蘇る白鳥

 エレーナさんが舞台に堕ちてから、数分が経っていた。

 その間、聞こえるのはエレーナさんの吐く息の音だけだった。

「ぁ……はぁ……」

 呼吸は荒く、口から白い息が大量に出ている。

 涙こそ流していないが、恥ずかしさと悔しさで胸がいっぱいだろう。

 見ているこちらのほうが辛い。

 エレーナさん、がんばれ! と声に出したかったが、我慢する。

 ここで俺が口に出して応援するのは違う気がした。今の状況は、彼女自身が乗り越えなければいけない。

 右隣のマイラ、クルスクの顔を見る。二人もぐっと口を閉じていた。

 他のみんなも俺と同じ想いだからこそ、何も言わないのだ。 

「……しょせん、お嬢様のお遊びか」

 しかし、誰かが呆れ声を漏らした。

 はっとして、俺は声がした背後に振り向く。

 そこには、遠巻きに見ていた住人の一人がいる。あの顔には覚えがあった。騒動の時にエレーナさんを非難していた長髪の若い男だ。

 俺以外の観客も、彼に首を回す。

「なにが全力で踊るだ。一度失敗した程度で諦めやがって。お前のような始めから全てを持っている者はこれだから……。そんな奴が、俺たちに何を見せるって言うんだ?」

 みなの視線を集めているのに、男は構わず非難を続ける。

 俺は憤慨した。エレーナさんを何も知らない奴が、勝手なことを言っている。一度夢を諦めた者が、再び夢に挑戦する。それがどれほどの勇気が必要なのか分かっているのか?

 今すぐ彼に対して、反論を述べたかった。しかし、まだ舞台の途中だ。彼に牙を向けたら喧嘩になり、舞踏会を台無しにしてしまう。だから、俺はここでも気持ちをぐっとこらえる。

 とつぜん、ごすんっと鈍い音が右から聞こえた。

 何事かと見れば、クルスクが拳を地面にめり込ませている。

 彼の顔は今まで見たこともないような怖さだった。すぐにでも立ち上がり、男の元へ走り、殴る。そんな怒気が伝わる。

 男への怒りを、クルスクは鋼の意志で抑えているのだ。

 今はまだ良いが、俺もクルスクもいつまで我慢出来るか分からない。長髪の男が飽きて、この場を去ってくれるのが一番なのだが……。

「みんな、こんなものを見ても時間の無駄だ。あんたもそう思うだろう?」

 俺の期待も通じず、長髪の男は他人に同意を求めた。

 その相手は、ヴァレンチンである。

「……そうだな」

 ヴァレンチンは短い沈黙の後、肯定した。

 彼の反応を見て、俺は落胆した。

 エレーナさんの踊りを見て、彼は何も心を動かさなったのか?

「お前のような何も感じない奴と一緒に観ても、だ」

「「えっ?」」

 長髪の男と同時に俺も驚きの声を漏らす。

「お前は何もわかっちゃいねえ! あのお嬢さんがどんな想いで踊ったと思う? 数時間前はあんな怖い目にあって、こんな寒い場所で、誰が見てくれるかも分からないのに必死になって練習したんだ。あのお嬢さんはよう、停まっていた自分の時を進めようとしている。それを、不満を他人に押し付けて、今の自分を変えようとしない俺たちが文句を言える立場じゃねえんだよ!」

 ヴァレンチンは長髪の男に熱く語る。

「……」

 長髪の男は目をきょとんとさせて、身を縮ませる。彼の姿は、ボス犬に吠えられた子犬のようだった。

 ヴァレンチンは次に、舞台のエレーナさんを見た。

「お嬢……いや、エレーナさんよ。あんた、その程度じゃねえだろ? 俺たちの前で踊ると言ったのなら、最後まで踊れよ。どんな惨めでも、へたくそでも、俺は笑わねえ。人生と同じさ。良い時もありゃあ、悪い時もある。一番肝心なのは、どんなに今が最悪でも、過去には戻れねえ。それだったら、今を最高にすりゃいいんだよ! なあ、未来のプリマ、エレーナ・ブレジネワ!」

 彼は激励を送る。

 それを聞いて俺は確信した。ヴァレンチンは、変わった。過去を嘆くのを止めて、前を向くことを決めたのだ。

 ヴァレンチンの言葉に、エレーナさんはうつむいていた顔を上げる。真っ青だった顔の色は元に戻っていた。


「彼の言う通りですよ、お嬢様」

 不意に、覚えのある声が聞こえた。

 声の主を探して周囲に首を振ると、建物の陰から一人の女性が現れる。

 エレーナさんの世話係の、カティアさんだった。

 アパートの前で別れて以来である。人を集める最中、ブレジネワ家の車を見かけたが、中に彼女はいなかった。

「1年間、貴女をずっと見ていました。その間、貴女はバレエを諦めたと言っても、内心はそうではなかったでしょう。毎晩、眠る前に必ずポジションの練習をしていた」

 カティアさんはエレーナさんに優しく語りかける。

「大好きなのでしょう、バレエが? だったら、立ちなさい。立って、踊るのです。過去の偉大なプリマは、どんな環境、状態でも踊り続けました。彼女たちは才能があったからプリマになったわけではない。誰よりも、何よりも踊ることが好きだったからです」

 口調は穏やかでも、エレーナさんへ覚悟を問うていた。

「……ヴァレンチンさん、カティア、ありがとう」

 エレーナさんは二人に感謝を告げて、立ち上がった。

「よし。それでこそエレーナ・ブレジネワだ。じゃあ、これはアタシの手土産だよ!」

 カティアさんは口調を変え、右指をぱちんと鳴らした。

 すると、彼女と同じ建物の陰から人が現れた。一人や二人どころではない。九人、十人と増え続ける。さらには、周辺の建物、道路からも人が集まってくる。

 結果、ユマシュワ通りには総勢100ほどの人が詰めかけた。

「……すごい。こんなにも大勢の人が」

 俺は素直に感心する。俺とクルスクが必死に呼びかけても、10、20人が一杯だったのに、その数倍を集めてくるなんて。

「まるす、かてぃあって何者なの?」

 マイラが俺に聞いた。

「エレーナさんの世話係だと聞いたけど、さっきの口調といい、ただ者じゃないよ」

 カティアさんをまじまじと見る。彼女は住人に囲まれ、親し気に声を掛けられていた。

「あ、姐さん? カティア姐さんじゃないですか?」

 エレーナさんを非難していた長髪の男がカティアさんをぎょっと見る。

「ば、ばか、大声で姐さんと呼ぶんじゃない」

「何言っているんですか。姐さんがいなくなってからみんな寂しかったんですよ。この1年、今までどこに? それに、その格好とさっきの丁寧な口調は……」

 男はカティアさんを知っていて、今の姿に困惑しているようだ。

「……すまないね。まあそれは後々説明するよ。今はまだ劇の途中だ。みんな、お嬢様の踊りを、しっかり見てくれ」

「はいっ!」

 カティアさんの呼びかけに、集まった人々は快く返事する。


 そして、元からの観客、遠巻きに見ていた人、後で集まった住人たちは舞台周りに整列した。開演当初は少し寂しさを感じていた舞台も、今は千客万来だ。チケットを売っていたら、完売だっただろう。

 100人超えの観客は口を閉じ、舞台のエレーナさんに注目する。

 復活したエレーナさんは、晴れ晴れとした表情をしていた。

「みなさま、先程はお見苦しい姿を見せて、申し訳ありません。声援を受けて、私は気づきました。自分が何のために、なぜ踊るのかを。今度こそ、最後まで踊り切りますわ」

 踊りの再開を宣言して、最後ににこりと笑う。

 優しい笑顔だ。演技の途中までの硬さは消えている。

 演技の再開前、ヴァレンチンは手を上げた。

「ちょっと待ってくれ。音楽無しでは寂しいだろ? 先生、そのヴァイオリン、俺に貸してくれよ」

 彼は先生に近寄った。

「構いませんが……」

「今はこんな風体だが、昔はヴァイオリン弾きになりたくてな、毎日練習したものさ。召集されてその夢もいつのまにか忘れちまった。ブランクは長いが、また弾きたくなったよ。……まあ、片足だが、座りながら弾けばなんとかなるだろ」

「分かりました。では、お願いします」

 先生はヴァレンチンにヴァイオリンを渡す。

「おっちゃん、がんばれ」

 ニカはヴァレンチンに椅子を差し出した。

「ああ、ありがとう。演目は翼をもがれた白鳥か。運が良かったよ。俺も好きな曲で、何度も弾いた」

 ヴァレンチンはヴァイオリンを左手に、弓を右手に持つ。弾き始めはぎこちなかったが、徐々に音が洗練されていく。

「……よし。じゃあ、始めよう。エレーナお嬢さん、いいかな」

「はい」

 舞台は再開し、白鳥は復活した。

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