38.ロス オブ テンポ
ひときわ大きく聞こえた薪の爆ぜる音に、寝息をたてていた毛玉が目を覚ました。伸びのつもりなのか、丸い体を膨らましてプルプルと震える。
しかし私の膝に戻ってくるなり、またぷうぷうと寝始めてしまった。
「……ミシェル」
毛玉から正面へと視線を戻す。
お兄様は私を見ておらず、チェス盤を見下ろしているであろう目は前髪に隠されていた。
「お祖父様に何か聞いたのかい?」
「いいえ、誓って何も聞いていません。なんとなくそうなんじゃあないかなと、私が勝手に思っただけです」
「なんとなく、ね……。相変わらずだな」
相変わらず。
前にお祖父様にもそう言われたけれど、それこそ相変わらず何が『相変わらず』なのかは私には分からない。でも今はそれを質問できる空気ではなかった。
どこか自嘲するような声に、私は何も返さない。すると少しの沈黙の後、お兄様が言った。
「うちに来ると、たぶん……絶対、ミシェルに嫌な思いをさせることになる。だから……」
「私は相手が第二王子だろう言いたいことは言うし、誘拐犯だって出し抜くし、暴れ馬とだって仲良くなるし、ヘビだって平気です。ちょっとやそっとじゃあ傷つきませんよ」
「改めて聞くと、肝が据わってるってレベルじゃないな」
顔は見えないけれど、お兄様がふっと吹き出したのが分かった。
そのおかげで、ぴんと張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
「そうですよ。お兄様が何をそんなに心配してるかは分からないけど、私、肝が据わってるってレベルじゃあないんですよ」
前世を思い出してからの出来事を思い浮かべると、正直言って私も元引きこもりの貴族令嬢十歳のやることじゃあないな。どうしてこうなったと思って、ちょっと引いてる。
でも今の私は『物事を深く考えないぽやっとした温室育ちのお嬢様』と『アイテムを駆使し敵を物理でフルボッコにする系ゲーム好きのオタク女』。タイプが違うどころか、対極の存在が次元を超えてミックスされて化学変化を起こした結果な存在なわけで、もうどうしようもない。
それこそミシェルの七歳以前の記憶か、前々世の記憶でも思い出さない限り、私はずっとこういう感じだろう。開き直るしかない。
「それでも、ダメですか?」
「遠乗りでも王都でも、ミシェルが行きたいのなら連れていってあげる。でもうちだけはダメだ」
お兄様は重たそうに顔をあげると、今度はきっぱりと言う。
これは何を言っても無駄そうだな……。
「なんで私が嫌な思いをするの?って聞いても、教えてはくれないんですよね」
「そうだね」
手が伸ばされ、頭をゆるく撫でられる。
この撫で方はお母様やお姉様と同じで、私が一番好きなお祖父様の撫で方とは対極だ。
嫌いではないし不快でもないけれど、少し……ほんの少しだけ、モヤモヤする。
「理由も言わないでただ来るなだなんて、理不尽だと思うよね」
「わがままだなとは思います」
「うん、ごめん。わがままだけど、これだけは……」
なだめ聞かせるというよりは、乞い願うような。
そんなものが伝わってくる手を、私はそっと握って頭から下ろした。
「────いいですよ」
まじまじと見ると、小柄な私と比べて、年上だし男の子だから少しだけ大きい手だった。
代々騎士を輩出する名家の一人息子として、早いうちから剣を握らされた手。握ることを選んだ手。
でも、これは子どもの手だ。
「わがままを言うのは、子どもじゃあ当たり前のことだそうです。でもお兄様は私を甘やかすばかりで、そういうことを言ったのは初めてですからね」
これはお姉様にも言えることだけど、貴族の子どもというのはどうにもしっかりし過ぎている気がする。
前世で考えれば、十一歳なんて小学五年か六年だ。
幼くもないけれど、当然大人でもない。自立しているようで、やっぱり子どもらしい部分もある曖昧な年頃のはずだ。
しっかりしているのは良いことだけど、お姉様やお兄様を見ていると、前世の自分を思い出す。十一歳ごろの“私”が何を思っていたかを思い出して、しっかりし過ぎている二人に不安を覚えてしまう。
「だからそのわがまま、聞いてあげますよ」
ミシェル・マリー・パールグレイは、世間から隔離されるように蝶よ花よと育った十歳の世間知らず。
でもその中身は、大人と言っていい年齢まで生きた“私”が混ざっている。精神的には、従兄よりも年上なのだ。
だったらこの初めてのわがままぐらい、年上として聞くのは当然のことだろう。
右手はお兄様の手を握ったまま、自由な左手で頭を撫で返す。私が一番好きなお祖父様の、頭に鳥の巣ができてしまうちょっと雑な撫で方だ。
するとお兄様は目を真ん丸に見開いて、ぱちっと瞬きをする。そしてそれを何度かぱちぱちと繰り返してから、ゆるりと、安心したように力の抜けた笑みを浮かべた。
「ずいぶんと上から目線だね」
呆れて、からかう、穏やかな言い方だ。
「えー、じゃあ言い方を変えますよ。この前、馬から降りるのを手伝ってくれたお返しって事でどうですか?」
「あれはミシェルが降りる方法をちゃんと考えておかないからだよ。次からはどうするんだい?」
「思い通りの場所に止まれる練習をして、木箱の横に止まれるようになります」
「めちゃくちゃだなぁ……」
「ユーゴは賢い子なので、私がちゃんとタイミングよく指示を出せるようになれば大丈夫ですよ。ところでジャンお兄様、次の手は思いつきましたか?」
もうこの話は終わり。
あえてにっこり笑って言えば、お兄様はぐっとうめいた。
「……ミシェル。一応聞いておくけど、これって本気で指した?」
「お祖父様の途中からだったので、ちょっと真面目にやりました」
「ちょっと?」
「ちょっと」
「……そう、ちょっと」
ちょっと、ちょっとね、とお兄様は繰り返し呟きながらチェス盤を見下ろす。その眉間にはくっきりと縦じわがあった。
そりゃあ従妹に負けそうになっていれば、そういう顔にもなるか。
でも私は元引きこもり令嬢。家の中でおとなしくできることしかできず、貴族令息に必要な勉強や稽古、社交などやることがたくさんある人とは総プレイ時間が違う。いわば室内遊びのプロである。
体力もなければ魔力もない。友だちは毛玉と愛馬しかいない。誇れることはチェスの腕と、今度こそ幸せな老後を迎えるという生への執念深さぐらいしかないんだ。これぐらいは譲ってほしい。
「うーん、ダメだね。どう逃げても、そのうち絶対に負けそうだ」
「諦めちゃうんですか?」
「……しれっとルアーリングなんて手を仕掛けてくる年下に勝てる気がしない」
「えへ」
不満げなお兄様から笑いながら目をそらし、ついでに時計と確認する。
「そろそろ部屋に戻らないと、お姉様が私を探しはじめちゃいますね」
「ああ、それは面倒だね」
関係が改善したとは言えど、お姉様は今もシスコンを拗らせていて、自分の隙をついて妹と従兄が一緒にいたと知ればふて腐れるに決まってる。
簡単に想像できてしまう光景に、お兄様と二人で小さく笑った。
チェスセットを片付けながら、さりげなく膝の上の毛玉を突いて起こす。すると「ンブ」と不満げに鳴かれたけれど、それでも置いていかれないように肩によじ登ってくるのだから、この小さな友人はやっぱり可愛い。
「部屋まで送るよ」
「ううん。部屋に戻る前に書庫に寄りたいんです」
「早く寝ないとまた風邪ひくよ。これからどんどん寒くなるんだから」
「気をつけてるから平気ですよ」
チェスセットを抱えて、毛玉を一緒に部屋を出る。
廊下は少し冷えるけれど、ずっと暖炉の前にいたので寒くはなかった。
「ああ、そうだミシェル」
「なあに?」
くるりと振り返ると、そこにはにっこりと人の良さそうな微笑み。
従兄は開けた扉に寄りかかり、私を見て言った。
「女の子が夜に男の部屋を訪ねるのはおすすめしないよ。さすがに僕も、次はないからね」
そして私が何か言う前に、「それじゃあ、おやすみ」と扉を閉められた。
「………………はあ?」
扉から二、三歩離れてから、時間差で声が出る。
そして私は思った。
────さすが乙女ゲームの攻略対象。言うことが違うぜ、と。
同時に私はこうも思った。
────いや、十一歳のガキンチョが十歳の従妹になに言っとんねん。次もネギもねーよ、と。
「まあ、どうでもいいか。私はしょせんモブだし。ああいうセリフは主人公に……」
ため息まじりに呟きながら客室を離れるが、ふと言葉と足が止まる。
「主人公に……言うべきこと、で……」
扉に軽く寄りかかりながら微笑む姿に、激しいデジャヴを感じる。
穏やかながらも含みのある声に、聞き覚えがある。
「う、うそでしょ、今のって……」
乙女ゲームのジャンルート、それも好感度がかなり高い状態で発生するイベントのスチルと完全一致してるーーーー!?
気づいた瞬間、ブワッと全身から冷や汗が吹き出して急に寒くなってきた。
「プーピー?」
「ど、どどどうしたもこうしたもないよ!いや、ほんと、えっ?なんで?!」
息が上がらないギリギリのペースで自分の部屋まで大急ぎで戻る。
本当は書庫で寝る前に読む本を選ぶつもりだったけど、そんなことをしている場合じゃあない!
私は部屋に飛び込むとすぐに扉に鍵をかけ、チェストの上に置かれた小さな木箱を開けた。
そこに入っているのは貴族令嬢らしい宝石のついたアクセサリーではない。前世の記憶を思い出してすぐに私が作った、乙女ゲームの設定やシナリオが日本語で書かれた紙束。あえて名前をつけるとしたら、予言の書だ。
予言の書の中からお兄様────ジャン=ドミニク・エバーグリーンの設定と個別ルートのシナリオをまとめた一枚を、上から下まで食い入るように目を通した。
「やっぱりそうだ。さっきのあれ、イベントスチルだ……」
ジャンルートの中盤では、授業を終えた主人公が帰ろうと廊下を歩いていると、懐中時計が落ちているのを見つけるという状況になる。
ここで選択肢が三つ登場し、『とりあえず拾い、同じ寮で生活するサポートキャラに誰のものか分かるか聞く』を選ぶとイベントに突入。
サポートキャラにジャンの物かもと教えられた主人公は、寮を出てジャンを探して学園内を歩き回る。この時点でジャンからの好感度がかなり高い場合でのみ、日が暮れてもジャンは見つからず、主人公はもう寮に戻っているのかもと思い彼の部屋を訪れることにするのだ。
部屋を訪れると、ジャンは驚きながらも懐中時計がとても大事な品だと明かし、届けてくれた主人公に心から感謝する。
そして主人公が帰ろうとすると、さっきの扉に軽く寄りかかって微笑むスチルが画面に表示され、さっきのセリフが声優のイイ声で再生されるのである。
「スチルを見るのが、ハッピーエンドに進む条件の一つだった……よね……」
乙女ゲーム『アルカンシエルの祈り』では、個別ルート中盤までのスチル回収度がエンディングを決める。
全回収でハッピー、一つでもかけるとノーマル、三分の一以下だとバッド。ハッピーエンドになる条件がけっこう厳しくて、前世の私は何度もバッドエンドを踏み、ジャンが悪役令嬢ソフィアを殺すシーンを何度も見てしまっていた。
そのシーンは、今では実の姉と従兄による血みどろサスペンスなのだから、ちっとも笑えない。
「なんで私が主人公のポジションになってるのぉ〜……」
「ププ、プゥン!」
「そりゃあ従兄だもん!嫌いじゃあないよ!でも、でも、攻略なんかした覚えはない!」
乙女ゲームではよく、主人公が敏腕心理カウンセラーの如く攻略対象の心を癒し、そのトラウマ救済が攻略に繋がるパターンがある。
でも予言の書を読み返しても、ジャンはそういうシナリオではない。
ジャンが主人公に惹かれる理由は、主人公の性格。貴族令嬢らしからぬ明るさと真っ直ぐさ、そして突然貴族社会に放り込まれ嫌がらせをされてもめげない強い心に、ジャンは惹かれるのだ。
「ん?救済?救い?」
そういえば、前にお兄様からそういう言葉を聞いたことがある気がする。
「どこでだっけ……?」
予言の書を入れていた木箱の中に視線が向かった。
そこには丁寧に折りたたまれた紙がある。中に包まれているのは、春に初めて遠乗りに行った時に上から降ってきた四つ葉のクローバーだ。
大量にあったあれは、押し花にしてから人にあげても、まだまだたくさん残っている。
包みを広げて乾燥した四つ葉のクローバーを一つ取った瞬間、ハッとした。
「あ、あの時だ!」
あの遠乗りは、お祖父様が私と話す時間をつくるためのものだった。でもその途中でお祖父様は、私とお兄様に「親というのは〜」とかなんとか話した。
そしてその時お兄様は、叔母様……自分の母親のことを言ってからこう続けたのだ。
『僕はもう救われています。ミシェルが救ってくれましたから』
あの時は何がなんだか分からなかった。
でもここが乙女ゲームの世界で、あの人が攻略対象だということを考えると、それはちょっとばかりまずいのではないか?
「もしかしてあの人が私にめちゃめちゃ甘いのって、攻略済み状態と同じってこと?」
ゲームのジャン=ドミニク・エバーグリーンは、一度懐に入れた相手にはとことん甘いという設定。そしてその相手というのは、ハッピーエンドルートの主人公のことだ。
ところがどっこい現在のジャンお兄様は、従妹の私にとことん甘い。私がエリック王子と言い争った時、当たり前のように私の味方をしたぐらいだ。
普通は従妹が自国の王族を口汚く罵れば、私を黙らせ、エリック王子に謝罪をするだろうに……。
「え〜マジかぁ〜……」
あいにく私には、お兄様を救った覚えはない。けれどここが乙女ゲームの世界で、お兄様が未来の攻略対象で、めちゃめちゃ甘いということは、確実に何かがあったのだろう。
私が覚えていない三年以上前に。前世を思い出す前に。私とお兄様の間に、何かが確実に。
「なんてこった……」
あんた攻略対象に何したのよ、三年以上前の
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