35.ポーンの価値



 聞こえるのは、どんどん激しくなっていく雨と風の音。それから駒がチェス盤に置かれる、無機質な音だけ。

 父親と十歳の娘がチェスに興じる場合の、正しい雰囲気は分からない。

 だがしかし、こんな重くて張り詰めた空気になるのはおかしいということは、私にも分かった。



「……」


「……」



 ああ、沈黙が痛い。

 私は真剣に考えているという姿勢で誤魔化しているけれど、内心かなり戸惑っていた。


 こんな状況を作ったお祖父様は、私をお父様の正面に座らせるなりお姉様達のいる茶席に戻ってしまった。

 私は慌てて断ろうとした。けれど、盤上の駒達はいつの間にかスタート位置に戻されていたのだ。しかも私の方に、先手である白。つまり私が動かさなければ、ゲームは始まらない。

 逃げ道を用意されたのだ。他でもないお父様の手によって。

 お父様なら、断る事だってできる。さっきまでジャンお兄様と対局していたんだから、休憩したいと言えばいいだけだ。

 でもそうしないで、私に選ばせようとしている。


 ────ここで逃げたら、きっと永遠に溝を埋めることはできない。


 私は小さく息を吐いた。そして、それまでスカートを握りしめていた手で、白のポーンをセンターに置いた。


 そうして始まったゲームは、恐ろしく静かなものだった。

 報告や連絡といった話す必要がある時は、普通に話をすることができる。でもこういう時にどんな話題を振ればいいのか分からなくて、私は無言だ。せめてお父様が何かを言ってくれれば会話の糸口を掴めるのに、そんな様子はない。

 だからお互いに一言も発さず、視線は白黒のチェス盤へ向かっている。



「ンプンプ」



 肩に毛玉がいるのが、唯一の救いだ。

 励ますように鳴く小さな友人。お父様の目の前では話すことも撫でることのできないから、私は首をかしげるフリをして頬をよせた。


 お父様のことは嫌いじゃあない。苦手なだけだ。

 例の「男であればよかったのに」という言葉を忘れることはできないけれど、大事にされていないわけではないことも分かっている。

 話したことも、触れられたことも、抱き上げられたことだってある。だからチェス盤を挟んだこの距離が初めてなわけではない。

 でも一度は反抗期をして、今度は少しずつ歩み寄ってみようと決めたばかりの身としては、物理的に急接近すぎて居心地が悪かった。


 私が駒を動かせば、お父様は少し考えてから駒を動かす。すると今度は私が考える番になる。

 それを無言で延々と繰り返し、盤上の駒が少しずつ減り始めた時、ある事に気がついた。

 お父様は、最善手を分かっている上で、わざと違う手を指している。緊張して私がミスをしても、そこを攻めてこない。



「……っ」



 なんでと言いかけて、でも少し開いた口から出るのは息だけ。声は喉につっかえて出てこなかった。

 だってこの人は、私の「なんで?」に答えはくれない。言ったところで、無駄なことだ。


 ────違う、そうじゃあない。

 そうやって諦め続けてきたから、今のような関係になってしまったんだ。

 それをやめると、変えると決めたじゃあないか。


 しかし、戸惑い躊躇っていた時間が長すぎたらしい。

 私が口を開きかけたのと同時に、執事が部屋に入ってきた。



「晩餐の用意が整いました」


「えっ……」



 壁際の大きな振り子時計を見ると、確かに普段夕食を食べている時間になっていた。

 いつの間にそんなに時間が過ぎていたんだろう。荒れ模様の天気のせいで、もともと部屋には明かりが灯されていたから全く気がつかなかった。



「どう、ミシェル?お父様に勝てそう?」


「これでもしミシェルが勝ったら、僕らの立場はなくなるよ」



 今まで離れた茶席から様子を見ているだけだったのに、急にお姉様とお兄様が近づいてきた。それに続くようにお祖父様も来て、ずいぶんと駒の少なくなったチェス盤を覗き込む。



「お?こいつはまだミシェルにも勝機はありそうだな。このままにして、続きは晩餐の後の楽しみにしておくか」



 お祖父様は「大したもんだ」と笑い、私の頭をガシガシと撫でる。



「勝機……は、あるでしょうね。と言うか、たぶんこのまま続ければ私が勝ちます」


「なんてこった!アロイス相手に勝利宣言とは、ずいぶんと強気だなぁ!」


「……だって、お父様、勝とうとしてない。引き分けを目標にしてるもん」



 瞬間、お父様が今日初めて私を見た。



「わざと最善手を指さないで、相手のミスも利用しないことに慣れてる。たぶん、お姉様やお兄様とやる時も、同じように手抜きをした上で勝っているんでしょう?」



 お父様は、この国の頭脳や国王陛下の知恵袋と評される生粋の頭脳派。十歳と十一歳の子供相手のゲームで、長考するのは変だ。

 おまけに三回に一回ぐらい最善手とは違う手を指している。でも決して悪手ではないし、相手のミスも突かないから、戦況は平行線を辿り続けることになるだろう。



「実力差を見せつけると大人気ないから手を抜いていたら、思っていたより私が強くて、だんだん引き分けにするのが難しくなってる。……そんなゲームで勝っても、面白くないです」



 そう言いながら、お父様から奪った黒のポーンを手の中で転がす。

 すると少し離れたところから、ふふっとなんとも楽しそうな笑い声が聞こえてきた。チェスの話題になってから一度も口を開いていなかったお母様だ。



「ついに気付かれてしまったわね、あなた」



 お母様は手を口元に当て、笑いながらお父様を見る。

 するとお父様がため息をついた。



「手抜きなどと人聞きの悪い言い方はやめなさい。こういうのは、手心を加えると言うんだ。そもそも引き分けは立派な戦法だ」



 あっ、やっぱり引き分けを狙っていたのか。

 なんとなくそうなんじゃあないかなぁと思っていただけで、自信はなかったんだよね。

 チェスは引き分けになることが多いゲームだ。でも最初からそれを狙って指せるなんて、魔力だけでなく知力までチートかよ。

 そう思っていると、お姉様がプルプルと肩を震わせながらお父様に詰め寄った。



「ひ、ひどいわ、お父様!私、だんだんお父様を考えさせる時間が長くなってるから、もう少しで勝てるかもって思っていたのに!手抜きなんて!」


「手心と言わないか」


「手を抜かれるぐらいなら、いっそ完膚なきまで負けた方が精神的に楽でしたね」


「ジャン、お前まで手抜きなどと……」


「おいアロイス、一応確認するが、儂相手にも手を抜いた上で勝っているなどとは言わんよなぁ?」


「……」


「貴様ァ!」



 すっと目をそらしたお父様に、お祖父様は「表に出ろ!」と喚く。外が大雨強風の荒れ模様なことはすっかり忘れているようだ。

 今まで手を抜かれていたのに気付かず負け続けた三人にグチグチと文句を言われ、お父様は厄介なことになったと眉をひそめる。そんな喧騒に巻き込まれたくないので、私は小柄なことを利用してこっそりと席を離れた。

 そろりそろり、抜き足、差し足。戸口に立って、晩餐を時間を報せてくれた執事のじいやの元まで非難する。



「旦那様との対局は、いかがでしたか?」


「うーん、わかんない。お父様も手を抜いていたし、私もあんまり集中できなくて何度か指し間違えちゃったの。じいや達とやった方が楽かも」


「楽、でございますか」


「気持ちが楽ってことだよ?楽に勝てるって意味じゃあない」



 そもそも私は、じいやに勝った回数より負けた回数の方が圧倒的に多い。



「初めての相手となれば、力量を見誤ることも実力を発揮できないこともございます。ですがお嬢様は本来とてもお強いのですから、落ち着いて普段通りに指せば、次は旦那様も手心を加える余裕などなくなることでしょう」


「次……」



 じいやは、お祖父様によって乱された私の髪を整えながら、そっと頷く。その視線は私から外れて、窓辺へと向かった。

 そこには、真剣に挑む相手に手を抜くとは侮辱だとやいのやいの言っている姉と従兄と祖父、そんな三人に降参だと言いたげに両手を上げる父。それから、四人の騒ぎを眺めてコロコロ笑う母の姿がある。

 私は、十年間を屋敷の中だけで過ごしてきた。でもこんな光景を見るのは初めてだ。

 七年分の記憶はないけれど、覚えている三年分の記憶の中にこんな光景は、ない。



「……そう、ね」



 たぶんこれは、私が自分の意思でこの居間に来ることを選んだから。お父様に用意された逃げ道を使わなかったから、初めて見ることができた光景だ。

 初めてが終われば、次が、二度目が生まれる。二度目が終われば、その次の三度目が生まれる。

 そんな終わりであって終わりではない『次』を、望んでもいいのか……。



「……でもお父様に本気を出されたら、きっと私は勝てないよ。だから『次』は負けても、指し方の癖を見抜けるぐらい何度もやって、いつか絶対に勝つわ」



 今日は一歩前へ出るだけだったのに、お祖父様に思いっきり背中を押されて無理やり距離を縮められた。だからお互いに探り探り、手の内を明かすことはなかった。いや、できなかったと言った方が正しいかもしれない。

 でも自分の足でこの居間に来て、自分の手でゲームを始めることはできた。

 どうせ答えはくれないと諦めることを治すのはまだ時間がかかりそうだけど、避けることをやめることはできたんだ。今はまだ、これでいい。

 ここから、お互いにとって一番気楽な距離を探っていけばいい。



「お父様に、そう言っておいてくれる?」



 燕尾服の裾を引っ張って小声で頼めば、じいやはまた、頷いた。

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