Episode.2 雪の中に咲く薄紅の



 雪の降る季節になると、薄紅色の春になった君を思い出す。


 森の中にある小さな古い神社。そこは僕の家が管理している神社で、人の通る場所からは遠く離れ、ひっそりと佇んでいた。

 毎年、雪の降る季節になると、屋根に積もった雪の重さで神社が壊れてしまわないようにと雪を下ろしに行った。この時期は夕方に神社へ足を運ぶことが日課となる。

 今日もそこに彼女はいた。

 森の入り口には古い鳥居がある。鮮やかだったはずの朱色は時間とともに剥がれ落ち、所々から木目が顔を出している。鳥居をくぐり、舗装されていない獣道のような細い道を進む。

 高い針葉樹が立ち並ぶ森の中。その鬱蒼とした森に光を呼び込むように、木々の間をすり抜けた雪たちが、足元の雑草や柔らかな土に覆いかぶさり、真っ白に光っていた。雪明かりを頼りに、緩やかな上り坂をそろそろと歩く。だが、その雪のせいで道がわかりづらい。頭を出す雑草から自分の位置を把握し、踏みしめた地面から伝わる土の感触を確認しながら、道を外れないよう慎重に進む。滑り止めの付いた登山用の防寒ブーツで、一歩一歩、雪の絨毯に足跡をつけていく。

 吐く息は白い。

 はらはらと森の中に舞い込んできた雪は、いつのまにか止んでいた。

 しばらく歩くと、また古くなった鳥居が現れ、少し開けた場所に出る。針葉樹に囲まれてできた小さな空間は、神秘的な場所だった。

 ぽっかりと空いた天井からは容赦なく雪が入り込むため、神社の周りは真っ白な絨毯を敷き詰めたかのように、隙間なく雪が降り積もっていた。一〇センチほどだろうか。参道はすっかり埋もれてしまっている。

 昨日雪かきしたばかりなのに、またずいぶん積もったな、と気怠げに辺りを見渡すと、足跡のない真っ白な雪の絨毯の上に、投棄された人形のように転がっている少女がいた。

 いつもの光景だった。

「さくら」

 少女は人形のように動かない。

 大きめのダッフルコートが布団のように彼女を包み込んでいる。こんな雪の日に、下はスカートで素肌が覗いている。足元には小さなムートンブーツ。

 雪の絨毯の上に足跡を残しながら彼女に近付いた。

「まったく、君って人は。いつもこんなに冷たい雪の上で寝転んで……風邪を引くどころか死んでしまいますよ?」

 人の体温を失った体をゆっくりと起こす。彼女の僅かな体温で溶けて水になった雪が、顔や手足を濡らしているので、そっとハンカチで拭ってやる。コートについた綿のような雪を払い落とすと、すでに水気を含んで湿っているコートを脱がせて、自分が着てきたコートを着せてやった。

「この、ひんやりとした感じが気持ちいいの。そんなことより、また敬語出てるよ。私の方が年下なんだからやめてってば」

 自分が生きていることを思い出したかのように急に目を開けた彼女は、お目覚め早々、理解し難い自論と文句を垂れた。

 冷え切った小さな体を抱え上げ、暴れる四肢にバランスを崩されそうになりながらも拝殿の中へ運び、壊れてしまわないように慎重に座らせた。スカートの裾から無防備に投げ出された二本の脚には、マフラーを掛けた。

「ごめんごめん。つい癖で出ちゃうんだ」

「距離を感じます」

「ごめんなさい」

 顔を見合わせて笑い合った。このやりとりも、いつものことだ。



 彼女と初めて出会ったのは、今年の初雪の日。

 朝から大雪で、みるみる町中が銀世界へと変貌を遂げた日。

 学校から帰ると、すぐに親から指示を受けた。神社の雪下ろしをせよと。雪かきの道具は神社の中のどこかにあるとのことで、手ぶらで向かった。日照時間の短い冬場は、すぐに日が落ち、気温も下がる。日の出ているうちに済ませないと、脂肪も筋肉もない軟弱な体では凍えてしまう。ましてや学校帰りとあっては、日没までの時間は短い。

 滑り止めのついた防寒ブーツに履き替え、足早に家を出た。神社のある場所は、自宅から近い場所にある森の中だ。町からは離れた場所なため、道は細く、車や人通りは少ない。

 冷たい向かい風を受けながら規則正しいテンポで右、左、と足を踏み出す。朝から続いた大雪は午後になると少し小降りになっていた。

 自宅から徒歩一〇分。歩いてきた道の脇に森が現れる。その入り口には古びた鳥居が鎮座していた。ここからが長いのだ。

 舗装のされていない道に、冬でも生い茂る雑草。加えて積雪。緩やかな上り坂を、体力を削られながら上っていく。降り積もった雪を踏みしめて、歩く、歩く、歩く。

 しばらく歩くと、再び古びた鳥居が現れる。そこを抜けた場所に神社がある。

 すっかり息は上がり、なんとか辿り着いた鳥居の下で呼吸を整えた。周囲を見渡すと、見慣れた神社の周りに真っ白な雪の絨毯が敷き詰められている。そして神社の前の雪の上に投棄された等身大の人形、いや——

「女の子だ!」

 慌てて駆け寄り、雪の上に転がってる少女を抱き上げた。そして拝殿の中に運んで寝かせ、声をかけた。

「大丈夫ですか! 君、生きてますか!」

 人の体温を失った冷たく青白い肌。コートやマフラー、ニット帽と温かそうなものを身につけてはいるが、下はスカートだ。足が氷のように冷たい。全身に雪がまとわりつき、長い睫毛に乗った雪の綿がきらりと輝いた。

「しっかりしてください!」

 口元に手をかざし、呼吸をしていることを確認すると、激しく彼女の体を揺さぶった。かくんかくんと無抵抗の人形のように首が揺れる。そして、彼女はゆっくり目を開けた。よく見れば、彼女はとても美しかった。艶やかな長い髪、整った顔、大きな瞳に長い睫毛、小さな鼻と口。魅了されて眺めていると、彼女が小さな口を開いた。

「私、天国に来れたの?」



 それが出会いだった。

 その日から、雪が降るたびに神社へ向かい、雪の上に転がっている彼女を救助することが日課になった。彼女はいつも雪の上にいる。名前を教えてくれた日もそうだった。

「君、寒くないんですか?」

 雪の絨毯の上をころころと回転しながら移動していく彼女を、呆れ顔で見つめた。それが楽しいのか、雪でじゃれる子犬のように、激しく雪を舞い上がらせながら転がっている。

「さくら」

「え?」

「名前、さくらって言うの。寒くないよ。あ、いや、やっぱり寒い。でも雪の上で寝てると気持ちがいいんだ。冷たくてふわふわした雪に包まれてると、そのうち温かくなってくるの」

 さくらっていうのか、と名前を確認していると、直後に恐ろしいセリフが飛び込んできて驚いた。

「そのうち温かくなるって……それって、もしかして感覚が麻痺しているんじゃないでしょうか」

「お兄さんもやってみなよ。体あったまるから!」

 彼女はそう言って、再び雪の上をころころと転がっていった。転がるたびにスカートの裾とともに雪がふわりと舞い上がる。

「それって、結構危険な症状なんじゃないですかー?」

 僕の叫び声は届かなかったようだ。

 彼女は嬉々として転がり続けた。



 拝殿の屋根に登り、積もった雪を下ろしながら、過去の記憶を懐かしく思い返していた。

 初めて会った時は本当に驚いたのだ。こんな森の中で、忘れ去られたように佇む神社に立ち寄る人などいないと思っていた。ましてや雪が降った日に。そして、雪の上で昼寝をする少女がいるだなんて。

 初めて会った日の彼女が最初に発した言葉。あれが意味するのが何なのか、最近わかってしまったような気がする。

 屋根に積もった雪を黙々と下ろしていく。落下するたびに、どさっと大きな音を立てる雪の塊。拝殿の横には小さな山ができていた。

 日が傾いてきたからか、神社に来た時よりも暗くなってきた。雪は止んでいるものの、太陽は隠れ、雲を橙色に染めるばかりで、その光は地上まではあまり届かない。

 雪を下ろす手を早めた。

 降り積もった雪を下に落としていると、突然、神社の中から声がした。

「お兄さん、死ぬのは怖い?」

 耳を疑った。

 か弱い小さな声が雪に吸収されながらも、なんとか耳に届いた。聞き間違いでなければ彼女はとんでもないことを言ったように思う。

「え、なんて言ったんですか? もう一度……」

「お兄さんさぁー! 死ぬのって怖いー?」

 ああ。凍えるような寒さの中、雪の絨毯で呑気に昼寝をする命知らずの君から、そんな質問が飛んでくるとは思わなかったよ。

 彼女の言葉に不意を突かれたせいか、足を滑らせた。転倒しないように踏ん張ってみたが、屋根が大きく軋んだ。あまりにも大きな音に、このままでは屋根が崩れてしまうかもしれないと躊躇した。この一瞬の気の迷いがいけなかった。バランスを崩した体は、屋根の上に横転しようとしている。強い衝撃を屋根に与えないよう、両手をついて衝撃を吸収する。屋根は崩れなかったが、自分の体は気持ちの良いほど滑らかに落下した。

「怖いですね……痛いのとか苦しいのとか、できれば一度も味わいたくなかったんですが」

 屋根から下ろした雪が山のように盛り上がっていて、クッションになってくれたようだ。とはいえ、多少の痛みはあった。雪に身を預けたまま天を仰ぎ、全身から溢れ出た冷や汗に体温を奪われていくのを感じていた。

「男なのにビビリなんだね、お兄さんは」

 姿の見えない声の主にバカにされたようで、なんだか少し腹が立った。

「うるさいですよ……。ああ、でも、たった一度の痛みを耐えられたら、今後の人生で体験するはずの痛みとか苦しみとか感じなくてすむのかなって思うと、死ぬことも悪くはないことかもしれないと思うときはあります」

「ふーん……」

 それっきり、神社の中から声が聞こえてくることはなかった。

 何か言っているのかもしれないけど、降り積もった雪が周りの音を全て吸い込んでしまっている。澄んだ空気と冬の静けさが互いの気配をも消し去り、不安を掻き立てる。

「さくら?」

 ゆっくり起き上がり、体にまとわりついた雪をはらって拝殿の中を覗こうとすると、手前の賽銭箱の陰に隠れて、子猫のように丸まっている彼女がいた。

「今日はどうしたんですか? いつもは子犬みたいに雪の上を転げ回っていたり、雪下ろしの邪魔をしてきたり、ずっとお喋りしているじゃないですか。まあ、君が突拍子もないことを言ったから屋根から落ちちゃったので、邪魔されたようなものですが」

 彼女はころんと仰向けになり、じっと見つめてきた。かがんで四つ足になり、そろそろと彼女に近付く。進むたびに床板が軋む。

 彼女の側まで来ると、冷たい氷のような頬を、指先で突き刺した。

 すると珍しく、反抗することなく、すがるような目で見上げてきた。

「私の名前ね、さくらっていうの」

 床板に投げ出された艶のある黒髪が、冷たい風に吹かれてうごめく。

 太陽がようやく雲から顔を出したようで、橙色の夕日を受けて、彼女の白い肌が煌めいた。その肌にそっと触れると、指先が凍っていくような感じがした。

「知ってますよ。教えてくれたじゃないですか」

 それでもまだ、愛おしそうに肌に指先を滑らせる。体の芯まで凍ってしまいそうだった。

「桜って、春の一週間くらいしか咲かないじゃない? でも、短い命でも立派な花を咲かせて美しい姿で一生を終えるじゃない? 私にもそんな人生を歩んで欲しいって、幸せな人生を送って欲しいって両親がつけてくれたの。でも、このまま死んじゃったら、私の人生は何にもない。今の、花も葉っぱも何もない桜の木と一緒。そう思ったら悲しくなってきちゃったよ」

 いつになく弱った彼女は、今にも溶けて消えてしまいそうな程に生気を失っていた。誰もいない雪の絨毯の上に、一人で転がっているときのように。

 冷え切った彼女の上体を抱き起こし、神社の横を見るように促した。

「すぐそこにある木、見えますか?」

 神社の横に寄り添うように弱々しく佇む一本の木を指差した。

「あれ、桜の木なんですよ。ここ数年全く花をつけないんですが」

「私みたい……」

「こらこら最後まで聞きなさい。花は咲かないけど死んでるわけじゃないんです。枯れて朽ちることなく、ずっとあそこにいる。次に咲くために力を溜めてるんですよ。仮死状態になっても諦めてないんです。いつかまた美しい花を咲かせるために。今何もなくても、これから花を咲かせればいいんです。人も同じです。たとえ一度死んだとしても、そこからまた頑張ればいいんじゃないでしょうか? 死後の世界だってあるかもしれないですし」

 人形のような冷たい肌に、体温が戻っていくのがわかった。ガラス玉のような瞳に生気が戻り、こちらを見上げる彼女の表情が和らぎ、少し安心した。

「こうして君とも会えているわけですし」

「……気付いていたの?」

「雪の上でずっと昼寝している時点で疑いますよ。まったく君は——」

「ありがとう」

 苦言を続けようとしたところ、彼女の言葉に遮られた。彼女はにこっと微笑むと、腕の中からすり抜けるように立ち上がり、降り積もった雪の上を弾むように歩いて、僕から離れていった。

「もう行くんですか?」

「うん。今までは何もできなかったけど、お兄さんのおかげでやりたいこと見つかったの。それに、先に進むことが怖かったけど、勇気出たから行こうかな」

「そうですか……。あの、もう少しここにいてくれませんか?」

「敬語」

「ごめんなさい」

 びしっと指を差して敬語を指摘する彼女からは、先ほどまでの冷たく寂しい、抜け殻のような印象な消えていた。そこにいるのは、普通の、無邪気な女の子だった。

「さくら、ありがとう」

 彼女の姿を見ていると諦めがついた。君はもう、人形とは違うのだろう。

「え? まだ、私はお兄さんに何も……」

 慌てふためく彼女の姿を、目に焼き付けるようにじっと見つめた。雪のように白い肌、生きているかのようにうごめく艶やかな長い髪、「お兄さん」と呼ぶ小さな口、儚げな淡い笑顔。

 彼女は僕がずっと黙っているせいか、不安そうに様子をうかがっている。

「君、もう行くのでしょう? 僕は大丈夫ですから。頑張ってくださいね」

 彼女は肩をなで下ろし、安堵の表情を浮かべたあと、ガッカリしたように更に肩を落した。

「もう、お兄さん最後まで敬語なんだもん。次、会うときは敬語やめてよね」

 彼女は頬をパンパンに膨らませてむくれている。

 苦笑しつつ、言葉を返せずに軽く手を振った。

 再び雪が降ってきた。

 彼女はその雪に紛れるように姿を消していった。

「お兄さんにとっておきのプレゼントあげるから! 見てろよぉー!」

 彼女の声だけが、静かに降る雪とともに舞い落ちてきた。



 今年は季節外れの雪が降った。

 春になり、あちらこちらで桜が咲き始めたというのに、押し寄せた寒波は、容赦なく雪を降らせた。

 仕方なく神社へ足を運ぶ。古びた鳥居をくぐり、雪に埋もれた道を慣れた足取りで進む。高い針葉樹の立ち並ぶ森の中を、足跡を残しながら一歩、一歩と。白い帽子をかぶった生い茂る葉の間から、太陽の光が差し込み、積もった雪が反射してきらきらと輝いている。

 緩やかな上り坂を進み、再び古びた鳥居が現れた。その向こうには——


 いつも雪の上に転がっている君の姿はなかった。

 ただ、小さな春が転がっていた。

「君は花咲か爺さんか何かかな。まったく……」

 あの時、彼女の頬に触れた時の僅かな体温を、僕の指先はまだ鮮明に覚えている。腕の中で僕を見上げていた彼女の顔を、小さな口から漏れる吐息を、生きた人形のような君のことを、鮮明に覚えている。

 なんだか急におかしくなって笑ってしまう。小さな神社の隣で薄紅色に咲き誇る、桜の木を眺めながら呟いた。


「まったく、君って人は」

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