る葉の間から差し込んだ太陽の光を受けて、金色の髪がきらきらと輝いていた。

 目を凝らして見上げていると、彼はもう一度叫んだ。

「おい! 聞こえないのか?」

 彼は木の上から飛び降りた。ずいぶんと高い位置から、重力を感じさせないくらいに優しく落ちてきた。

 そっと着地した彼は、私の手から花弁の欠けたマーガレットを奪った。

「花が可哀想だ。お前、何してたんだよ。一枚一枚花弁を引きちぎるなんて残酷な」

 呆気にとられて彼を見つめていたが、はっとして自分の頬を両手で包んだ。花占いをしていたところを見られてしまった。それに気付いて、次第に頬が熱を帯びていくのがわかる。

 恥ずかしさから言い訳をしようとしたが、彼の鋭い棘のような双眸が、それを許さなかった。彼は花占いをしていたことをバカにしているわけではなく、命ある花を摘み取ったことを咎めているのだ。真っ直ぐな瞳から視線を逸らすことが出来ず、素直に反省した。

「ごめんなさい。花占いをしてたんです。好きな人がいて、彼が私のことをどう思っているか、占ってたんです。こうして……」

 先程の仕草を真似て、花弁を一枚ちぎった素振りをし、好きか嫌いかを呟いて説明した。頬がどんどん熱くなる。

 それを真剣な眼差しで見ていた彼は、呆れ顔で苦笑した。

「お前ってバカなんだな。そんなの直接確かめりゃいいじゃないか」

「そっ……!」

 それができれば苦労しないのだ。告白してしまえば、今の関係には強制的に終止符を打たれ、運が良ければ今よりも良い関係を築けるが、運が悪ければ全てがなくなるのだ。

 風がさらりと吹き抜けた。

 何も言い返せず項垂れていると、彼は足元の花を一輪摘み取って、ぶっきらぼうに差し出してきた。

「これでおあいこだ」

 さっきは花のことを思って、あんなに怒っていたのに。花弁をちぎって怒られたことに落ち込んでいると思ったのだろうか。

 その的外れな彼の思いやりは、沈んだ心に小さな光を灯していった。

「ありがとう」

 思わず笑ってしまった。

 一輪のマーガレットを受け取ると、彼は安堵し、「もうちぎるなよ。花も生きてるんだ」と言い残して木の上に戻っていった。その様は、まるで羽でも生えているかのように軽やかだった。樹木の生い茂る葉の中に隠れるように消えていった。葉が数枚、はらりと舞い落ちてきた。春の香りに鼻腔をくすぐられる。

 後を引く気恥ずかしさに、その場を足早に離れた。陽気な子鳥のさえずりと、風に揺れる木々や花たちのささやき声が聞こえたが、まだ見られているような気がして振り返ることはできなかった。



 翌日も秘密の場所へ向かった。

 あの春色の絨毯で埋めつくされたマーガレット畑がある場所は、山の中——人の気配がない、舗装された道すらない、足場の悪い獣道に体力を奪われ、えっちらおっちらと重たくなる足に鞭を打って、やっとの思いで登った先にある。

 初めてマーガレット畑を見つけたのは偶然だった。去年だ。嫌な出来事があり、現実逃避に山へ逃げ込んだ。そんな些細なきっかけでずんずん山の奥へ進み、序盤で見つけた細い獣道を辿り、導かれるようにマーガレット畑のある場所に着いたのだ。その美しい光景に魅了され、後に通うことになった。

 ただ、行きはよいよい帰りは怖いとはよく言ったもので、夢中になっていた行きは気付かなかったが、帰り道、よく見れば高い木々が立ち並び、生い茂る葉に空からの光を遮られた山道は、薄暗くしっとりとしていて不気味だった。家に帰れるのかと不安になったが、そんなに距離はなかったので、怯えながらも無事に帰宅したのを今も覚えている。

 今でこそ、意気揚々と行ったり来たりしているか、当時はとても怖かった。懲りずに再びマーガレット畑を訪れた自分を賞賛したいほどだ。

 そうでなければ今もこうしてあの場所へ向かうことはなかっただろう。

 春の山の中は少し肌寒い。木々の間をすり抜ける風が、細い枝や葉を踊らせていく。一歩踏み出す度に、地に落ちた枯葉や柔らかい土が声を上げる。その度に鼓動も高鳴る。

 昨日の少年は今日もいるだろうか。金髪で甘い香りを纏ってきた不思議な彼は、今日も木の上から春色の絨毯を眺めているのだろうか。

 樹木の生い茂る葉の隙間から差し込む僅かな光が、ちらちらと零れ落ちてくる。顔を上げると、前方には幹の間から差し込む眩しい陽の光が見えた。

 もうすぐだ。

 前方の光に吸い寄せられるように黙々と足を踏み出した。重たくなった両足のことなど忘れて、金色の彼の姿だけが頭の中を埋め尽くしていた。



 秘密の場所へ辿り着くと、やっぱり少年は木の上にいた。優雅に踊る花たちの間を慎重に進み、中央に鎮座する大きな木の元へ歩み寄る。

「また来たのか」

 すぐこちらの気配に気付いたようで、木の上から彼の荒い声が降ってきた。今日も太陽の光を受けて、金色の髪が揺れている。

「お話をしましょうよ」

 彼は不機嫌そうに顔をしかめたが、あっさり木の上から舞い降りて隣に座った。

「何しに来たんだよ」

 しかめっ面で、目は合わせずに問いかけてきた。なぜか身じろぎしたり、視線を泳がせて落ち着きがない。緊張しているのだろうか。

 質問に答えず、その様子を眺めていると、痺れを切らしたのか再び問い重ねる。

「お前もしかして毎日来る気か?」

 少し苛立ちを帯びた声音で、相変わらず視線は泳いだまま返事を待っている。その姿が少しだけ面白く、可愛らしい一面もあるんだな、と思った。

「こんなに素敵な花畑なんだもん。また来てもいいでしょう? それに、去年も何度か来てるのよ?」

 突然、彼が得意げに胸を張った。

「そうだろう? ここは俺が作ったんだ。何年も何年もかけて……」

 遠い目をして一面の花畑を眺める少年の横顔を盗み見た。

 何年もかけて……。

 幼い頃から花を植えていたのだろうか? ご家族の手伝いをしていたとか。ここは彼の家の私有地なのだろうか。だとすれば、勝手に踏み入ってしまって申し訳ないなどと思考を巡らせていると、少年が急に立ち上がった。

「お前、木登りできるか?」

 機嫌がいいのか、眩しい笑みでこちらを見下ろしている。

「子供の頃はしたことあるけど……」

「じゃあ、できるな。こいよ!」

 そう言って、勝手に手を取り木の元へ強引につれていかれた。そして先に登り始めた彼が振り返った。

「早く来いよ。いいもの見せてやるから」

 得意げな顔で手を差し伸べる。その手を掴むと、思った以上の力でがっちりと掴み返された。そのまま上へ上へとぐいぐい引き上げられる。太い幹の僅かな凹凸に片足ずつ引っ掛けて、片手で木にしがみつく。それほど力を入れなくても、彼の力強い引きが、木の上へと誘ってくれた。

 太い枝にたどり着くと、横に並んで座った。そして、下を見て感嘆の吐息を漏らした。

「……綺麗」

 やっとの思いで口から出たのは単純な言葉だった。

 目下に広がるのはマーガレット畑。上から見たその姿は、春色の絨毯が敷き詰められた会場で開かれた舞踏会のようだった。真っ白な衣装で着飾った蜜蜂たちが踊っているかのように、マーガレットの花たちが、太陽の光を受けながら揺れ踊る。

「綺麗だろう? ここまで広げるのに苦労したんだ」

 遠い目をした少年は、急に大人びて見えた。

 そんな彼に何も言えず、ただ、楽しそうに踊る花たちを眺めていた。

 それから私の秘密の場所は、二人の秘密の場所になった。



 翌日も、その翌日も、飽きずに足を運んでは、他愛もない話をして過ごした。

「そういえばお前、去年もここに来てたって言ってたな。今までも花弁がちぎられてたことあったけど、まさか今までのもお前が……」

 ぎくり。

 驚くほど心臓が跳ねるのがわかった。彼にも鼓動が聞こえたようで、

「やっぱりな。どんだけ片思いしてんだよ。さっさと伝えちゃえばいいのにさ。ビビリだな」

 もっともなことを言われてしまった。

「うるさいなあ」

「あはは」

「笑わないでよ」

 毎日登っていると、木登りもずいぶんと上手になった。

 木の上から見下ろす春色の絨毯は今日も綺麗に揺らめいて、蜜蜂たちも陽気に踊っている。春の風に揺れる金髪と、漂ってくる甘い蜜の香りにも慣れてきた。

 陽が傾き、そろそろ帰ろうかなと木から滑るように降りる。彼もふわりと落ちてきた。

「ねえ」

 声をかけると、彼が無言で振り向いた。

「いつもここにいるよね」

「この場所が好きだからな。退屈しないし」

「私が来るから?」

「は? ちげーよ。お前なんて興味ないし好きでもないからな」

「そこまで言わなくてもいいじゃない」

「じゃあ試してみろよ、お得意の花占いで」

「花占いしたら怒るくせに」

「今日は許す。ほら、やってみろ」

 ずいっと突き出した手には、いつの間にか一輪のマーガレットが握られていた。

 仕方なく受け取り、花弁をちぎり始めた。

「好き」

 ひらり。

「嫌い」

 ひらり。

 花弁が儚げに舞い落ちる。

「好き」

 彼はどうしてまた急に花占いなんて勧めたんだろう。

「嫌い」

 最初はあんなに怒っていたのに。

「好き」

 少年がじっと見つめてくる。

「嫌い」

 手のひらに汗が滲む。

「好き」

 手が震える。

「……嫌い」

 最後の一枚が、はらりと寂しげに舞い落ちた。彼は私のことが——


「好き」


 なくなったはずの花弁が、彼の手の中から一枚ひらりと零れ落ちた。

 ゆっくりと春色の絨毯にまぎれていく姿を見送り、顔を上げた。

「どういうこと?」

「もう言わねーよ」

 少年の顔は見えなかった。いつの間にか抱きしめられていたからだ。

 彼からは甘い匂いと、花粉が飛んできた。

「ねえ、花粉すごい。くしゃみでそう」

「うるさい」

「私のこと、好きなの?」

「うるさい」

「ふふふ」

「笑うな」

 なんだかおかしくなって笑いが止まらなかった。強く抱き締めてくる彼の、意外と広い背中に腕を回した。


 ここは私の秘密の場所。

 働き者の蜜蜂と出会った思い出の場所。

 彼は今日も忙しく花粉を運び、マーガレット畑を見守っている。

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