許嫁

 エレーナさんから出た「クルスク・ステパノヴッチ・チャーチフ共和国空軍中尉」。その名に、俺は驚いた。

「あら? もしかしてクルスク様をご存じなのですか?」

 エレーナさんは俺の反応に気づき、質問する。

「……ええ、知る仲です」

 友だちですと素直に言えなかった。昨晩のことが尾を引いているのだ。

「まあ、何ということでしょう。こんな巡りあわせがあるのですね。では、マルスさんはあの方の御友人なのですか? 貴方の他にも御友人はいらっしゃいますの? クルスク様は昔からお一人でいるのが好きなようで、あまり御友人を……」

 エレーナさんは矢継ぎ早に尋ねる。

「ちょっと待ってください。先程、婚約者とおっしゃいましたが、具体的に教えてもらえませんか。それに、直接会うのは十年振りとも」

「……そ、そうですわね。わたくしったら、申し訳ありません。婚約者というのは、正確には許嫁。私たちの父が決めたものなのです。私の家ブレジネワと、クルスク様のマレンコワ家は懇意にしておりまして」

「彼の父は政治家でしたよね。では、あなたのお父様も?」

「はい。この首都で議員の一席を務めさせて頂いております」

 クルスクの父と肩を並べるほどの有力政治家ということだ。ならば、エレーナさんはその令嬢である。彼女の上品な立ち振る舞いに納得した。

「私とあの方が初めてお会いしたのは……もう、十数年も前になりますわ。戦争が終わり、落ち着いた頃です。初めてお会いした時はその……」

 エレーナさんは少し言い澱んだ。

「怖かった?」

「……ええ、その通りです。でも、私はその時、幼子でしたので、近しい年頃の男性に慣れていないというか……」

「はは、分かりますよ。俺もはじめのうちは、勘違いからケンカもしてしまったんです」

「うんうん。まるす、もうちょっとで、くるすくにぐーしてたもんね」

「だから、あの時は……」

 マイラはあの時のことを蒸し返す。まったく、何度からかわれるのか。

「ふふ……でも、今は仲がよろしいのでしょう。マルスさんの顔で分かりましたわ。私もそう。口数は少ないのですが、とてもお優しい方でした。なので、クルスク様とお別れする度、次はいつ会えるの? とわんわんと泣いていた覚えがあります」

 俺にも分かる。感情を滅多に表に出さないクルスクだが、内には人一倍思いやりの心を持っているから。

「十年振りに会うということは……彼が飛行士養成校に入学して以来、ということでしょうか?」

「はい。あの方がマレンコワのおじ様と決別してからは、直接会ってはおりません。その頃、私もバレエアカデミィに入学が決まりましたので。後は、手紙を交わす程度です」

 バレエアカデミィの入学生は親元を離れ、寮住まいとなる。それで朝から晩までバレエ漬けの毎日を送るのだ。

「それが、どうして今日会うことに?」

「数日前、突然連絡があったのです。今日の決められた時刻、約束の場所で、と。驚きましたが、会うことにしました。理由は……今の中途半端な関係を清算したいのだと思います。マレンコワ家から許嫁の縁は解消されておりません。ですが、父ははっきりとさせたいようなのです。どうにも、家を継ぐつもりのないクルスク様よりも、他家の男性を私の……」

 エレーナさんは口ごもってしまった。

 俺が予測するに、二人の婚姻は政略結婚というものだ。実際、クルスクの父は若い後妻を娶った。

 しかし、クルスクは家を出て、軍人になった。父の跡は継がないとはっきり言っている。

 そんな彼をエレーナさんの父親は好ましくは思っていないのだろう。あるいは、娘のことを不憫ふびんだとも。十年も会おうとしない男を慕い続けているから。

「では、エレーナさんはどうなんです? クルスクからはっきりと拒否されたら、それを受け入れるのですか? そもそも、貴女は彼のことをどう思っているんです。親が決めた許嫁だから、という理由ではなく」

 俺はあえて尋ねた。今までの話ぶりから、エレーナさんはクルスクのことが好きだ。そのことを知っていながら。

「もちろん、あの方のことは慕っていますわ。はじめは優しいお兄様と思っておりました。それがはっきりと異性として感じたのは、あの方が私の踊りをしっかりと観てくれたから」

 エレーナさんはむっとした表情になり、強い口調で答えた。

「幼い頃より嗜んだバレエですが、講師、周囲の人たちはほめるばかりでした。誰も私の踊りより、父の機嫌を伺うからです。だから、踊っていても虚しかった。そんな時に、あの方は言ってくださいました。君の踊りは、人形が動いているだけだ。と。悔しかった。だから、あの方に認めてもらおうと必死に練習しました」

 それも、きっとクルスクなりの優しさなのだろう。

「その甲斐があって、貴女はアカデミィに入学出来たのですね」

「ええ。私の父も本来ならば別の道を行かせたかったそうです。けれども、私、生まれて初めて父に強く願いました。その熱意に折れ、父は受験を認めてくださったのです」

 ならば、尚更バレエの道を諦めるのは辛かったはずだ。

 その時、クルスクはエレーナさんに何も言ってあげなかったのか?

「先程聞きそびれたのですが、マルスさんがクルスク様とお知り合いということは、勤務地も同じなのですか? あの方は今、とある任に就いていると聞いておりますけども……もしや、マルス様が告白しようとした任に?」

「そ、それは……」

 再びその話題になると、言葉が詰まる。今話せば、クルスクに迷惑がかかってしまうからだ。

「すみません。極秘事項としか言えないんです」

「……そうですか。私も父の仕事上、たとえ家族、親しい方にも言えない任があることは理解しております。それなのに、貴方は私に打ち明けようとしていたのですね」

「いえ……。今日の対面、クルスクとはどこで何時に会う約束をしたんですか?」

「時間は午後の一時。場所はこちらになります」

 自分の腕時計を見れば、現在一二時を少し過ぎたころだった。

「一時ですか……あと、一時間くらいですね。この店を選んだのは? クルスク? エレーナさん?」

「クルスク様です。実は、このお店のブリヌイをお勧めになったのは、あの方なのです。生まれて初めてブリヌイというものを食べて、その味に感激いたしました。それ以来、私はブリヌイの虜ですわ」

 エレーナさんのにこりとした表情に、俺は嬉しくなった。

 ブリヌイが、十年会っていないエレーナさんとクルスクを今でも繋いでいるから。

「俺とクルスクの仲を取り持ってくれたのも、ブリヌイなんです。それに、マイラとも。十年会っていなかったとしても、クルスクはクルスク。昔の貴女が知る彼と何も変わってないと思いますよ。だから、彼を信じましょう。悪い結果にはならないはずです」

「うん。わたしもえれーなのこと、応援する!」

 マイラはエレーナさんの手をぎゅっと握る。

「……はい。ありがとうございます」

 クルスクとエレーナさんの再会を、俺はちゃんと見届けようと思った。クルスクだって、彼女のことを今でも想っているはずなのだ。

 ともあれ、あと一時間ほどでクルスクはこの店に訪れる。その時、彼はエレーナさん、それに、同席する俺にどんな反応を見せるのだろう。

 エレーナさんの頼みで同席することになったけれども、ある意味、運が良かった。もしかすれば、これをきっかけにクルスクとの仲が修復するかもしれない。

 出発前の憂いの一つが解消されることに俺は期待した。

「くるすくがここに来るまでまだ時間があるから、ぶりぬい、また注文しても良い?」

 いつのまにかブリヌイを食べ終わっていたマイラがお願いする。

「いいよ。じゃあ、店員を……」

 呼ぼうとして、店の出入り口側を見た時に、はっとした。

 その方向に、まさかの人物がいたのだ。

「ん? どうしたの、まるす――あっ」

「マルスさん、誰が……あ」

 俺の驚いた顔につられて、マイラ、エレーナさんも同じ方向を見た。

 二人も、同じ反応をする。

「クルスク……様?」

 エレーナさんは十年振りに見る婚約者の名を呟いた。

 その通り。店の出入り口にクルスクが立っていたのだ。休息日でもしっかりとスーツを着こなし、髪を整えて。二枚目の彼は、人が多い場所でもやはり目立つ。

「な、何でこんな早くに? いや、クルスクなら、ありうるのか……」

 来るのは分かっていたが、早過ぎる到着に俺は焦った。

 しかも、俺とクルスクの目線が合ってしまう。

 しまっ――と思った瞬間に、クルスクは俺たちの元に駆け寄る。

「マ……ベロウソフ。お前、どうしてここに、それに……エレーナも」

「……」

 突然のクルスクの出現に、俺とエレーナさんはすぐに反応が出来なかった。

 二人の十年振りの再会は、穏やかとはいえない雰囲気で始まる。

 

 





 

 


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