赤いワイン

 今まさにヴィシルダとウォーフが宙を舞っているなどとは露知らず、ハンナとミネアは振る舞われた料理に舌鼓を打っていた。


 ハンナが注がれた杯のワインを飲み干した所で、グリューはマイトに指示し、新たな瓶を持ってこさせる。


「ハンナ殿、此方のワインもご賞味下さい」

「……ほう?」


 ハンナが差し出した杯にとくとく、と赤いワインが注がれていく。

 実に期待感を煽るような演出。

 ハンナはグリューの言に期待しながら杯を傾けて――目を見開いた。


「……ふぅ」


 感嘆。


 鼻を突き抜ける清涼の香りは、人の手が及ばぬ森の湧き清水に等しい。

 舌を撫でる食感は円やかで、飲み下した口中に漂う甘い残響は「次の一口」を強烈に誘う。


 文句などない。これを飲まされて……。


「……美味い!」


 賑やかな心中に反し、口をついて出たのはその一言。

 しかし、グリューを破顔させるにはそれだけで十分であった。


「このワインは我がハイケスの生まれなのです。お気に召して頂けましたか?」

「ああ、気に入ったよ」

「お姉様、私にもひとくち……」


 ハンナのその様子を見てミネアも興味を持つ。

 マイトは予め用意していた杯を差し出した。


「ミネア様、どうぞ」

「ありがとうございます」


 素直に礼を言った令嬢をマイトは暖かく見遣り、ささっと離れる。

 上等な料理のおかげか、場には弛緩した雰囲気が流れていたが、唐突にハンナは眉をひそめた。


「なにやら――無粋な連中が来たようだな」

「お姉様?」


 呼応して、ミネアの服に擬態しているビジャルアも蠢いた。


「俺もちょうど気配を感じた所だ」

「びしゃびしゃ?」


 未だ理解できぬミネアを余所に、二人は臨戦の様相を発し始める。


 次の瞬間――物々しい雰囲気はグリュー正面に位置する扉を蹴破る形で姿を現した。


 扉の外から雪崩込んできたのは武装した兵たちだ。

 彼らは血気盛んにも帯剣し、手元には小筒を備えている。


 これはグリューの手管ではなかった。

 その証拠に彼らはハイケス私兵団の装備ではなく、王国正規兵の装いである。


「何があったのだ!」


 グリューの問いかけに耳をかさず、小筒の口は一列に整列する。

 後方に立つ一際豪華な鎧を着込むリーダーらしき人物が、手を天に翳した。


「ハイケス様!」


 マイトが悲鳴を上げて、グリューに覆いかぶさる様に押し倒した。


「撃て!!」


 前後して、ミネアの鎧下に着込んだ布がバラバラにほどけ始めていた。

 擬態が解けたのは副次作用であり、ビジャルアはすぐさま面となり広がる。


 横っ面を吹き付ける雨となって降り注いだ単発式の凶弾は、面として立ちはだかった水の膜に絡め取られるようにしてその勢いを失った。


 突然の発砲。今まで硬直していた護衛の私兵団が動き出す。

 ミネアがくるりと後方を確認する。


「お姉様、お怪我は――」


 だが、そこにハンナの姿はない。

 どこに……。

 ミネアが視線を彷徨わせていると、床の辺りに影がチラついた。


 這いつくばった姿勢から、今さっき放たれた鉛玉にも劣らぬ速度で飛び出したハンナだ。

 発砲と時を同じくして、ハンナは身体を沈み込ませていたのだ。


 ハンナの健脚による瞬発力は、あっ、と言う間に私兵団の面々を追い越し、正規兵の中心に躍り出る。


 瞬間、右の手刀煥発かんぱつ

 放たれた一撃は正規兵の首を易々と斬り飛ばした。


 その振り切った手刀から、黒光りする奇縁が覗いている。

 悪魔の使いとの戦闘は、ハンナに新たなる奇縁の扱いを習得させていた。

 これは必要に応じて手足から奇縁を発現させる事で小回りを利かせる攻撃法である。


 続いて正面に突っ立つ兵に放った右の貫手は、正規兵装備の鉄鎧を宛ら水のように通過する。

 右手を貫通せしめたハンナは更に追って左手を突っ込むと、臓腑の海を掻き泳ぐように真っ二つ、縦に引き裂いた。


「……あぁ……」


 血と臓物のシャワーを浴びて喜悦の嬌声を漏らす。

 その異様な光景に相対する正規兵のみならず、私兵団の面々も後退った。


「んん……ん」


 快楽の遊覧飛行から墜落したハンナの眼が次の得物を求めてギラつく。

 再び黒の凶刃を閃かせんと意気込むが、正規兵は一斉に崩れ落ちた。


 虚を突かれたハンナが構えた手刀をぶらぶらと揺らしていると、後方からミネアの落ち着いた声をかけてくる。


「お姉様……。血気盛んな雄姿おすがたは素敵ですが……何分、ここは食堂ですので……」

「……ふむ」


 ハンナが正規兵と自分の足元に目をやれば、そこには薄く広がる水粘膜がうねうねと蠢いている。

 口から戦闘の予熱を吐き出して、ハンナはグリューに向き直った。


「ハイケス殿。そのワイン、実に気に入ったぞ。ひとつ土産にくれまいか」

「は、はい。おい、マイト……」


 マイトと重なり合って震えていたグリューはマイトに申し付け、手早く封を切っていない瓶を差し出させた。

 ハンナは血に濡れた手でそれを奪うように受け取る。


「では、馳走になった」


 言葉少なに踵を返したハンナと、それとは対照的に洗練された礼をしてから出ていくミネアを、グリューとマイトは黙って見送った。

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