豪雨
ヘルムは友を前に、不退転の覚悟を胸に込め直した。もう、後には引けない。速やか、且つ穏やかな解決を望みながら、ヘルムは重苦しく口を開いた。
「……ゲイル、マーシャを渡してくれないか……?」
まるで縋り付く様な懇願。しかし、ゲイルはそれを意に介さず、机の脚にしがみついて立ち上がろうと試みているマーシャを、おっかなびっくり見つめていた。
「ぱぱ、どお……?」
「マーシャ! すごいぞ、立ってるぞ!」
「……ゲイル」
ヘルムは静かに友の名を呼ぶが、興奮醒めやらぬゲイルは大声で捲し立てる。
「アクートゥスとラーザリ様を呼んできてくれよ! 二人にも見せてやりたい!」
視線をそらしたヘルムは、床や壁を落ち着きなく見回した。眼前の光景を直視していられなかったのだ。最後には目を閉じて、必死に次の言葉を探す。
「ヘルム! お前もよく見てくれよ、歩いてるんだぞ! 今はまだよちよち歩きだが――」
這い回るのも精一杯だったマーシャが……昨日の今日で歩いたって? ヘルムは静かに首を横に振った。
「ゲイル、それはおかしな事なんだ。速すぎるんだよ……」
「早熟なだけさ! アクートゥスもそう言っていた!」
「違う、違うんだ……」
「何がだ!! 違わないぞっ! 違わない! 皆っ、同じなんだ!」
ゲイルの決意は、石よりも鉄よりも固い。衝突は避けられぬと悟ったヘルムは、深い深い溜息を漏らした。
「……どうしても、渡す気はないんだな」
「渡す訳ないだろう!」
「そいつは――『悪魔の使い』かもしれないんだぞ!」
「だったら何だって言うんだ!」
ゲイルの纏う剣幕にヘルムは徐々に気圧され始める。友人の入れ込み様がこれ程とは思いもよらなかった。しかし、ヘルムはもう、引き下がる訳にはいかない。
「ぐっ……衛兵! 来てくれぇ!」
「ヘルム! お前、まさか――!」
その言葉を合図に、扉から次々と武装した衛兵が雪崩込んでくる。申し訳なくも取れるヘルムの表情を見れば、ゲイルにはすぐに理解できた。
『密告』
友情に対する裏切りとも取れる行為に、ゲイルの心は煮立った。だが、煮立ち、沸々と突き上げる心を、親の本能は冷やしつけた。
渡してはならない。取り押さえる前に。ゲイルはしかとマーシャを抱き上げ、その身をガラス張りの窓に突っ込ませた。
「うぉあああああぁぁぁぁ!」
「ぱ、ぱ――」
「なっ、窓から逃げたぞ! 追え!」
ガラスや落下の衝撃程度ではマーシャの肌に傷一つ付かない、という事は十分承知の上である。それでも、ゲイルは自らの身を盾に着地した。その甲斐あってか、腕の中のマーシャの身は無傷。分かっていた事柄ではあるが、無事を確認するだけでゲイルの心は喜びに満ちるのだ。
衛兵達がゲイルに続いて、次々と窓を飛び降り追い掛けていく。しかし、マーシャという荷を抱えながら走るゲイルの脚力は尋常なものではなかった。
果たしてこれも愛のなせる技なのか。武装した重みの分、着地で出遅れた衛兵たちも必死に追いすがるが、その差は離れるばかりだ。
部屋に残されたヘルムは窓枠に伸し掛かり、塀を飛び越えて逃げていくゲイルの姿を目で追う。
この方向なら――ひとつだけ、ヘルムには心当たりがあった。部屋を飛び出して、ヘルムは一人厩戸に向かう。
命懸けの逃走と追走が繰り広がる帝都に、
「ぱぱ、どこ……いくの……?」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
連日に渡る帝都の曇天は、今日この日の為なのだ、と言わんばかりの土砂降り。
この雨粒たちは、血の繋がらぬ親子へ向けられた悲劇の
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