外伝・初顔合わせ(21)〜カノジョの事情・姫美依菜編〜
天ノ宮部屋の十両以上浴場の中は湯けむりでもうもうとしていて、肌から汗がダラダラと流れ落ちるほどムッとしていて、まるで熱帯雨林のような蒸し暑さであった。
その中を姫美依菜と天ノ宮は手をつなぎながら浴場のタイルをしっかり踏みしめると、床に埋め込まれている浴槽の中へと足を踏み入れていった。
姫美依菜が浴槽の中に足を入れると、温かい、というよりも熱い、という感覚がつま先から脳天へと伝わる。その熱気を快感に思いながらそのまま足を湯の中に踏み入れ、浴槽の中に設けられた段差から降りてさらに深みへと足を進める。
そして体も湯の中に沈め、天ノ宮とつないでいた手を離し、くるりと体の向きを変えると、反対側の浴槽の壁に背中を当て、足を伸ばす。
天ノ宮も同じように体を動かすと、背中を壁につけ、うん、と背伸びをすると、姫美依菜の方に顔を向け、
「お風呂の湯、どう? 熱くない?」
と笑顔で尋ねてきた。
尋ねられた姫美依菜も笑顔で、
「うん、熱いけど、気持ちいいよ。あたしには、丁度あってる」
と返した。
その返事を聞いて天ノ宮はホッとした表情で、
「そう、良かった」
と言って、前を向いた。
姫美依菜は銀髪の力士姫の表情を見て、やっぱり、さっきのこと気にしてるんだ、と思った。
あんなことしてすまないとは一応思っているようだ。でも、心のどこかでは自分は悪くないとも思っているとも思えた。
それは決して悪いことではない。自分に矜持を持つのは、皇族や王族貴族、それに個有魔法を持って生まれた者など、何かを持って生まれた人間の性質であるし、そういう性質は自分でも持っているからだ。
そんなことを思っていると、
「ねえ、貴女はどうして相撲を始めたの?」
と横から声が飛んできた。天ノ宮がこちらを再び向いていた。その目は宝物を見るような目つきだった。
「え、あたし?」不意に問われ、姫美依菜はキョトンとした顔でそんな声を上げてしまう。しかし、すぐに心の態勢をもとに戻すと、
「相撲を始めたわけかぁ……」と天井を見上げた。モヤッとした中に、白色の天井が見えた。
何から話そうか、目まぐるしく頭の中で考える。そして気持ちを整えると、少し下に首を下げながら、身の上話を紡ぎ始めた。
「……あたし、小さい頃体がもともと弱かったの。それで、母親が体を鍛えなさいと始めさせられたのが、相撲だったの。つまり、やりたいから相撲を始めたんじゃなくて、無理やり始めさせられた。それが始めたわけね」
「それがどうして今まで……」
「面白くなったからよ。もっと詳しく言えば、勝って楽しくなったから。相撲って小学三年生ぐらいまでは男女混合で相撲を取るでしょ。それで男の子に勝って、気持ちよかったの。それで面白くなっちゃって……。その楽しさを知っちゃったら、負けたら悔しさも倍増で、ますます勝とうと思っちゃって……」
「……女流力士によくある光景ですわね」
「ええ」
そう言い交わすと二人はお互い見つめ合い、笑顔を交わした。
その一方で姫美依菜は天ノ宮の笑顔を見ながら、彼女の顔にまだ陰りがあるように見えた。
彼女にもっと近づくためには、優しく下手に出たほうがいいのかもしれない。というか、励ましたほうがいいのかも……。
あの三番稽古の最後のわがままぶりからすると、このあとにあると思う稽古とかは、「優しく」したほうが良いのかもしれないわね……。
彼女は忖度と嫌がるかもしれないけど。
そんなことを思いながら、姫美依菜は肩を下ろし、優しい笑みを維持したまま言葉を続けた。
「それから五年六年と小学生全国大会に連続優勝して、小学校卒業したあとは秋津洲中等部に上がって、それからずっと大学まで相撲一辺倒。で、大学三年のときに全秋津洲女子相撲大会に優勝して、幕下付出の資格を得たの。そうして女子大相撲界に入ったってわけなんです」
「小学校のときにそんなすごい成績なら、中等部卒業したときに角界に入ってしまえばよかったのに……?」
姫美依菜の語りに天ノ宮は眉を不思議そうな感じに動かして、問いを投げかけた。それは相撲を知る人ならば最もな問いであった。相撲がもともとあった地球という世界では、角界では高校や大学卒よりも、中卒のほうがより良い番付に上がれるというジンクスじみた物があった。
それはそれぞれの数の違いというものもあったが、稽古に打ち込める環境などが違ったり、もともと才能あるものが早くからスカウトされて角界に入るから、ということが大きかった。
この秋津洲皇国でもそれはあまり変わらない。ただ、それは男子においてであり、女子だともう少し傾向が変わってくるが。
その問いに、姫美依菜は笑みを変えずに応えを返す。
「中卒の時に当然そういう誘いはあったんです。でも、親たちが反対したんです。『お前は大学まで勉強して、巻島家にふさわしい教養を積みなさい。角界入りするのはそれでも遅くはないわ』と言われて」
「それに貴女は反対しなかったの?」
「反対する理由がなかったです。あたしにとって」姫美依菜は天ノ宮のさらなる問いに笑みを崩さずに応えた。「高校のいろいろな大会にも出てみたかったし、大学の大会にも、全秋津洲選手権にも出てみたかった。いろいろな経験を積んでから角界入りしても遅くはないかなと思ったんです。人生は長いし」
そう言って姫美依菜は小さく笑った。笑いながら、これで天ノ宮関は納得してくれただろうか、という不安が胸をよぎった。
秋津洲人は人種や階級、職能、受けた医療技術などにもよるが、100歳超えは当たり前であり、肉体の若返り、不老不死などもおかしくはない世界である。職業や姿や名前などを変え、人生を何度もやり直すというのはごく普通にある世界である。そうした人生の長さゆえ、姫美依菜が言った理由にも説得力はあるのであった。
「そうなんですか……」
相手の話を聞き終えた天ノ宮は納得した笑みを見せた。
彼女のその笑みを見て、姫美依菜は良かった、と内心で安堵のため息を吐いた。
それを知ってか知らずか、天ノ宮は小さく息を吐くと言葉を続けた。少しだけ、真面目な表情になって。その表情には、皇族らしい威厳あるものが感じられた。
「では、貴女の話を聞いた以上、わたくしも自分がどうして相撲を始めたのか、話さなければいけませんね。礼儀として」
(続く)
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