第1話 松永夫妻
都心から離れた郊外の住宅街に松永夫妻の家はある。二年前に建売物件になっているのを広告で発見した。白を基調にした二階建ての洋風の外観、カウンターキッチンが気に入り三十五年ローンで即決した物件だった。
「あ、明日からまた仙台に出張になった」
帰宅早々、部屋着に着替えながら康介が脱衣所から声を出す。
「え?また出張?システムトラブル?」
献立を食卓に並べながら、
「いや、今度は新規案件でさ、ウチのシステム導入する新しい会社にベタ付きだな。テスト運用もするから二、三日はかかると思う」
夫である
導入後はシステムのテスト運用と不具合チェック、時に緊急のシステムトラブルで、その会社に付きっ切りでフォローすることになるため出張が多い。最近ではアプリ制作で一発当てた若い会社の顧客が増加しているらしい。
昔から性格も明るく、人懐こくて兄貴肌の康介はクライアントからも好評で、上司からの評判も良い。三年前に途中入社したにも関わらず今では主任の立場で現場ではある程度の責任を負っている。
テーブルに着くと缶ビールをコップに注ぎ、お互い小さく「お疲れさま」と乾杯する。煮物と味噌汁、イカフライとちくわの磯辺揚げ。弥生は忙しくてもなるべく三品以上作ろうと心掛けていた。料理は嫌いじゃなかったのが自身の性格の助かるところでもある。
「明日からかぁ……いつもながら急だねぇ」
味噌汁をすすりながら弥生がテーブルの上にある卓上カレンダーに目を落とす。
「ごめんな、あ?明日なんかあったっけ?」
「ううん。予定は無いんだけど。じゃぁ今夜は、しておかないとダメかもしれないかな」
「あ、排卵日そろそろだっけ?」
モグモグと口を動かしながら康介もつられて卓上カレンダーを見る。カレンダーには明日の日付に小さな丸が付いている。
「うん。……大丈夫かな?」
「任せろ」
康介は箸を持ったまま親指を立てて笑った。
「えへへ。うん」
弥生は少しだけ照れたように笑った。胸あたりがほっこり温かくなる。
結婚して五年、共働きの私たちにはまだ子供がいない。
軽いキスをするのが康介の始まりのサインだった。
もうドキドキすることもなくなったけどすぐに熱くなる体温と大きな手に包まれると安心して身を任せらせる。
昔はあまり好きじゃなかったセックスも長年の付き合いですっかり康介の形になってしまったのか、痛かった挿入も今では快楽を伴うようになった。
「あっ……こ…すけ、そこっ」
「ん?ここ?いいの?」
「っん……きも、ち」
指を絡ませ、手を繋ぐと心地いい慣れた重みで幸せな気持ちになる。正常位で果てた夫を受け止めた濡れた身体はなるべく動かさないよう気を配らせ、弥生はそのまま眠りにつく。
康介はいつも身体の繋ぎ目を離す前に、弥生の唇に触れる程度のキスをする。
「弥生、好きだよ」
真っ暗な部屋で互いに抱きしめたままいつも耳元で囁いてくる。
「私も康ちゃんのこと大好きよ」
来月で弥生は三十歳になる。
早朝、日の出より先に夫は出張先の仙台へと旅立っていった。広くなったベッドに広々足を伸ばすとその温い空間に心許ない気持ちになって気の抜けたような物足りないような感覚に襲われる。
弥生はベッドのサイドテーブルに置いてあるスマートフォンを手にし、ある事務所へ電話をかけた。朝の五時四十五分。
「……うあい、杉山探偵事務所です」
「松永です。おはようございます」
電話先の男の声は明らかに着信音で起こされたようなかすれた声だった。
「今日、出張となりました。今回も仙台の方です。はい。新幹線で。急で申し訳ありませんが、はい。交通費はもちろんこちらに請求いただいて結構です。はい。ではお願いします」
電話を切ると仰向けに天井を見上げた。いつもと同じ朝。遮光カーテンから薄っすらと太陽の光が照らされ始める。顎に力が入るとそのまま欠伸が出た。
いつもより力を入れてベッドから飛び起き歯を磨き、慣れた手つきで化粧をして髪をブローしてコーヒーを淹れる。
ニュースをつけると決まった時間の天気予報をチェックし、その後はダラダラと流れる時事問題やスポーツニュースをBGM感覚で聞いていた。
エンタメ情報になり週刊誌に不倫をリークされた有名俳優が囲み取材を受けている。朝のゴールデンタイムに丁寧な大型ボードまで準備され、妻の会見付きで解説されていた。
弥生は着替える手を休めることなくぼんやりと眺めていた。
――夫が世間を騒がせてしまい、関係者の皆様には大変ご迷惑をお掛けしました。今後のことは子供のこともありますので、二人でよく話し合って……
不倫俳優の女優妻は顔をハンカチで押さえながら堪えきれぬ涙を拭うたびに浴びせられるシャッター音とフラッシュに顔を照らされ続けていた。
弥生はテレビを消し、静かになった室内に小さなため息を漏らした。
「調査の結果ですが、ご主人は浮気されています」
結婚二年目から、康介には不特定多数の女性と交流がある。
「現場の写真も抑えてあります。こちらです。調停になっても問題なく離婚できるでしょう」
刑事ドラマでよく見るようなホテルに入る直前のカップル写真が数枚テーブルの上に置かれた。長い髪をした女性はおそらく弥生よりも若く、スラリとした長身の女性だった。その女性に優しく微笑む男性は間違いなく自分の夫だった。
「離婚……?」
弥生は一部の口コミサイトで有名な腕のいい探偵事務所へ調査依頼をかけていた。
個人事務所と構えているそこは、杉山という五十代くらいの男性が一人で運営している事務所だった。
十二畳ほどの広いフロアがあるようだが、仕切りがされていて奥が見えない。その手前にある打ち合わせスペースで弥生は写真を手に取っていた。
事務員もいない静かなフロアでとりあえず出した冷えた缶コーヒーが暖房で汗をかいていた。
「日にちと回数、人物を調べても少なくても女性相手は二人。ご主人の結婚指輪を外している様子もないので、相手方は不倫と知りながらこの関係を受け入れています。裁判を開いて慰謝料を取る場合はご主人の年収を考えると…」
ノーネクタイのスーツ姿のこの男は
よれたワイシャツと煙草の匂いをたっぷり染み込ませたスーツからすると既婚者では無さそうだ。
杉山は無精髭で笑顔を振りまくこともしない。しかし依頼に対して真摯に対応をしてくれる姿はさすが評判になるだけはあった。
座っているだけで相手を制圧できそうなくらいの体格と重低音のある低い声は相手を緊張させる威圧感があった。
「あの……私は夫と離婚するつもりはありません」
「えっ?」
意外な返事に杉山は捲る資料の手を止めた。
調査期間と十分過ぎる証拠があるため通常このような調査結果の場合、次のステップは離婚調停への対策と準備だと杉山は説明した。
「我儘を言って申し訳ありません。私の気が済むまでこのまま調査を続けていただけませんか?」
「依頼者がそのようにご希望ならば……そうしますが、奥様は辛くありませんか?言いにくいですけど、この一年足らずの調査で三人の女性との関係が明確になっています。こういうタイプの男は今後さらに出てくる可能性もありますよ」
「……かまいません。続けてください」
弥生が俯きながらもそうはっきり言った。
杉山は同じ説明を二度はしない。
女性の身辺調査と関係性、行為頻度等の詳細調査と追加費用の見積もりの提出日を説明してから引き続き弥生には夫の携帯・SNS・パソコンの履歴等の記録の協力依頼を促した。
これらの調査続行依頼をしたのは先週のことだ。
弥生はリビングにある二月の卓上カレンダーを一枚めくる。
一般的に女性は三十五歳を過ぎると高齢出産と呼ばれる。妊娠率の低下、出産時のリスクが二十代前半の倍以上になってくる。
結婚して五年。妊娠を希望するようになって三年。一年以上の夫婦生活で妊娠しない女性は「不妊症」と認定される。
わたしは来月で三十歳になる。
弥生は昨晩の行為を思い出し、下腹部に手を当てた。
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