白百合からの課題 ―イワン шесть―
――マルス、お前はいつになったら俺の元に来てくれる? あれから、どれだけの時が経っていると思っているんだ。
背中を向け、父さんが悲しそうに俺を求めている。
父さん、ごめんよ。でも、俺はもう行けない。あなたの元へ。だって……。
――言い訳はいい。お前が来てくれないから、俺の顔、体はこんなに変わってしまった。
父さんは振り返り、俺に顔を見せる。
その顔は、腐敗し、脳天が割れ、眼球が片方飛び出し、鼻が削げ、唇がちぎれて歯茎が剥き出しに……
「う、うわあああああっ!?」
変わり果てた父の顔を見た俺は叫び、両目を開ける。
父は消え、白い天井が映っていた。
俺は清潔感のあるシーツを被せられ、ベッドに寝かされていたようだ。
「……夢でも、父さんのあんな姿を……」
あの姿は俺の罪悪感の現れなのか、それとも……。
「マルス君、おはよう……というには良い目覚めではないようだ。凄い汗、水を用意しよう」
と、俺の顔を覗き込み、声をかけるのはタチアナだった。
それで理解する。暴れた俺は意識をとばされ、管理センターの医務室に放り込まれたのだ。
「また訓練で
水の入ったコップを俺に渡し、タチアナは遠慮なく言った。
「……分かってる。タチアナ先生、話を聞いてくれるかな」
俺は水をぐいと飲み、彼女に打ち明けてみようと思った。
「いいとも。さ、お姉さんに話してみなさい」
椅子に座ったタチアナは何故か上着のボタンを何個か外し、足を組んだ。
「原因は、飛行機だ。俺は父がいなくなって以降、飛行機に乗らない……と、ごまかしていたが、今日ではっきり分かった。乗れなくなったんだ。父が消えた空に近づくのが怖くて」
「大切な者を喪わせた原因、場所からの逃避。それはキミに限らず、他者でもありうるよ。実は、キミが候補生になる前の面談、先日の隔離室でもしや……と気づいていた。しかし、ここまで酷いものだったとは。マルス君、ここが正念場だ。お父さんの死を乗り越えなければ、キミが目指そうとする者、場所など……辿り着けない」
タチアナは容赦のない事実を告げる。つまり、飛宙士に選ばれないということだ。
「……笑っちゃうよな。コスモナウトを目指す俺が、飛行機さえ乗れないなんて」
自嘲気味に呟く俺に対し、タチアナは両肩をぐっと掴む。珍しく怒ったような表情をして。
「そこは笑うとこじゃないだろう。マルス・ベロウソフ。事は君一人の問題じゃない。今、君が諦めれば、連綿と引き継がれた先導者たちの意志が……っと、中立の筈の医師が熱くなり過ぎたカナ……ふぅ、アツイアツイ」
何かを訴えたかったようだが、冷静になり、手でぱたぱたと胸元に風を送る。
「……ありがとう、その気持ちだけでも」
掴まれた肩にまだ熱が残っている。本心からの謝礼だった。
「お? やっとボクの魅力に? と、それは置いといて、礼を言うなら外で待ってるキミのパートナーにも言いなよ。それと、白百合殿が呼んでるから、彼女の部屋へ」
「マイラ? 何で外に……」
俺はベットから起き上がり、退室した。
ドアを開けると、
「……わふっ?」
小さな驚きの声が聞こえた。
マイラだ。彼女はドアの向こうから俺たちの様子を伺っていたらしい。
「さっきは……」
ごめんと言いたかったが、どうにもばつが悪い。俺の声は停まった。
「マイラ、俺、中佐の所に行かないといけない。部屋で待っててくれないか?」
替わりに、無難な言葉を彼女に送る。それから、中佐に叱られる姿も見られたくなかった。
「……うん」
寂しそうに頷くマイラを後に、俺は中佐の部屋に向かう。
「中佐、失礼しま……ん?」
ドアをノックしても反応が無い。いつもなら直ぐに返事があるのに。
外で待つのも間抜けなので、鍵が開いているのを幸いに、俺は入室した。
主不在の部屋はいつもの緊迫感がなく、閑散としている。これまでに数度入室したが、中を観察する余裕などはなかった。
色彩の無い空間。それが俺のこの部屋の記憶だった。あるのは机、椅子、書類の棚と、執務に必要な物のみ。壁に絵、写真は飾らず、机に花も添えていない。
ここで彼女はリーリヤとしてではなく、共和国空軍中佐としての役割を演じているかのようだった。
だが、そんな記憶の部屋に、今、異質な調度品を発見した。
それは、執務机の側の蓄音機。ベロウソフ家にも、同じものがあったのだ。
おそらくは、中佐の私物。今まではどこかに隠していた。それとも、最近、持ち込んだのか。
俺は中佐でなく、リーリヤとしての彼女に興味が湧き、蓄音機に近づく。
乗せてあるレコードは、
「中佐も、この曲が好きなのか……」
あのバレエ舞曲だった。
父さんと中佐は趣味、好みが同じ。それが分かり、彼女に親近感を持った。
そういえば、まだ父さんと中佐の関係を聞いていない。あの思わせぶり、もしや……。一瞬、おかしな想像が浮かび、急いで頭を振る。父はその時既婚者だ。
頭を振れば、執務机の上に目が移った。そこには、何枚かの書類が放置されている。俺たち候補生の顔写真つきの。これは多分、中佐が上に提出する査定書だ。
その時、俺は見てみたいという好奇心と、見てはいけないという罪悪感の両方が浮かんだ。こんな泥棒紛いのこと、卑怯じゃないのか? でも、中佐は俺にどんな評価をしているのか……。
結果的には後者が勝り、俺は書類を手に掴む。
手にした書類はイワンで、彼の経歴が記してあった。
『イワン・ヤコヴレヴィチ・アニケーエフ。一九三七年グジャルスク生まれ。国家奨励金制度認定者。空軍大学校卒業後、ニケリア基地にテストパイロットとして勤務』
そこまで読んで、俺は彼が勤務した基地名「ニケリア」に目が停まった。
どこかで、覚えがあったのだ。俺はその名を初めて知ったわけではない。だが、心の中で彼とその場所が結びつくのを否定したい気持ちがあった。
彼の書類を伏せ、次の紙に手を伸ばす。それは、俺に関するものだった。
『……訓練初期に比べればここ最近の成長度は著しい。彼の特徴として、他の候補生への影響が見られる。特に、チャーチフ、クズネフォワ。この両名は彼との接触がきっかけで更なる成長を遂げた。当て馬と目された彼は上層部の思惑通り、その役割を充分に果たしている。だが、近頃、鍵との関係が良好ではないようだ。これでは、彼本来の役目、調教師の……』
当て馬? 調教師? 一体、どういう意味だ?
当て馬というのは昨日、フルシェコからも聞いた言葉だった。
二つとも良い意味では使われてない気がする。これ以上読み進めていけば、何かが壊れてしまう。そんな寒気が俺の足元からじわりと迫った。
が、それでも知りたいという欲求で俺は文章の続きに目を移す。
――と、同時に外から軍靴の音が聞こえる。あの音の立て方は中佐だった。
俺は慌てて書類を元に戻し、椅子に座った。寸分違わずドアが開かれ、中佐が入る。
「……上官の部屋に勝手に入るとは。お前もつくづく軍人に向いてないな。まあ今回は呼び出しておきながら部屋を空けた私が悪いか」
中佐は俺を怒らず、呆れ顔で部屋の中を歩き、自分の席に着く。
「……気分はどうだ?」
「は? はいっ。今は落ち着いています」
俺はその言葉に、目の前にいるのは中佐なのかと驚く。いつもなら、大説教だ。
「なら良いが……指導教官から抗議が入り、お前は降下訓練に参加出来なくなった」
「……ですよね」
一転、半ば予測されていた結果に肩を落とす。
「ああなった原因は、ユーリさんの死だな」
中佐は
「分かって当然ですよね。貴女なら」
「どうして私と彼の過去を聞かない? あの時、お前はチャーチフの記録を抜いたではないか」
「それは……俺が納得していないからです。あの時の勝負は、引き分けだと思っていますから」
「……ふふ。そんなところもあの人にそっくりだな」
彼女は俺を意味深な目で見つめる。俺の中の父を思い出しているのだ。
まさか、父を好きだった……と言うんじゃないよな。
俺のそんな思惑に反し、中佐はいつもの表情に戻った。
「前にも言った通り、候補生は教官の要求する基準に満たなかった場合、退所してもらう。なので、一週間後までに高度七キロからのパラシュート訓練に復帰出来なかった場合――」
「え? 一週間後!? それはあまりにも……」
「一週間の猶予を与えると考えろ。その時点で飛べなければ、この先一生無理だ」
俺の不平を中佐は鋭い声で遮る。優しいと一瞬でも思った俺があさはかだった。
「……分かり、ました」
俺は唇を噛み締めながら了承した。
中佐の部屋から退出した後、俺はふらふらと部屋に戻り、ベッドにぱたりと倒れ込む。
気力が、完全に萎えた。
飛行機に乗れることも出来ないのに、一週間後までに高度七キロから飛び降りろって?
中佐は俺に死ねと言いたいのか? ……あの人なら充分ありうる。
今度ばかりはどうすればいいのか分からない。俺の中で絶望というより、諦めがじわじわと広まりつつあった。
「……まるす、大丈夫?」
不意に、小さな声で呼びかけられる。
「あ? ……マイラ、いたのか」
彼女が部屋にいたことさえ失念するほど、今の俺は追い詰められていた。
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