34.お祖父様はスパルタ方式②
また例の夢を見て、目が開いた。
お祖父様によるスパルタ乗馬教室のせいで、痛くないのはどこか探すぐらい全身が痛い。
でも全身が筋肉痛になるなんて、ひきこもり令嬢だった頃には一度も経験していないことだ。風邪をひいた時とは違う身体のだるさは、そんなに嫌いではなかった。
ごろんと寝返りをうって窓の方を見る。寝る前に東から流れてきた雲が、予想通りの雨をもたらしていた。
その心地良い音を聞きながらうとうとしていると、もふっとしたものが遠慮なく顔に乗った。
「ピィ!」
「うっぷ」
真ん丸真っ白モフモフボディの小さな友人、毛玉だ。
私が起きるのをおとなしく待っていたらしい。
「やめてよぉ、くすぐったい」
重い身体を気合いで動かして、毛玉をひっぺがしながら起き上がった。
そのまま視線を棚の上の時計に向けると、時刻は午後三時。どうやら寝ていたのは二時間程度のようだ。
ぐったりと疲れ果てて寝たわりには、ずいぶんと短い。まさか、春に三日間寝続けたようなことをまたやってしまった……?!
私は慌てて呼び鈴を鳴らして、使用人に起床を報せた。
するとしばらくしてティーカートを押しながら部屋へと入ってきたニナは、「お加減いかがですか?」といつもと変わりない態度だった。
「いろんなところが痛いけど平気。そんなことよりニナ!私、また何日も寝たりしてないよね?!ちゃんと二時間だけだよね?!」
「はい。日付は変わっていません。どうぞご安心ください」
「そっか、それなら良かった……」
差し出されたお茶を飲んで、ほっと一息つく。
「少しは体力がついたってことかなぁ」
春に庭へ出られるようになって、日光浴から始めて散歩、お祖父様に連れられて遠乗りに行った。夏には初めて王都へ行って、不可抗力ながらも王都内を走ることになった。
それらを経て、ようやく始めることが馬術の稽古。
正直に言うと、稽古後は疲れすぎて熱を出すことも覚悟していた。でも実際は筋肉痛だけで、なんだか拍子抜けだ。
「こればっかりは、フォッグ先生の言葉が正しいね」
「先生の言葉ですか?」
「この前の検診の時にね、先生がたくさん外へ出て、いろんなものに触れれば、それは全部私の糧になるって言ってたの」
「そうですね。私としてはお嬢様の身は安全ってあってほしいのですが……。いえ、外へ出られるようになってお嬢様の笑みが増えたのも事実ですので、ここは先生の言葉に賛成いたしましょう!」
ニナはなぜか悔しそうにグッと拳を握る。
そういえば先日の検診は、休暇の日と重なってしまったせいでニナは不在だったな。
代理を務めてくれたアガットの話ではニナはおしゃれをして出かけたそうだけど、本当にダリウスと一緒に過ごしたんだろうか。
うぅむ、気になる。主人としては、たった一人の大事な侍女の将来がすごく気になる。でも馬に蹴られたくないので、そっと見守るに留めておこう。
とその時、扉がノックされ、ニナに開けてもらったそこからはお母様が顔を覗かせた。
「起きたと聞いたけれど、体調はどう?」
「いろんなところが痛くて、足が一番痛いです。でも大丈夫ですよ」
お母様は部屋に入ってくると、そのまま私のいるベッドの縁に座った。
すると伸びてきた白くて温かい手に、額と頬をゆっくりと撫でられる。気持ちよくて猫のようにすり寄れば、お母様はくすりと笑った。
「熱はないようね。気分は悪くない?」
「もうっ、大丈夫だってばぁ。お母様の心配性はいつ治るの?」
「あらまあ、言うようになって。でもこればかりは治らないわ、私はあなたの母だもの」
親が我が子を心配するのは当然のことよ、とお母様は微笑む。
その顔は二児の母とは思えない、社交界でも評判になるのも頷けるぐらいの美しさだ。癖のない金髪も、スカイブルーの瞳も、その美をさらに完璧なものにしている。
……似てない。私と似ている部分が、見つからない。
「ねぇお母様。前にばあやがね、私の髪は生まれた時は、お母様と同じ色だって言ってたの。それって本当?」
「ええ、本当よ。お日様の光を浴びるとキラキラと輝いて、どんな物より綺麗だったわ。もちろんお父様と同じ今の髪も、とっても素敵よ」
真っ直ぐにその目を見て問えば、お母様は私のモスグリーンの目を真っ直ぐ見て答えた。
さっきは頬を撫でた手は、今度は癖のある髪をすくように頭を撫でる。
「じゃあ、いつからこうなの?いつ変わってしまったの?」
その瞬間、お母様の目が揺れた。
手が、離れた。
「いつから……だったかしら。ああ、そうね。大きくなるにつれて、少しずつ変わっていったわね」
「……へえ、そうなんだ」
「急にそんなことを聞くなんて、どうしたの?」
「ちょっと気になっただけです。でも、もう分かったからいいです」
────お母様も、私に真実を教えてくれない人だと分かったから、もういいです。
ゆるく微笑んで首をかしげるお母様に、私も微笑んで返した。
笑って誤魔化されたから、笑って誤魔化し返した。
「あ、そうだ!お祖父様とお兄様はもう帰っちゃった?まだちゃんと今日のお礼を言っていないんです」
空気を変えるために両の手をパチンと打ち鳴らせば、お母様は「二人なら居間にいるわ」と言った。髪色の話題を続けるつもりはないようだ。
「これからもっとお天気が悪くなりそうだから、今夜は泊まっていくことになったのよ」
「えっ本当?!いつまで?」
「嵐がおさまるまでかしら」
天気は、私が起きた時よりも悪くなってきている。
強い風に巻き上げられた落ち葉が窓に貼りつくけれど、ザアザアと音を立てて降る雨によってすぐに流れ落ちていく。じきに雷も鳴り始めるかもしれない。
前世なら車や電車という頑丈で安全な移動手段があったけれど、この世界にそんなものがあるわけがない。最も安全な馬車も、この天候では危険だろう。
「二人にお礼が言いたいのなら、着替えてから居間にいらっしゃい。お父様とソフィアの四人で、チェスをしているわ」
「居間に……」
お父様も、いるのか……。
「分かりました。着替えたらすぐに行きます」
考えたのはほんの一瞬。私が頷けば、お母様は少し目を見開いた。
しかしすぐに微笑みを浮かべ、私の頬を労わるように撫でながら「ゆっくりでいいわよ」と言って部屋を出ていった。
「ニナ、着替えを手伝って。腕が痛くてあんまりあげられないの」
「かしこまりました。ですがお嬢様、その……」
筋肉痛な体に鞭を打ってベッドから降りる令嬢を見れば、主人想いな使用人なら心配して顔を歪めるだろう。
でも今ニナが心配しているのは、厳密には、私の体ではない。心の方だ。
少し前までの私なら、自分からお父様のいる場所に近づくことはなかった。お母様に誘われても、筋肉痛を言い訳にして断っていただろう。
ニナはそれを知っているからこそ、自分からお父様のいる居間に行くことを選んだ私を心配しているのだ。無理をする必要はない、家族団らんに加わらなくても責める人は一人もいない、と。
「ありがとう。でも、私なら大丈夫」
お姉様とエリック王子の婚約の一件で、私は、お父様との関係を変えようと決めた。
時と場合によって態度が変わるあの人の真意が分からないから、これまで苦手で近づかなかった。けれど近づかないから……知ろうとしないから、真意が分からないままなんだと気付いたんだ。
正直に言うと今でも、あの「男であればよかったのに」という言葉は、私の心の中に澱みをつくっている。お父様に言いたいことがあるわけでもない。
でも、まずは一歩。
同じ空間に入ることから、始めてみようと思う。
私はあちこち痛いのを我慢して、いつも以上にニナの手を借りて着替えを済まして居間へと向かった。
肉体的にも精神的にも億劫で、自分で開けることができない扉をニナに開けてもらう。そして部屋の中を覗き込めば、真っ先にお姉様が駆け寄ってきた。
「ミシェル!起きて大丈夫?足は痛くない?」
「痛いけど……でも、大丈夫」
足は、大丈夫だ。嘘じゃあない。
私はお姉様に手を引かれて、ソファーに座った。
すると私の横が指定席であるお姉様は当然そこに座り、向かいの席ではお母様とお祖父様が機嫌良さげにお茶を飲んいる。肝心のお父様は、少し離れた窓辺のテーブルでジャンお兄様とチェスに興じているようだ。
気にし過ぎるのもよくないから、そっちは見ないようにしよう。今日の目標は、このまま同じ空間にいることなんだから。
「お祖父様、今日はありがとうございました。次までにもうちょっと体力をつけて、自分で降りられる方法も考えておきます」
「なぁに、今までを思えばずいぶんと元気になったもんだ。気長にやっていけばいい」
お祖父様はテーブルを挟んで腕を伸ばし、大きな手で私の頭をくしゃくしゃと撫でる。せっかくニナが整えてくれたのに、頑固な天然パーマと相まって、脳天に立派な鳥の巣が完成してしまった。
手ぐしでなんとか元に戻せば、私の前にお茶とお菓子が置かれる。置いたのは使用人ではなく、お母様だった。
「そうよミシェル、焦らず、ゆっくりでいいの。それにお母様も屋敷から練習の様子を見ていたけど、初めてとは思えないぐらい上手だったわよ」
「見てたの?」
「ええ。本当はその場に行きたかったのだけど、あまり近づくと口を挟んでしまいそうだったから遠くからで我慢したの」
「お姉様もそうしてくれればいいのに」
カヌレを食べながら言えば、横から「絶対に嫌よ」と力強い拒否が返ってきた。
「ミシェルが落馬しそうになった時に助けられないじゃない」
「降りられなくて困ってたぐらいなんだから、落ちるわけないじゃあないですか」
「馬が何かに驚いて暴れるかもしれないじゃない」
「またそうやって悪い方向に考える。お姉様の悪い癖ですよ。それに、馬が暴れても対応できるようになってこその稽古です」
「むう……」
お姉様は言い返す言葉が見つからないらしく、少しむくれてお茶を飲む。そんな様子を見て、お母様はくすりと笑い、お祖父様は「危なくなったら儂が助けるさ」と言った。
この光景を赤の他人は見たら、なんと思うだろう。貴族の優雅で平穏な家族の時間と思うんだろうか。
でも私は少し、お父様がいるという事実に居心地の悪さを感じてしまう。食事の席や、話があって一緒にいる時はそんなこと思わないのに、いざ覚悟を決めて同じ部屋にいるのは落ち着かない。
やっぱり無理せず部屋に入ればよかったかなぁ。膝の上でコロコロ転がって遊ぶ毛玉を見ながら、そう思った。
その時、窓の方から「参りました」と悔しげな従兄の声が聞こえた。
「あらジャン、またお父様に負けたの?」
「……ソフィアだって、伯父様に勝てたことなんて一度もないだろう」
「私はこの前もうちょっと粘ったわ」
あーあーあー、そうやってケンカを売るから、従兄妹関係が悪くなるんですよ。せっかく改善してきたんだからやめてもらえないだろうか。
お茶を飲みながらそんなことを思っていれば、お祖父様が二人の間に入る。
「お前達、そういうのは五十歩百歩と言うんだぞ。アロイスに勝てんのならどっちも同じだ」
「だったらお祖父様も同じですね」
「最近では伯父様とやるのを避けてるぐらいですもんね」
「……歳を取ると頭が鈍くなるんだ」
これぞまさしくやぶ蛇。こうなると分かっていたから私は黙っていたのに、蛇を出してしまったお祖父様は視線を明後日の方へ向けた。
ちなみに、チェスなら私もできる。むしろ友だちゼロの引きこもり期間が長かったから、こういった室内遊びはだいたいマスターしている。
しかしお父様とやったことは当然ながら一度もないし、お父様が誰かとチェスをする姿を初めて見たぐらいだ。
私にチェスを教えてくれたのはお祖父様で、相手をしてくれる回数が一番多いのは執事のじいや。外へ出られない私が家族が全員外出している間の暇つぶしに、じいやを中心に男性使用人達はよく付き合ってくれた。
「この中じゃ、お父様に勝てる人はいないわね」
「いいや、そう決めつけるのはまだ早いぞ、ソフィア」
つまらないと言いたげなお姉様の言葉を、お祖父様を否定した。
「一人だけいるだろう。儂やお前達よりも強くて、アロイスと指したことのないもんが」
私はなるほどと思ってお母様を見た。
しかしそのお母様は私を見ていて、お祖父様もお姉様もお兄様も、私を見た。
────え、嘘でしょ?食事や用事がある時以外で同じ空間にいるのですら、いっぱいいっぱいなのに……そんなこと……。
「誰が一番強いか、はっきりさせようじゃないか。なあ、ミシェル?」
言うなりお祖父様は席を立ち、ひょいっと私を抱き上げる。
その瞬間、私の頭の中ではドナドナが響き渡り、売られていく哀れな子牛の光景が広がった。
さ、さっきは気長にやっていけばいいって言ったじゃん!!
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