59.雪解けはまだ遠い
結論から先に言うと、エバーグリーン家の『ジャン問題』は解決した。
部外者である私抜きで話し合い、次にはジャンお兄様抜きで大人だけで話し合い。一度夫婦だけでゆっくり話す時間が必要だろうと、お兄様は私同様しばらくこの屋敷で過ごすことが決まったらしい。
らしいというのは、その時ばかりは毛玉を部屋に侵入させ、盗み聞きをさせていないからだ。さすがにそこまで野暮なことはしない。
とにもかくにも叔父様と叔母様のみ、あの日の昼過ぎにエバーグリーン家本邸へと────ジャン=クロードが生まれ、育ち、そして雪に降る日に儚くなった事件現場とも言える場所へと戻った。
酷なことだけど、現実と向き合うためには避けて通れない道だろう。
それから数日が過ぎ、お祖父様の私邸の中は慌ただしいようで密やかな、なんとも奇妙な空気が流れていた。
「ま、そうなりますよね普通。ねぇ毛玉?」
「ピッ!」
一人息子だと聞いていた『ジャン坊ちゃん』が実は第二子で、第一子は十一年前に不審死。若奥様はそれを受け入れられず心を壊し、『ジャン坊ちゃん』を第一子のジャン=クロードだと思い込んでいた────なんて。
このエバーグリーン家に仕えて十年未満の、年若い使用人達にしてみれば寝耳に水どころか寝顔に熱湯だろう。
「カミーユなんて面白いんだよ」
「プピ?」
「一緒にお祖母様の肖像画を探した使用人だよ。ほら、きみ達が転ばせた金髪ドジっ子」
毛玉は「ああアイツか」と小馬鹿にしたような息を吐いた。同様に部屋のあちこちに好き勝手に居座る半透明達も、ぴくりと反応する。
どうやら、彼の精霊なんていない発言は未だに許していないらしい。
「そのカミーユがさ、『最後に見つけた絵はミシェル様じゃなかったんですね。間違えてすみませんでした』って言ってきて。いやいや気にするところ違うでしょ、みたいな」
笑ってしまう一方で、カミーユの言葉があったから今があると言ってもいいぐらい、私は彼を高く買っている。
保管室でお祖母様の絵を探した日。彼は言った。
カミーユという名前は、領主につけてもらった。自分に不幸が降りかからないよう、両親がわざわざ領主に頼んだのだと。
子どもが生まれるとその地域の有力者に名付け親になってもらう、というのはよくあることだ。けれど領主となると労働者階級の者はおいそれと会うことはできない。
きっとカミーユの両親は、何がなんでも我が子には幸せになってほしいと願ったのだろう。
カミーユは愛されている。彼自身もそれが分かっているのか、父親からげんこつを食らったと言う顔は照れくさそうだった。
「……生まれて一番初めにもらったものが、呪いだなんて。そんなことあっていいわけないよ」
私が思い出せる最も古い記憶。三年前に高熱で朦朧とする意識の中で聞いた、あの言葉。
『男であればよかったのに』という声は、私にとって間違いなく呪いだ。
そしてミシェルという名前が、綴りが違えば男の名前になると知った時。呪いは私の中に深く根付いた。
ああ、これは私のためのものじゃあない。生まれてきてほしかった跡継ぎに、息子のために用意しておいたの名前だったんだ、と。
それからというもの、名乗るたびに心が軋んでいた。
しかし、ミシェルのような男女共通の名前は、その子が人ならざる者に拐われないように願いを込めて付けられると知った。
マリーは死後も愛される祖母のように、強くて、気高くて、美しい子に育つようにと願いを込めて付けられたと知った。
ミシェル・マリー・パールグレイ。
この長くて舌を噛みそうな名前は、パールグレイ家に生まれた金髪の女の子のためのもの。
私の人生が幸多いものであるようにと、願いを込められて付けられたものだった。
パールグレイの屋敷を出て、色々なものに触れて、ようやくここにたどり着くことができた。
きっとここへ来ずに『ジャン問題』に関わっていたら、ジャンお兄様の前で堂々と名乗ることなんてできなかった。
三年前にかけられた呪いは、今後も私の心を侵食し、一生解けることのないものとなっていただろう。
「でも、まだなんだよ……」
まだ、完全には解けていない。
ここから先は、パールグレイ家に帰らなければ解けない。
お父様に。自分自身に。「もういい、何をしても無駄だ」と諦めてしまったものに、本気で向き合わなければ永遠に解けることはない。
「帰るのは、いつになるかな?」
「ピッ、プゥン」
「それはまあ、私が帰りたいって言えば叶うと思うけど……」
「プピ?」
「終わってないんだよ、まだ全部は。まだ解決してない謎があるの」
だからまだ帰ることはできない。
とはいえ、ここから先はどうしたもんかな……。まずは頭の中を整理して、残ったパズルのピースがどこにどう収まるのか考えるべきかな。それができれば、さらにピースを集めるにはどこを調べればいいのか分かりそうだ。
「う〜ん、面倒なポジションに転生しちゃったなぁ〜」
毛玉と半透明達しかいないのをいいことに、十歳のお嬢様らしくないため息をついて嘆く。
とそこへ、軽い調子だが躊躇いの一切ないノック音が響いた。
おっと、もうそんな時間だったのか。
「はぁい、どうぞー」
「失礼いたします。そろそろ出発のお支度を」
私の防寒着を持ってきてくれたのは、メイドでもなければ、従者であるルアンとバッカスでもない。
屋敷全体の管理と、主人であるお祖父様のサポートが仕事であるはずの家令だった。
「お祖父様とお兄様の方はいいの?」
「はい。お二人はすでにお支度を終えております」
「つまり、私に話があるんだね」
羽織っていたガウンを脱ぎながら指摘すれば、家令は目を見開き、そして苦笑した。
「どこまでお気づきなのですか?」
「どこって……この屋敷の存在意義? それとも例の家系図の意味?」
用意された椅子に座り、足元に置かれたブーツに足を突っ込む。すると家令は当然とばかりに膝をつき、ブーツの紐を結んでくれる。
「でもどっちも推測だよ。誰も本当のことを教えてくれないから」
「では、その推測をお聞かせ願いますか? 事実とかけ離れたものであってはいけませんので」
「教えてくれるの?」
「わたくしがお話しできることであれば」
言いながら鏡台の前へと誘導され、今度は髪を整えられる。
あの日はお父様から渡されていた魔法薬の一つ────髪色を戻す私専用の薬の効果で金色になっていたけれど、数日が経った今はもうすっかり好き勝手にうねる銀髪だ。
叔母様に現実を突きつけるため、ジャン=クロードと錯覚させるために魔法薬を使ったのだから、終わった後も金髪でいる必要はない。
鏡ごしに家令の様子を窺い、私は数秒考えてから口を開いた。
「お祖父様はジャン=クロードが生まれた頃から、ステファン叔父様に侯爵位を譲る準備を始めていた。その準備の一つがこの屋敷」
この屋敷は、造りや調度品は重厚だけど、古さは全くない。
日頃から掃除をしていても、限界というものはある。にも関わらずどの部屋の壁紙にも日焼けはなく、絨毯や家具にも傷みはない。
公爵家の城のような屋敷と比べると、すべてがはるかに新しいのだ。
「この部屋みたいにカーテンやクッションが新しいのはおかしくないけど、屋敷全体ってなるとね」
「ええ。爵位継承後、奥様とゆっくりと余生を過ごされるために当屋敷は造られました」
「でも、状況が変わったんだよね」
ジャン=クロードの死亡事件が起きた。
あれは表向きは事故として処理されてるけど、本当は違う。彼は殺されたのだ。
そんな状況で国防の長である自分が表舞台から消えるのは帝国側の思う壺。お祖父様は苦しみながらもそう考え、いくつかある問題が解決するまで今の地位にいることにした。
何より、我が子を喪ったばかりの息子に、『エバーグリーン侯爵』という重荷を背負わせたくなかったのだろう。
「ジャンお兄様が生まれて、叔母様が狂い始めて……。お祖父様は二人のために、ジャン=クロードに繋がる全てのものを本邸から運び出した。ここの保管室に肖像画が多くあるのは、そういう理由でしょう?」
鏡の中の家令は「おっしゃる通りです」と目を伏せた。
「若奥様や坊ちゃんが、ジャン=クロード様の絵を見つけぬよう。あのお方の絵や、生前お使いになっていた品々。過去へと繋がる全てのものをこちらへ運ぶよう、旦那様は指示なさいました」
やっぱり、同じだったんだ。
私がここへ来ることになった時、お祖父様は「お前もこの家にいる限り、どうしてもアロイスの影を見ることになる」と言った。
ジャン=クロードの時にも同じようなことをしていたから、私とお父様に距離を置かせたほうがいい、という判断がすぐにできたのだろう。
「ねぇ、その過去へと繋がるものってさ。お祖母様も含まれていたんじゃあないの?」
「なぜそのように?」
「お祖母様は初孫のジャン=クロードを、ずいぶんと可愛がっていたみたいだから」
保管室で見つけた家族の団欒を描いた絵。
描かれていたお祖母様は、第二子妊娠中の叔母様に代わってジャン=クロードの相手をしていた。叔母様が身重でなくても初孫とあれば可愛がるだろう。
「イザベラ叔母様は、金髪のお祖母様が
事実、叔母様はジャン=クロードによく似た
『ジャン』は生まれた時は金髪だった。いつ茶髪に変わったの、と。
「……奥様はそれ以降、ご自分の髪を不満げにつまみ上げて、ため息をつく事が多くなりました」
ちょうど以前のミシェル様と同じように。
家令はそう言葉を続けながら、私の髪にくしを通し続けた。
「それじゃあ……」
「もとは若奥様をお支えするため、本邸で過ごされるご予定でした。ですがミシェル様のおっしゃる通りのことが起き、奥様はこちらへと移り住むことをお決めになられました」
「だからこの屋敷にはお祖母様の部屋がなくて、客間だった部屋をお祖母様が使ってたんだね」
「はい。それがまさに、このお部屋でございます」
当初の建設計画では、当然お祖母様の部屋はあっただろう。けれどお祖母様の部屋は不要になったり必要になったりと、状況が二転三転した。
そこでお祖母様は「窓から見える景色を気に入ったから、この客間を私の部屋にするわ」とあっけらかんとした態度で、この部屋を根城にしてしまったそうだ。
「自分のせいで最愛の家族が壊れてしまうのは耐え難いと。使用人もろくに連れずにこちらへ」
そうしてこの屋敷は、祖父母の穏やかな老後のためではなく、エバーグリーン家の過去を閉じ込めておくための屋敷となった。
「そう……」
ふと、鏡ごしに視線がぶつかった。
懐かしむような、私を通して別の人を見る目。そんな視線にはもうすっかり慣れてしまって、特にどうとも思わない。
「例の家系図の件。あれは叔母様のために、お祖母様が用意したものでしょう?」
ソフィアお姉様とジャンお兄様が生まれたタイミングで作られた家系図。
あれには、それ以前に亡くなっているジャン=クロードの没年が書かれていなかった。
「葬儀とは、死者を送る儀式ではない。遺された者がその死を受け入れるための儀式である。お祖母様の手記の最後に、そう書いてあったよ」
「奥様の……?」
「最後のページじゃあないよ、余ったページの真ん中ぐらいにね。それに続けて、小さくこう書いてあったよ」
────私の死は、遺されたすべて者達がきちんと受け入れてくれますように。
「お祖母様はご自分の終わりが近いと悟って、あの手記を残すことにしたんじゃあないかな」
お祖母様の手記はともかく、我が子を喪った悲しみで心身ともに弱り、さらに身重だった叔母様。彼女はジャン=クロードの葬儀には出席できなかったという。
葬儀が死者のためでなく、遺された者のための儀式だとするならば。
その儀式に参加できなかった叔母様は、永遠にジャン=クロードの死を受け入れることはできないということになる。
「そうかと言って、葬儀を二回もするわけにはいない。だからお祖母様はあの不完全な家系図を作ったんだ」
叔母様が夢から覚めた後、その手で没年を書かせて、ジャン=クロードの死を受け入れるために。
葬儀の代わりの、死の儀式を執り行うために。
「まるで、奥様と会ってお話しされたようですね」
「残念ながらお祖母様とは会えていないよ」
ジャン=クロードとは会ってますけどね。半透明だけど。────とはさすがに言えまい。
お祖父様には遠回しにカミングアウトをしたけれど、果たして信じているかどうか。あの後からそれについて突っ込まれないし、十歳児の空想とでも思われていそうだ。
「お察しの通り、あの日の話し合いの席で旦那様は家系図を差し出されました」
「叔母様は大丈夫だったの?」
「ご安心ください。若奥様はきちんと、その手でご記入されましたよ」
「それならよかった」
ほっと胸を撫で下ろしていれば、いつのまにか長いくせ毛がきれいにまとめられた。
鏡台の前から立ち上がり、家令が広げてくれた厚手のコートに背を向けながら腕を入れる。ボタンを留めれば準備完了だ。
しかし家令は正面に回り込み膝をつくが、なぜかその手は動かなかった。
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なぁに?」
「ジャン=クロード様の死について、どのようにお考えですか?」
なるほど。本命の質問はこれか。
誰か一人ぐらいは聞いてくるかなとは思っていたけど、この人だったか。
「悲しいことだよね。理不尽に、唐突に、一つの命が奪われるなんて、許されていいことじゃあない」
それはこの世で最も、私が嫌う行為だ。怒りすら湧く。
「もちろん許される行為ではありません。ですから言い改めましょう」
見上げてくるその目を、黙って見下ろす。
「あの日に何があったか。あなたはすでに、すべてを見抜いておいでなのではありませんか?」
「…………え?見抜くって、なんの事?」
私は笑った。子どもらしく、困ったように、何も知らないかのように。
自分の手でコートのボタンを留めていく。
「あの子の死は不運な事故でしょう?」
二歳のジャン=クロードは昼寝の途中で目を覚まし、子ども部屋を抜け出した。すると偶然にも、使用人の誰にも見つかることなく屋敷を出てしまい、足を踏み入れた屋敷周辺の森で何らかの獣に出会ってしまった。
子どもの有り余った行動力と好奇心のせいで起きた、不運な事故。世間ではそれが真実だ。
「あなたの言うように何かを見抜いていても、今後見抜くことになっても、表には出さない。そんなの誰の得にもならないもの」
「では……」
「それこそ墓場まで持っていくよ」
叔母様は真実と向き合うことが大事だったけど、それ以外の人も同じとは限らない。知らない方がいいということもあるのだ。
すべてのボタンを留め終え「話は終わり?」と問えば、肯定が返される。
家令は立ち上がると、深々と頭を下げた。
「お心遣い感謝いたします」
「そんなことを言われることはしてないよ」
だって私は、何一つ見抜いてなんてない。なんの話かぜぇ〜んぜん分からないのだから。
待っていてくれた毛玉をアイコンタクトで呼び寄せる。小さな相棒が首元に寄るのを待って、私は毛皮のついたフードを被った。
「さてと、それじゃあ行きますか。お祖母様とジャン=クロードに会いに」
窓の向こうでは、今年最初の雪が舞っていた。
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