始まりの者
宇宙服の試着は終わった。次に、俺とマイラは基地の医務室に移る。
タチアナ医師による出発前検査を受けるためだ。
「タチアナ医師、マルス・ベロウソフ飛行士です。入るよ」
ドアをノックして、俺とマイラは部屋に入る。
「愛しのマイラちゃん、おひさしぶり~!」
とつぜん、左真横から声が聞こえた。声の主はマイラに抱き着こうとする。
しかし、マイラはひらっと身をかわす。
「……っと、ボクのハグをよけるなんて、マイラちゃんも成長したじゃないか」
マイラに不埒なまねを図ったのは、タチアナだった。彼女は両手指をわきわきと動かしている。
「そのとおり、わたしは成長した。いつまでもたちあなの好きにはさせない」
マイラは鼻をふふんと鳴らす。
「――すきありっ」
再びタチアナは両手を広げる。
それを予測していた俺は、声を出して彼女の動きを停めた。
「タチアナ、本題に入ろう」
「そ、そうだね。じゃあ、マルス君、マイラちゃん、検査を始めよう」
俺の声に、タチアナは片眼鏡を右目にかけた。おふざけは止めて、医師の仕事を始めるのだ。
俺は軍服の上着を脱ぎ、椅子に座った。タチアナ医師は聴診器をつけて、俺への検査を始める。
「……マルス君、ここ数日はよく眠れるかい? 食事もしっかり摂っている?」
上半身の前、後ろを診て、質問する。
「ん、昨晩の睡眠時間は8時間ほど、食事も完食してるよ」
今の問いに対する答えは、報告書でタチアナは知っているはずだ。それを改めて聞くことに、俺は彼女の意図を感じた。
「タチアナ、俺たちは大丈夫だよ。嘘はついていない。それに、さっきは緊張を
「まあね。君たちのことだから大丈夫だと思ったけど、時間も迫っている。担当医として、君たちに何ができるか。ボクなりに考えてみたのさ。ま、マイラちゃんにハグできれば、一石二鳥だけどね」
「ふふっ、ありがとう。思えば、あんたも俺たちのために色々と動いてくれたんだ。エヴァの故郷に引率してくれたとき、俺の凍傷を治してくれたこと。それに、教授も助けてくれた」
タチアナとのつきあいは、候補生試験の時まで遡る。初めて知った時点では、とんでもない変人だと思った。しかし、医師としての腕は一流である。それに、彼女には、コスモナウトという言葉を教えてもらった。
「……君たちのような存在を護ること。それがボクのような、なりそこないの役割なんだよ」
「なりそこない? それはどういう……」
「ある人物の話をしてもいいだろうか?」
そこで、タチアナの声の調子が変わった。いつものひょうひょうとした感じではなく、落ち着いて、低い声に。くわえて、片眼鏡も外す。
「かれは、生まれた時よりある使命を感じていた。人類を救うこと。それは大げさで抽象的なことかもしれない。だが、かれは真剣に願っていたのだ。事実、世界は終末に向かっている。科学技術の発展は、人を滅ぼすまでに至ったのだから」
核兵器を、俺は思い浮かべる。世界大戦中、アトラスが開発し、使用した。一発の威力は都市を焦土にし、10万人を死滅させたのだ。大戦後、ソフィエスも開発に成功する。そして、二国は核を量産させていった。現存する核兵器を全て爆発させれば、地球は死の星と化すだろう。
ロケットも、元は核を敵国に送るために開発された。
「かれは世界中を巡り、救済の方法を求めた。そのなかで、ある集団と出会う。集団によれば、この星には、遥か古来より先導者と呼ばれる者がいる。天からの啓示を受けたその者たちは、時代、時代によって生命を導いてきたのだと」
「天からの啓示? 先導者、それは……」
コスモナウトを示しているのか?
「先導者。それが人類を救うならば、自分が……と、彼は挑んだ。しかし、失敗に終わった。資格が無いと悟り、次は先導者を探し求めたのだ。ドラッヘ、アトラス、ソフィエス……と。その時代、世界の動乱の中心となっている国へ」
「タチアナ、もしかしてあんたが……」
「……マルス君、古代、海に発生した生命は、なぜ地上にあがったのだろう。そのまま海に残れば、危険に晒されることもなく、安穏と過ごせたのに」
タチアナは俺の問いに答えず、逆に疑問を提示する。
「……それは、」
俺は知っている。
「君ならば知っているはずだ。海から地上にあがった生命。全ての始まりの者を」
「始まりの者、
――あのばしょには、なにがあるのだろう。いって、みたい。
かの者の名を口にした時、俺の頭に声が聞こえた。
同時に目に映ったのは、一面の蒼いソラ。
38億年前、地球の海に生命が発生した。その時より、生命はソラを見上げていたのだ。
それから、数十億の時を経て、始まりの者は海より地上にあがる。
ただ、ソラに憧れて。
「……す、まるす」
「――はっ? ……マイラか」
気づけば、俺の眼前にマイラの顔があった。
心配そうに俺の顔をのぞきこんでいる。
「声が、聴こえたの?」
「う、うん。きっと、さっきの声と光景は……」
始まりの者が、地上にあがろうとした瞬間だ。
その者の意志が、長い長い時間をかけて、俺へと宿っている。いや、俺だけではない、全ての命に。
「君には、その者の声が聞こえたようだね。明日、君たちが宇宙に行った時、何がまっているのだろう。そして、君たちが地上に戻った後、この星は変わるのだろうか」
「……タチアナ、俺一人が宇宙に行っても、世界はすぐに変わるとは思っていないよ。けれども、人が宇宙に行く。その事実は、人々の意識を変える。今まで無理だ、不可能だと思われていたことは、たった一度の成功で、当たり前になるんだ」
「やはり、君はボクが思っていた――いや、それ以上の存在だ。長い旅の果て、地球生命の新たな段階に
「ちょっと待った」
「うん?」
「俺はあんたがなりそこないだとは思わない。タチアナだって、じゅうぶんにコスモナウトの資格はある。仙人のつもりで世を見ているようだけど、まだ、老け込むには早いんじゃないのかい?」
「はあ? 老け込むだって? こんな見目麗しいボクに? 心は永遠の19歳だぞ!」
タチアナは立ち上がり、大声で訴えた。
「はいはい、分かってるよ」
「えいえんのじゅーきゅうさい? たちあなの本当の年齢ってたしか……」
俺とマイラは、タチアナの訴えを軽く流した。
「ぐ、ぐぬぬ……ふっ、あはは!」
悔しそうな表情をしていたタチアナは、急に笑い出す。
「ああ、君たちに会えて良かった。コスモナウト、宇宙の心という特別な存在じゃない。マルス、マイラというどこにでもいる青年と少女と会えたことに。それに、ボクにもコスモナウトの資格があるか……ようし、おねえさん、がんばっちゃうぞ!」
「その意気だよ」
今、飛宙士候補生なのは、軍人・飛行士だ。くわえて、将来、タチアナのような医師にも可能性が広がるのではないか。宇宙に長期滞在した時、無重力が人体に与える影響。それを実験、観察する人が必要になるからだ。
「だったらさ、ボクは君たちの同志、仲間……じゃなくて、と、ととと……」
ふいに、タチアナは俺、マイラを見て、顔を赤くした。目は泳ぎ、何かの言葉を口から出そうとしている。
「ととと? あ、友だちか。ボクは君たちの友だちだ。って言いたいの?」
「そ、そう。それ。……こんなボクが友だちなんてイヤかもしれないけど」
タチアナは珍しく遠慮している。自分が変人だということは、自覚していたようだ。
「あはは、何言ってるのさ。俺たち、とっくに友だちだよ。な、マイラ?」
「……ソウカナ?」
ここで、マイラからまさかの疑問形である。
「えっ」
「うそ。わたし、たちあなには感謝してる。初めて会った時、いきなりわたしにべたべた触って、1時間も好きだって言い続けたこともあった。だけど、きょーじゅと同じで、わたしを人間として扱ってくれたから。……黙っていれば、――だし」
マイラは不満を漏らしつつ、タチアナには感謝していた。
最後につぶやいたほめ言葉を、俺は聞き逃さない。
「タチアナ、マイラは感謝してるって。それに、きれいだってさ」
「きれい……~~~」
マイラからのほめ言葉を聞いた瞬間、タチアナは顔をほころばせる。
「ああもう、なんていい子たちなんだ! 二人とも、ぜったいに戻ってくるんだよ~。おねえさん、二人が戻ってきたら、うんとサービスするから~!」
両腕を広げて、俺とマイラの頭をがばっと抱き寄せた。
「タ、タチアナ……(胸があたって)苦しいよ」
「うう、脂肪のカタマリをぶつけられているだけなのに、この敗北感は何……ぬぬぬ」
タチアナにさんざん抱き着かれた後、俺とマイラの検査は終わる。
「よし、二人とも、異常は無し。身体面でならば、明日の出発には全く問題は無いよ」
「それを聞いて安心したよ。ロケットの準備も着々と進んでいるようだし、他に心配なのは、明日の天候くらいかな。雨風は打ち上げに影響を……そういえば、教授はどこに? 昨日から見ていないけど」
「ああ、教授はね……」
教授を話題に挙げると、タチアナは言い淀む。
「え、教授に何か」
教授の件について尋ねようとした時、部屋のドアがノックされる。
タチアナが許可を取る前にドアは開けられた。
「先生、よろしいですか? 国防工業相閣下がご機嫌を損ねてしまい……」
入室したスーツの女性は、タチアナに助けを求める。彼女はさきほど、イワンを呼びに来た人だった。
「うん? 大臣殿が? いったい何があったのさ」
「それが、アニケーエフ中尉との会談中……」
「イワンがどうかしたんですか?」
俺は二人の会話に割り込んだ。
イワンが何かしてしまったのではないかと直感したからだ。
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