蒼穹 ―イワン・ヤコヴレヴィチ・アニケーエフー

 一九六〇年一〇月初旬。降下訓練期日まで残り、一日。

 早朝、俺はイワンの部屋を訪ね、ドアをノックする。

「……君、か」

 体操着のイワンは俺を見て、一寸驚いた顔をのぞかせたが、元に戻った。

「朝早くすまない。君にお願いがあるんだ。今日の訓練飛行、俺を乗せてくれないか?」

 俺は頭を下げて頼んだ。

「は? 君が僕と一緒に?」

 今度は困惑した表情に。

「中佐の許可は取ってある。俺の事も気にしないでくれ。絶対に取り乱しはしない」

「……分かった」

 イワンは了承してくれた。

 俺は安堵する。もし一度は断られたとしても、俺は土下座までして彼にお願いを聞いてもらうつもりだったのだ。


 午前九時、訓練飛行の時間が訪れた。俺たちは揃って基地に移動する。到着後、与圧服に着替え、ヘルメットを装着し、訓練機に乗り込んだ。操縦席はイワン、後部座席には俺が着座して。エンジンが起動し、コクピット内は轟音で満たされ、尻から揺れを感じていく。

 父さんが死んでから一年以上の時を置き、操縦席に身を置く。そんな空白を感じることなく、俺は自分でも驚くほどに落ち着いていた。外には教官が俺の体調を懸念して医師を控えさせているという。余計なおせっかいだ。

『マルス、発進するよ』

 通信機から聞こえるイワンの声に、俺は「頼む」と返事した。

 機体はゆっくりと動き出し、滑走路を行く。徐々に速度は増し、風防から見える景色は次々に後ろに遠ざかった。瞬く間に時速二〇〇キロへ達し、地を蹴って、飛んだ。

 俺たちは重力の枷を振り切り、空への一歩を踏み込む。

『全て、知ったようだね』

 飛行中、イワンから通信が入った。

『僕は君に謝らない。僕は命令を実行しただけ、なのだから。……僕が謝罪し、罪の意識にさいなまれることは、あの飛行士にとって最大の侮辱だ』

 侮辱。飛行士にとって空で死ぬことは、ある意味では幸せなことかもしれない。飛行士は常に死の覚悟を持ち飛んでいるのだから。

『君が前に聞いた、僕個人の願い。それなら、僕にもある。最高の飛行士になることだ。僕には飛行機が大好きで、将来は飛行士になると決めていた弟がいた。でも、彼は戦時中、敵兵に殺されてしまった。……それからだよ。彼の夢も背負い、僕が飛行士を目指したのは』

「飛宙士になることが、最高の飛行士の証なんだね」

『その通りだよ。でもね、国家の恩賞を受けた僕がそんな個人的な想いを表に出せるわけがない。周りは僕に期待するのさ。君が結果を出すことで祖国の優秀さを示し、同士は君に憧れ、倣うだろう、と。それで良いと思っていた。だからこそ、あの時も撃ったんだ。あの人、ユーリ飛行士を。君そっくりの目をした、地上のしがらみなど全く見向きもせず、常に空を見据えている大馬鹿野郎を』

「大馬鹿野郎……か、最高の褒め言葉だ」

『あの人は僕に言った。イワン、誰かの荷物を背負って飛ぶのはしんどいだろ、自由になれ、って。はじめは気にしなかったが……あの時、彼を撃ってから常に頭に響いているんだ。センターの講義室で君を初めて見た瞬間、僕は二重の意味で驚いた。あの人と弟ウラジミルそっくりの青年が現れるなんて』

「俺が、君の弟にも?」

『……ああ。彼が大きくなったら、きっと君のような青年になっていたと思う。……ウラジミル。あれ以来、僕の見る空はいつも曇って、青く見えた試しがない。空を飛ぶのが楽しいと思えたことが……ないんだ』

 イワンの声が細くなる。今はいない弟に向かって話をしているようだ。

 彼も、同じだった。俺が彼を兄と思っていたように、彼も俺を弟と重ねていたのだ。

 それに、見える空の色も。

「イワン、父さんは、最期に何て言ったんだい」

『……ありがとう。誰に言ったのかは分からない』

「じゃあ、俺も君に伝えるよ。ここまで連れて来てくれて、ありがとう。君と一緒でなければ、俺は飛べなかった」

『――君たちは……』

 それからイワンからの通信は途切れ、操縦席にエンジン音以外は聞こえなかった。

『マルス、操縦を預ける。レバーを握り、君がこの翼で空に行くんだ』

 再び聞こえたイワンからの通信は、俺がこの飛行機を操縦しろというものだった。

「了解です。マルス・ベロウソフ操縦を預かります」

 俺は迷いなく即答し、操縦桿を握る。

 握った瞬間、俺と――機体が繋がった気がした。桿を右に倒せば機体は右に傾き、左に傾けば同じ。手前に引けば、上へと向かう。

 上へ、上へ。俺の思うがまま、飛行機は上昇する。

 ああ、この感覚だ。初めて空を飛ばした時と同じ、いや、あの時以上に、俺は自由を感じている。

 何を怖がっていたんだ。空は、誰も拒みはしない。飛行機は、誰にでも翼を与えてくれる。

『マルス、思った通り、君はもう立派な飛行士だ。それに、気づいているかい? 高度は既に七〇〇〇メートルを越えている』

 計器の中の高度計を見て、俺ははっとする。

「……うん。イワン、周りを見てみなよ。今、君の見える空は何色だい?」

『……青色だ。今までで見たなかで、一番美しい』

 イワンの言う通り、俺たちの周りには、雲ひとつない蒼穹が広がっていた。

 遥か昔、この色に憧れ、近づきたいと思った者。その者の意志が、俺たちに流れている。

 この空のもっと向こうに行きたいと願うこと。それは理屈じゃない、本能なのだ。

「イワン、ここよりももっと高い場所、そこから見える地球は、どんな色なのかな」

『じゃあ、競争だ。先にあの場所に行けた者がみんなに教える。だから、負けないぞ』

 本当の友となった俺たちは、契りを交わす。

 父さん、俺、前よりもっと空と飛行機が好きになったよ。だから、待ってて。その時に話したいことが、いっぱいあるんだ。

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