朽ちた教会
降り頻る雨が視界を悪化させたのも功を奏した。ゲイルは何度も何度も振り返って、後方を確認するが、追ってくる気配はない。ゲイルは衛兵たちの追走を、一時的に撒く事に成功していた。
「はぁ、はぁ……」
肩で息をするゲイル。だがその足取りからは、一切の淀みが見られない。すっかり濡れ鼠となったゲイルは、マーシャを連れて帝都の町外れに位置する寂れた教会へと飛び込んだ。
ゲイルは抱えていたマーシャを降ろし、顔の水滴を手で拭った。
「マーシャ、ここで少し待っていて」
「うん……」
マーシャを入口付近の朽ちかけた長椅子に座らせ、ゲイルは奥の方へ入っていった。その目的は、床下に隠しておいた金銭と物資の回収である。何故、教会に隠しているのか、隠せたのか、それはこの教会を取り巻く数奇な事情に寄るものだった。
通常であれば、教会、及び建てられた土地の所有はアレス教だが、この教会に限っては違う。ある“司祭”個人の所有となっているのだ。
当の司祭は既に死亡しているのだが、この土地の所有権がまた複雑怪奇……遺産の分配法、教会及びその土地の所有、帝国の主張、アレス教の主張、子を成さぬアレス教の司祭にあって、その血縁者を名乗る『子息』の主張。現在も係争中につき、建て直しも打ち壊しも出来ぬ状況となっていた。
法と慣習と宗教とが複雑に絡み合い、誰も堂々とは手出しが出来なくなってしまった場所。それがこの教会である。この好景気のご時世、わざわざアレス教の教会に盗みに入る命知らずは居ない。つまり、物を隠すには絶好の場所という事だ。
ゲイルはこういった場所をいくつか見繕い、金銭を隠していた。これは決して主人には出処を明かせぬ仄暗い金達であり、全てを集めれば結構な額になる。慎ましく暮せば人一人を一生養えるほど。
ゲイルが金を集めていたのは決して贅沢がしたかった訳ではない。ただ、それが目の前にぶら下がっており、掴めそうであったから掴んだ。ゲイルは理由を聞かれればそう答えるだろう。
ゲイルはそれ程長い時間を経ずに戻って来た。その両手に麻袋と一振りの剣を携えて。
「行こう」
「……うん」
ゲイルがマーシャの手を取った時、教会の扉がしめやかに開かれた。人気のない場所の、見るからに打ち捨てられた教会である。迷い込むことは少ない。生憎の雨とは言え、屋根を求めるならば常人は余所をあたる。
訪問者であるヘルムの目的が雨宿りでないのは、その表情を見れば明らかだった。
「やはり、ここに居たか」
濡れた外套をはためかせながら歩くヘルムの腰には、愚直な程に真っ直ぐな直剣が揺れている。これは、ある種覚悟の表れでもあった。
「ゲイル、屋敷にこもりがちなお前も聞いた筈だ。『悪魔の使い』の噂を」
「マーシャ、奥に隠れていてくれ……」
ゲイルは後ろ手にマーシャを奥へと押し込んだ。
「その赤ん坊は何処で拾ってきたんだ? ダリじゃあないのか?」
「……」
「俺はそいつが悪魔の使い
「……」
ゲイルは何も言わず、鞘を投げ捨てるように抜剣した。呼応して、ヘルムも腰の剣を抜き放つ。
一方が構えるは情の剣。もう一方が構えるは非情の剣。
両者に信念など無い。
ゲイルは何処からか湧き出た親の情に則り、ヘルムはアレス教が伝聞する不安にせっつかれた、唯、それだけである。
視点を俯瞰した場に置くと、二つの
修羅場に張り詰めた緊張と次第に高鳴っていく鼓動。
そして――“恐怖”によるものだった。
両者共に実戦の経験はない。訓練など以ての外、生兵法すら身につけず、剣を握りしめる腕には必要最低限の筋力も備わっていない。
従って、場慣れしていない二振りの
これが一合目である。地面に這いずる姿勢になった両者は、まるで鏡写しの様に肩が上下させている。そして、ゆっくり、ゆっくりと同時に立ち上がった。
睨み合い、互いに円を描く様に横へ、横へと意味もなく動いて間合いを測る。肩で息をしている為に
「はぁ……、はぁ……はぁ……」
「うっ、はぁ、はぁ……はぁ……」
攻めあぐねる彼らの背中を押したのは、図らずもマーシャだった。不安そうに顔を覗かせたマーシャに、ゲイルは一瞬だけ気を取られてしまった。彼らは半円を描き終えた所で、丁度立ち位置が入れ替わっていたのだ。
ヘルムは視線の動きを読み取り、斬り掛かった。すぐに気を引き締めたゲイルは、翻筋斗を打って後方に回避行動を取る。よろよろ、と振り降ろされた直剣は対手を捉えられず、床板を叩くに留まった。
回避は成功、だが、ゲイルは飛び退きすぎた所為で後ろにあった長椅子に突っ込んでしまった。更に運の悪い事に、腐食が進んで脆くなっていた長椅子は、衝撃に耐えきれず崩れるように破砕し、ゲイルは堪らず姿勢を崩してしまう。
これを好機と見たヘルムが追撃しようとするが、何故だか床に叩きつけた直剣はピクリとも動かない。慌てて手元を見ると、直剣は衝撃の所為か床板に中程まで食い込んでおり、全力で押し引きしても、一切動かせぬ程に固定されていたのだ。
こうなると、次に好機を得たのは、姿勢を立て直したゲイルの方である。
ゲイルは雄叫びを上げ、叩き付ける様に剣を振り回した。それまでに刺さっていた直剣を抜くことが出来なかったヘルムは、両手を泣く泣く手放して回避に徹する。
一瞬で形勢は逆転した。剣を片手に、ゲイルはじりじりと躙り寄り、ヘルムは無手である為に後退る。この一撃で片を付けてやろうと、ゲイルが剣を振り上げ、右脚を踏み込んだ、その時だった。
メキリ、と床板が悲鳴を上げる。廃墟同然の木造建築でこの様な大立ち回りを演ずれば、こうなってしまう可能性は十分にある。ゲイルの右脚は腐食の進んだ床板を突き破っていた。
ヘルムの口角が一気に釣り上がる。今度こそ、手中に降り立った好機を物にせんと踏み出すが、ゲイルが嵌ってしまった右脚をそのままに、剣を滅多矢鱈、四方八方滅茶苦茶に振り回すので、無手では近付くに近付けない。
ならば、武器を得ようと考え、先程抜き取るのを放棄した直剣に飛び付いた。両者は共に対手を視界から排斥。自らの世界に籠もり、右脚と直剣に向き合った。
数秒の膠着の後、ゲイルが焦りながらも右脚を引き抜くのと、ヘルムがぐりぐりと頻りに動かしていた直剣が抜けるのは、ほぼ同時の出来事であった。
位置関係は最初の立会に戻り、両者は再び向かい合う。共に疲労と恐怖から腰は引け気味になり、共に利き腕である右腕に剣を携え、共に不格好な程前方に突き出す。そんな情けなくも勇ましい格好で、両者はじりじりと距離を詰め始めた。
額には大粒の汗が流れていく……。
喉は緊張によって押し潰され、声帯が声にならない悲鳴を上げている。
二つの切先が引力に導かれ、徐々に、震えながらも近付いて行き――チン、と僅かに触れた。その瞬間、剣を握る手から両者の心に冷気が流れ込み、
このままでは埒が明かない。
人を殺めるとは、こんなにも成し難いものだったか。
意を決さねばならない。この剣に、必殺の意志を込めねばならない。
次に仕掛けたのは、マーシャを背負うゲイルだった。ゲイルはこの危地を何としてでも脱せねばならないと、ヘルム以上に気負っていた上、戦いが長引き、この調子で騒ぎ立て続ければ衛兵たちが来てしまう恐れがある、と言う背水の考えからだ。
ゲイルは思い切り振り上げた剣を思い切り振り下ろす。
その内のヘルムの一振りが、今度は壁に突き刺さる。しかし、今度は突き刺さるだけでなく、薄い木の壁を突き破った。壁に開けられた大きな穴から、横っ面に吹き付ける風と共に雨粒が入り込んでくる。
ゲイルは空振りの隙を見逃さず、ヘルムに斬り掛かった。歯を食いしばったヘルムは、堪らず外へ転げる様に飛び出して行く。こうなっては最早、ヘルムの外套は意味をなさない。ゲイルが更に果敢に攻め立て、ヘルムも全身に雨と泥を浴びながら食って掛かった。
戦場が教会から野外に移ったことで、戦いはより泥死合の様相を呈する。
掠りもしない剣を振り回し、転倒を繰り返し、泥中を転げ回る死闘。
命を懸けた無様な泥相撲を、不安そうなマーシャだけが見つめていた。
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