Monolog..



 顔にぽたりと雫が落ちてきた。突然、顔面を襲った冷たい刺激に驚き、慌てて後方へ退いた。豪奢な金色の額縁の中で、凛々しく咲き誇る桜に魅了されて眺めているうちに、つい前のめりになってしまったようだ。絶えず上から落ちてきていた雫を顔で受けてしまった。

 桜の木の周りに雪がしんしんと降り積もり、銀世界の中で淡く光る薄紅色が、誘うように揺らめいた。

「やっぱり知ってる花や環境、聞き馴染みのある名前の登場人物の方が物語に入りやすいのかな。そんなに夢中になってへばりついちゃって。君も桜が好きなんだね。綺麗だよね。優しくて謙虚な薄紅色の花弁は、あたたかくて僕も好きだよ」

 そう言って微笑んだアルビノの青年は、揺り椅子の上でくつろいでいる。膝の上に乗せた古書を開き、視線を落としたまま再び口を開いた。

「ここに来たばかりの君は、まるで子犬みたいにふるふると震えていたからね。落ち着いたようで安心したよ」

 子犬だなんて失礼な。そこまで怯えているように見えたのだろうか。なんだかとても恥ずかしい。多分、今顔が赤くなっていると思う。

 それにしても、桜は知っているが、やはり自分に関することが思い出せない。聞き馴染みのある名前だと、名前を区別する彼の意図もわからない。自分の肌を見るからに、アルビノの青年とは人種が違うことは理解できる。そういうことなのだろうか? 先程の物語に出てきた彼女のように、自分にも素敵な名前があるのだろうか。目の前にいるアルビノの青年にも。

 青年に名前を尋ねようとして止めた。彼は夢中になって、手元の古書に張り付いたように読書に勤しんでいる。邪魔したら悪いかなと遠慮しつつも、この箱庭で何をしたらいいかもわからずに、色鮮やかな花たちに忙しなく視線を送った。

 その様子に気付いたのか、青年が名残惜しそうにしつつも、古書から視線を引き剥がしてこちらを見た。そして灰色に縁取られた神秘的な白い瞳を見開いた。

「ああ、ごめんね。一人で物語を読み進めてしまっていたよ。ここにいる花たちの物語なんだけどね。この箱庭のなかにある花の数だけ物語はあるんだよ。僕もまだ知らない物語があるんだ。次々と新しい子がやってくるから」

 そう言って愛おしそうに、だがどこか恨めしそうな双眸で個性豊かな花たちを眺めた。

 壁の隅にある奇怪なオブジェの中で、太陽のようにあたたかく咲き誇るタンポポ。

 豪奢な金の額縁の中にある雪の世界で、薄紅の淡い光を自慢げに放つ桜。

 アルビノの青年によって伝えられた二つの花のあたたかな物語。箱庭に落とされた時に初めて見た花たちからは、威圧感のようなものが感じられたのだが、今ではすっかり居心地がよくなってしまった。他にはどんな素敵な物語があるのだろう。

 知らずのうちに、アルビノの青年が口を開く時を待ち遠しく思っている自分がいた。

 壁に立て掛けられた豪奢な金色の額縁の前を離れ、四つ足で這うように元の場所へ戻って来た。青年がうんしょうんしょと重たい古書を積み重ねて作ってくれた椅子の上に座ると、再び古書に夢中になっている青年に期待の視線を送った。揺り椅子を穏やかに揺らしながら、微睡んだ目で読書をしている。

 気付いてくれない青年に堪え兼ねて、思わず両足の踵で床板をコツコツと軽く蹴ってみた。

「ああ、また君を忘れて読書に夢中になってしまった」

 目の前の客人を忘れるなんて失礼な人だ。いや、客人というか勝手に迷い込んできてしまった闖入者なのだが。

「まだお迎えは来ないみたいだね。僕のお話は聞いていて退屈ではないかい? だったら次のお話をしてあげよう」

 アルビノの青年は古書を閉じると、透けてしまいそうなほど白い細腕を持ち上げて、一点を指差した。その指が指し示すのは、苔色の陶器鉢に挿さった真っ赤な菊の花。

「次はあのお花の物語。きっと君も見たことがある花だよ。赤色は珍しいかな? 確か、黄色や白色なら目にすることが多かったんじゃないかな」

 言われてみれば、そんな気がする。だが記憶がはっきりとしていないので、そうではない気もする。とにかく物語の内容が気になる。きっと今の自分の顔は、物欲しそうな子供の顔をしているんだろうな。

「おもちゃを欲しがる子供みたいな顔だね」

 ほら。

「そんなにせがまなくても、ちゃんとお話聞かせてあげるから。お行儀よく座って」

 子供扱いされたことに少し恥ずかしさを感じつつ、背筋を伸ばして次の言葉を待った。

「いい子だね。じゃあ次は真っ赤な菊の花のお話をしよう。君は思い出せないようだけど、君がいた国では、この花は葬式に用いられることが多かったんだ。だから病気や怪我で入院している人のお見舞いの品としてタブーとされているんだけどね。とある女の子が入院しているところへお見舞いに来た男の子は、その菊の花を持ってきたんだ。酷いと思うだろう?」

 頭を激しく上下させて頷いた。それを見てアルビノの青年が微笑した。

「でもそれは酷いことではなかったんだ。彼が菊の花をお見舞いの品として持ってきたことには、嫌がらせではなく別の理由があったんだよ」

 この青年は、よく焦らす。別の理由とは何なのだ。

「女の子が入院しなければ、こんなに素敵な出来事は起こらなかったのかもしれない」

 苔色の陶器鉢から顔を覗かせている真っ赤な菊の花が、照れ臭そうに微かに揺れた。

「この物語は、彼女が体調を崩したことから始まる」


 ぴちゃっ。


 ぴちゃっ。


 アルビノの青年は穏やかに、妖しく微笑した。

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