外伝・初顔合わせ(32)〜ようやく風呂から上がるのです〜
「天ノ宮ちゃーん? 姫美依菜ぜきー? のぼせてないー? ちゃんこできたよー」
天ノ宮部屋十両以上用浴場の脱衣場の方から、女性の声がした。
二人に、特に天ノ宮にとって聞き慣れた声であった。天ノ宮部屋部屋付き親方の島村親方だ。
彼女ののんびりのほほんとした声を聞いて天ノ宮はぎょっとした。
自分が姫美依菜にお姫様抱っこされたまま浴槽の中にいるのを見られたら。
どうしようどうしようどうしよう。
見られたら。
そう思うと体を動かした。足をまず動かし、浴槽の石のタイルの床に足をつけようとするが。
その前に。
がらっ、という元気の良い音がして、浴場の入口の引き戸がいきよいよく開いた。
そしてその向こうから現れたのは。
予想通り、黒いやや長いボブカットで、黒い目の、親方用浴衣に身を包んだふくよかな女性、島村親方であった。
島村親方は、浴槽内にいる二人の姿を見た。にこやかな笑顔のまま。
驚愕と羞恥心が入り混じった顔で、天ノ宮は彼女の姿を見た。
島村親方と視線が合う。
そのまま体が固まった。
姫美依菜は、そんな二人の姿の間で、平然としていた。羞恥心ナニソレオイシイノ? というような顔で。
そのまま、数秒のときが流れた。
温かい湯が浴槽の中へ流れ続ける音。
熱気を帯びた湯けむりがもうもうと立ち上る音。
天井から冷たい水滴が落ちる音。
そんな環境音楽だけが、しばらく流れていたが。
一人の女声の声が、静寂と環境音楽を止めた。
「あらあら〜。仲がよろしいようで〜。ごゆっくり〜。ちゃんこには遅れないでね〜」
島村親方が仲居のような口調でそう告げると、浴場の入口の引き戸が再び勢いよくがらっ、と引かれ、ぴしゃっ! という元気のいい音を立てて閉じられた。
再び、浴場内に沈黙と環境音楽が復活した。
「……」
「……」
天ノ宮と姫美依菜はお姫様抱っこの状態でしばらく固まっていたが。
ゆっくりと、機械人形が首を動かすように、天ノ宮が姫美依菜の方へと首を後ろに向けると、
「ばばばばれちゃった……!」
とこわばった顔で呟いた。その顔には、どうしよう、姫美依菜関、という問いかけが込められていた。
しかし、天ノ宮は平然とした顔で、
「そっかな、親方、気にしてないような顔だったけど?」
と応えた。
そして相手を安心させるかのように笑いかける。
しかし、天ノ宮は、その笑みにも落ち着かないような表情で、
「そうでしょうか……? 親方、いたずら好きだから……」
不安げな声色で応えた。
そんな彼女を無視するかのように、
「ちゃんこの用意できたんでしょ? もうそろそろ風呂から出ましょ?」
姫美依菜はそう言って、蹲踞の姿勢から腰を浮かし、天ノ宮が起き上がるのを助けける姿勢を取った。
天ノ宮はゆっくりと浴槽の床に足の裏をつけ、
「う、うん……」
うなずいて言葉を返しては起き上がり、完全に立ち上がる。
気絶するほどの頭部への打撃がもたらした体のしびれはもう残っていなかった。
それには安堵しながらも、天ノ宮の中にある別の不安感は未だに取れていなかった。
──島村親方、変なことしてこなきゃいいけど……。
うつむき加減に天ノ宮は風呂から出ると、足取りも重く、浴場の出口へと向かうのであった。
一方姫美依菜はそんな彼女の、少し猫背になった背中を見やっては、
──天ノ宮ちゃん、気にし過ぎだなあ……。
と内心苦笑した。
──あの人、見かけはああだけど、さっき天ノ宮ちゃんが御笠親方に怒られたときにはあたしたち側に回ってくれたし、あたしたちのことは秘密にしてくれるんじゃないかなあ。
それに、バラされても気にするような類のものでもない気がするしね。
……でも、そんな天ノ宮ちゃんが、可愛いっ。
前をゆく銀髪の姫力士の背中に、姫美依菜はただ苦笑するのみであった。
(続く)
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