36.初手二マス


 一度荒れた天気は、なかなか回復してくれない。もう三日も雨は降り続けていた。



「こんなにも雨が続くと、気分まで暗くなってしまうわね」



 私が育てたバラの香りを楽しんでいたはずのお姉様は、いつのまにか天井を見上げていた。その呟きに私が「そうですねぇ」と返せば、また「ねぇ」と返事が返ってくる。

 私専用の温室はガラス張りになっているから、どこからでも外の様子を見ることができる。しかしこの三日間は見えるからこそ、荒れた外の様子に気が滅入ってしまう。



「天気ばかりはどうにもならんからな。機嫌を直してくれるのを、気長に待つしかあるまい」



 普段は私が読書やお茶を飲むのに使っている丸テーブルで、ジャンお兄様とチェスをしていたお祖父様がそう言った。



「でも、お祖父様もお兄様もずっとうちにいて大丈夫なんですか?」


「問題ない、問題ない。城の警備には衛兵と騎士がいるし、領政はもともとステファンに一任してある」


「僕も気がかりが一つもないって言えば嘘になるけど、それも父さんがいれば大丈夫だろうから」



 ステファンとは、私の叔父にあたる人。お母様の弟で、ジャンお兄様の父親だ。

 そして叔父様は、エバーグリーン侯爵家当主であるお祖父様は騎士団と軍を束れる武官の頂点なので、その代理としてエバーグリーン家の領主を勤めている。

 父親と息子に面倒ごとを全部押し付けられて、叔父様も可哀想に。



「そういえば、最後に叔父様に会ったのって、いつだっけなぁ……」



 私が元ひきこもりっていう理由もあるけど、叔父様も社交場に出ているという話はあまり聞かない。

 事実、今年初めて私が王都で社交期を過ごしても、会ったのはお祖父様とお兄様だけ。叔父様と、その妻である叔母様に会うことはなかった。

 ぼんやりとだけど顔は覚えているから、三年以内には会っていると思う。でもそれがいつ、なんの用事で会ったのかは思い出せなかった。────まあ、どうせ寝込んだ私のお見舞いといったところだろう。



「そういうことならば、馬を乗りこなせるようになったら遊びにいってやるといい」



 言いながらお祖父様に手招きをする。断る理由もないのでされるがまま近づけば、お祖父様は私を抱き上げ膝に乗せた。

 さりげなくチェスの戦況を確認すれば、どうやらお祖父様は押され気味のようだ。さては十一歳の孫に負けたくないから、十歳の孫の頭を借りるつもりですね?



「行くって、エバーグリーンのお屋敷に?」



 察した私はお祖父様に代わり、押され気味の状況を変えるための一手を指した。



「ミシェルは馬車だと酔うが、馬の背なら酔わんのだろう?ならば自分で馬を操っての遠出も、いずれはできるようにならんとな」


「遠出かぁ〜」



 もともと私が乗馬をできるようになると決めたのは、体力アップの他に、馬車以外の移動手段を得るためだ。

 この世界で私が知っているのは、このパールグレイ公爵邸と王都のごく一部だけ。エバーグリーン邸だけではなく、愛馬であるユーゴに跨って、広くて知らないことばかりのこの世界を見て回るのは楽しいに決まっている。



「そうですね。いつか行ってみたいです」



 しかし次の瞬間、カンッと荒っぽく、まるで叩きつけるかのように従兄が駒をチェス盤に置いた。



「ダメだよ」



 外からは、雨と風によって木々が揺れる激しい音が聞こえる。にもかかわらず、決して大きくないその声は、いやにはっきりと聞こえた。



「ミシェルは知らないだろうけど、ここからうちの領に行くには、渓谷を通らないといけないんだ。あそこは上から大きな岩が落ちてくることがある。そんな所を馬に乗って通るなんて、絶対にダメだよ」


「で、でも、それなら馬車で通るのも危なさは同じじゃあ……」


「そうだよ。だから例え馬車でも、ミシェルはうちに来てはいけないよ。危ないからね」



 両の口角はゆるく上がっている。口調もとても穏やかだ。

 でもその深い緑色の瞳の中にあるのは、怒りだった。



「……」



 この人は、従妹である私に対して甘い。

 私が前世を思い出す前から、呼んでも頼んでもいないのに、頻繁に我が家に来ては私の話し相手だけをして満足げに帰っていく。思い出し夏の誘拐事件の後からは、心配だのなんだの言ってさらにその頻度が高くなった。

 過保護のレベルは、お姉様やお母様よりは低い。でもその次ぐらいには過保護で、私に甘い人だ。

 そんな人から初めて向けられる目に、私は指に小さなトゲが刺さったような違和感を覚えた。



「あの、おにい──」


「きゃあああっ」



 お姉様の声だった。

 聞いたことのない甲高い悲鳴に驚いて飛び上がったついでに、私はお祖父様の膝から降りて声の方へと一目散に向かう。

 するとお姉様は真っ青な顔で、この温室内で数少ない木の内の一本を見上げていた。



「お姉様、どうしたんですか?!」


「ダ、ダメ!ミシェルは危ないから来ちゃダメよ!」


「はい?」



 また『来るな』か。あっちでも来るなと言われ、こっちでも来るなと言われ。いったい私はどこへなら行ってもいいんだ。

 若干ムッとしながらお姉様が見ていた方を見る。するとそこに見えたものに、なるほどと思った。



「どうしたソフィア?!」


「お祖父様!ヘビが、そこの木にヘビがいるんです!」



 少し遅れて駆けつけたお祖父様に、お姉様は真っ青な顔で縋りつく。

 そう、ヘビがいるのだ。私が温室に木陰が欲しくて植えた若いオリーブの木に、緑がかった茶色いヘビが。



「大丈夫ですよ。あれは毒もないし、こっちから手を出さなければ大人しい子です」



 私は木に近づいて、細い枝の上で器用に体を丸めて休んでいるヘビを見上げる。

 ヘビも私を見下ろして、赤い舌をちろりと出した。



「ミ、ミシェル、近づいちゃダメよ!こっちに来なさい!」


「だから大丈夫ですってば。顔見知りの子です。たぶんこのお天気で避難してきたんでしょうね」


「顔見知り?!ヘビと?!」



 頷くと、お姉様は絶句。青い顔で私とヘビを何度も見比べた。



「ちょうど去年の今頃だったかな?ここにモグラが入り込んで、花壇が荒らされて困っていたんです。でもこの子が来るようになって、モグラはいなくなったんです」


「……ミシェル。むごいことだが、お前のためにあえて言うぞ?ヘビは肉食。そのモグラはヘビを恐れて逃げたのではなくて、ヘビに食われたんだ」



今にも倒れそうなお姉様を支えながら、お祖父様は気まずそうに言った。



「わかってますよ、そんなこと。というか私、あの子がモグラを丸呑みにしてるの見たもん」


「見たのか……?」


「はい、ばっちりと」



 懐かしいなぁ……。

 外から苗や肥料を運び込んだりするから、その隙をついて入り込んだらしいモグラ。

 よりにもよって一番お気に入りのパンジーの花壇を荒らし、土をふかふかにしてくれたミミズを喰らい尽くしやがったモグラ。

 絶対に捕まえてやるとキレた私……というかミシェルが、庭師の知恵と手を借りて設置した罠にかからなかった小賢しいモグラ。

 こうなったら他の花壇に被害が広がる前に土をほじくり返してとっ捕まえるかと思っていたある日、ガサゴソと鉢植えの陰から物音がして確認したら、ヘビに頭から丸呑みにされている真っ最中だったモグラ。

 そしてそのままヘビの細い体の中に消え、二度とその姿を見ることのなかったモグラ。



「生まれて初めて見た自然の摂理、弱肉強食です。驚きすぎて声も出なくて、見なかったことにしました」


「見なかったことにしたのか……」


「はい。慌てず騒がず、そっと鉢植えを戻しました」



 その後、ミシェルは使用人を呼んでヘビを外へ出してもらい、侵入経路がどこか調べてもらった。けれどヘビが入れるような穴は見つからず、ひとまず最も可能性が高い通気口の網目を細かい物にしてもらった。

 モグラもヘビもいなくなり、ミシェルは安心して……いられたのはほんの数日。後日、またヘビが現れたのだ。

 その時のヘビの態度と言ったら、まるで「ここを縄張りとする!」と主張するような堂々としたものだった。


 引きこもり歴の長いミシェルは、物事を深く考えないぽやっとしたお子様。

 一応は書庫へ行ってヘビの種類を調べてみて、毒もなく、しかも食べるのはネズミや虫だと分かり、温室を荒らすそいつらを食べてくれるなら味方だなと思った。

 つまり「ま、いっか」とヘビの放置を決定したのだ。我ながら肝のすわったお嬢様である。

 その後に前世の記憶を思い出したとしても、私はミシェル。その時の記憶と考えは今もしっかりとあるので、時々ふと現れるヘビを「あ、来てたんだ」と思うだけで好きなようにさせているわけだ。



「ごめんなさい、お姉様。あの子はたまにしか来ないし、言ったらお姉様がここに来てくれなくなっちゃうかと思って……。それは、やだったから……」



 青い顔でお祖父様に縋りつくお姉様に、おずおずと歩み寄ってもう一度「ごめんなさい」と謝る。

 するとお姉様はしばらく私とヘビを見比べ、



「へ、平気よ、さっきは少し驚いただけなの。ミシェルの花壇を守ってくれたのなら……だ、大事にしないといけないわね」



 そう言ってお姉様は微笑むけれど、どう見ても強がっている。顔は青いままだし、頬はヒクヒクと痙攣していた。

 うーむ。これはお姉様のためにも、これ以上この場にはいない方がよさそうだ。



「もうそろそろお茶の時間になりますし、居間に行きませんか?」


「そうね。それがいいわ。お祖父様、ミシェルの言う通りにしましょう。早く行きましょう」


「ソフィアはヘビは好かんか」


「当たり前ですッ!」



 お姉様はカッと目を見開いて、お祖父様に凄んだ。そして一刻も早くヘビから離れたいらしく、私の手をがっちり掴んで温室の出入り口へと向かう。

 まさかここまでヘビが苦手だったとは知らなかった。もう二度とお姉様とヘビが鉢合わせしないように注意しなければ。

 ほとんど引きずられるように歩きながらそう心の中で結論を出した時、一人足りないことに気がついた。



「お兄様?」



 もう少しで温室を出るというところで、足を止める。振り返って見回しても、従兄の姿がどこにもなかった。

 そういえば、お姉様の絶叫が聞こえた時も席を立とうとしていなかったような……。



「お姉様、お姉様、ちょっと止まって。お兄様を呼んでくるから、お姉様はここで待っててください」


「それなら私も行くわ」


「ヘビがいますよ?」


「……待ってるわ」



 お姉様は渋々といった顔で、私の手をゆっくり離した。

 外ならともかく、屋敷の中なら妹への愛よりヘビへの恐怖が勝つらしい。未来の悪役令嬢とは思えない普通の女の子らしい反応が、少し面白かった。

 私はお姉様とお祖父様に「ちょっと待ってて」と言って、丸テーブルが置いてある方へと小走りで向かう。すると案の定、お兄様は椅子に座ったままそこにいた。



「お兄様」



 小さく声をかけて、歩み寄る。



「あとちょっとでお茶の時間になるから、居間に行きましょう」


「……ああ、うん、聞こえてたよ。ヘビがいるんだってね」


「悪い子じゃあないんですよ。でもお姉様がヘビは嫌いみたいだから」


「ミシェルは平気なんだね」


「あの子だけです。他は……会ったことがないから分かりません。毒ヘビは会うのも嫌ですけどね」



 肩をすくめながらそう言えば、お兄様は「毒ヘビは誰だって嫌いだよ」と言いながらチェスセットを片付け始めた。それを手伝えば、さっき、お兄様が荒っぽく指した白のクイーンが目に入った。

 クイーンは、六種類あるチェスの駒の中で二番目に価値が高くて、一番自由に盤上を行動できる駒。それを嫌うように置いた。しかもあのまま続けていれば、数ターン後に確実に私のナイトに取られてしまう位置に置いたのが、どうにも気にかかった。

 普段のお兄様なら、駒を雑に扱うことも、こんな単純なミスもしないのに。



「チェス。お兄様とお祖父様じゃあ、どっちが強いんですか?」



 白のクイーンに触ろうとしたら、私の指先が触れるより早くお兄様が持ち上げた。ケースにしまわれる様子を、黙って目で追う。



「どっちかなぁ。さっきは僕が勝ちそうだったけど、いつも勝てるわけじゃないから」


「ふーん」


「さ、全部片付いたよ。僕らも行こう」



 コンパクトになったチェスセットを持ったお兄様は、空いた左手でおいでと私を手招きする。その目にはさっき感じ取った怒りはもうなく、私は頷いて、横に並んでお姉様とお祖父様の元へと戻った。


 その夜。許される限りは四六時中妹と一緒にいたい超ド級のシスコン、ソフィアお姉様が入浴中の隙をつき、こっそりとある部屋を訪れた。

 トントンとノックをして私だと声をかければ、すぐに扉が開く。



「こんばんは、ジャンお兄様。お話があるので入れてくださいな」




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