9.欠けた記憶と故意の無知
「うっ……」
なんだこれ、気持ちが悪い。
お姉様の婚約騒動中に感じたものよりも、もっとずっと気持ちが悪い。
頭が痛い。息がうまく吸えない。『何か』が、体の内側でぐるぐると動きまわっている感じがする。吐きそう。
持っていた花冠が、ぱさりと膝に落ちた。
「ミシェル!?」
どこからか風が吹き、地面を覆うシロツメクサが揺れてざわざわと音が鳴る。さっきまで気持ちが良いと思っていたそれすら煩わしくて、頭痛がひどくなっていく。
慌てながらも背中をさするお兄様に大丈夫と言おうと顔を上げれば、木陰で馬と一緒にいたお祖父様が走ってくるのが分かった。その顔は青ざめているように見えて、ああ、国随一の武人もあんな顔をするのかと笑ってしまいそうだ。
でも本当に笑う余裕もなければ、駆け寄ってきたお祖父様の「どうした?」と言う焦った声に答える余裕もない。
「ひとまず、日陰に……」
私を抱き上げようとお祖父様が腕を伸ばしてきた、まさにその時だった。
――――――パキンッ、と。
固いものが折れるような甲高い音が真後ろから聞こえ、まとめていたはずの髪がはらはらと落ちてくる。
ま、まさか……。
そう思い恐る恐る頭の後ろに手を回すと、もふっとしたくせ毛の感触に混ざって、冷たいものが指に当たる。
その一つを取ってみる確認すれば、それはやっぱりと言うべきか嘘でしょと言うべきか、もらったばかりのバレッタだった金属片だった。
「ア、アーッ!」
後ろを見れば他にもバレッタだった欠片が落ちていて、折れたというよりは弾け飛んだと言っていいぐらいに木っ端微塵になっている。
なんで?急にどうしちゃったの?
私のくせ毛のボリュームに鉄製のバレッタが耐えられなかったのか?どんな剛毛だよこの天パ!!
「ごめんなさいお祖父様!せっかく頂いたのに、もう壊してしまって……!」
「い、いや、そんなことは構わんが……。ミシェル、体調は?」
「え?……あ、なんともない」
言われて、はたと気が付いた。頭痛と吐き気、体のなかを何かが巡る感覚はきれいさっぱりなくなっていた。
お兄様とお祖父様が揃って私を凝視してくるけれど、本当になんともなくなったのだから、私だって首を傾げるしかない。というか、大事にしようと思ったバレッタが修復不可能レベルで壊れてしまって、そっちの方がショックで立ち直れない。
「あーあ、せっかくお祖父様がくれたのに……」
「ミシェル、具合は本当に大丈夫なの?」
「はい。これが壊れてしまった驚きで、なんか、全部吹き飛んじゃいました。本当にもう大丈夫です」
木っ端微塵になったバレッタの欠片を拾い集め、じっと眺める。魔法ファンタジー世界なら簡単に直せそうなものだけど、残念ながら私は魔法が使えないポンコツだ。
はあ、とため息をついていると、お祖父様の大きな手が鉄製バレッタを破壊した天パを撫でてくれた。
「急拵えだったから作りが甘かったやもしれんな。気にするな、次はもっと丈夫なものが贈ろう。それよりも、お前たちも少し日陰で休みなさい」
言われるがままバレッタの欠片をハンカチに包み、お姉様へのお土産の花冠を持って馬が待っている木陰へと移動する。お祖父様の膝に座らされるのはいつもの事なので、抵抗はせず、先にあぐらで座ったお祖父様を座椅子にしておく。
それからは最近どんな本を読んだとか、家庭教師から何を教わったとか、二人に質問されて私が答えるだけの時間になった。
これは二人がパールグレイ邸に来た時によくやることで、今となって分かったことだが、私にだけ喋らせることで不必要に外の情報を与えることを防いでいたのだろう。私が外に出たいと言い出さないように。
今はもう外に出られるなのに、とも思うけれど、二人は私を思ってやっている事なので気づいていないふりをして聞かれたことにだけ答えた。
それでも相変わらず手持ちぶさたなので、手が届く範囲のシロツメクサを摘んで二個目の花冠を作るぐらい許されるだろう。今度はお母様へのお土産だ。
作りながら誰にいつ教わったのかもう一度考えてみても、やっぱり何も思い出せなかった。
可能性としては私が思い出せない、ミシェルとしての三年より前の記憶だろう。だが七歳以前なんておぼろ気でも覚えていてもよさそうだけど、あのお父様の「男であれば」発言よりも前のことは何も覚えていなかった。
その事実が、少し薄気味悪くて、なぜか無性にイラつく。なんだろう、この感じ。
出来上がった二つ目の花冠を見ながらそう思っていると、お祖父様が私とお兄様を呼んだ。
「ジャン、ミシェル」
「はい」
「なあに?」
「……今は理解できんだろうが、それでも年寄りの戯言としてでも聞いておきなさい」
見上げた先のお祖父様は、私のこともお兄様のことも見ていなかった。
「親という生き物は、良くも悪くも歪んでいる。叶えられなかった夢を子に背負わせようとしたり、子の姿に過去の誰かを重ねて見たり……。そこにどういう感情を抱くかはそれぞれだが、少なくともお前たちの親は、お前たちのことを愛していることはこのじじいが保証しよう」
急にしんみりとした口調で何を言い出したかと思えば、やっぱりお父様とのことをお母様に聞いていたのか。おそらくこれが、私を外へ連れ出してまで言いたかった言葉だろう。
しかしどうしてお兄様にも言っているのだろうか。おぼろげな記憶だけどお兄様とその両親の関係は良好だったはずだ。
分からないなら口を挟まない方がいいかなと思っていると、お兄様がぽつりと「僕は」と呟いた。その時ちらっと私に向けた視線の意味は、よく分からなかった。
「僕は、もう大丈夫ですよ。あれは仕方のないことですし、母さんも今は……昔ほどではありませんから」
お兄様の母親というと、叔母様か。
私のお母様の弟と結婚し、エバーグリーン侯爵夫人となったその人とはあまり会ったことがない。私自身がひきこもりだったからというのもあるけれど、叔母様は精神的に脆いところがあるらしいのだ。
思い出せる
叔母様は、お兄様と同じ焦げ茶色の髪をした、とても儚げに微笑む人。いわゆる守ってあげたくなるタイプの人だった。
でも自分の一人息子を「ジャン」と呼ぶ声には芯があって、茶色の目にはあなたが大事ですという想いが滲んでいて、愛情深い母親だったと記憶している。
その叔母様がどうしたというのだろう。昔ほどではないというのは、精神面の脆さが改善したということだろうか。
でもやっぱり分からないことに口を挟むのはよくない気がするし、ここは空気を読んで黙っておこう。
「それに僕は、もう救われています。ミシェルが救ってくれましたから」
「へ?」
今の会話の流れで、どうして私が出てくるのか。ぎょっとして横を見るといつの間にかお兄様も私を見ていて、ゆるく口角をあげるだけの笑みを浮かべていた。
一歳しか違わないのに、剣術の稽古のせいで少し固くなった手が私の頬をかすめる。
「お兄様?」
「うん」
「いや、うんじゃあなくてですね……」
「ミシェルがお兄様と呼ぶのは、僕だけだよね」
「え?ええ、そうですね……?」
きょうだいは姉しかいないし、いとこだってこの人しかいないから、私が兄と呼ぶのは一人だけだ。なんでそんな今さらなことを言っているんだろう。
というか、この会話のキャッチボールが成立しない感じ、ものすごくデジャビュだ。私、なにかしましたっけ?
訳がわからず首を傾げれば、「ミシェルが今よりもっと小さい頃のことだから、覚えてなくても仕方がないさ」と笑顔で頭を撫でられてしまい、それ以上は何も聞けなくなってしまった。私の持つものより深い緑色の瞳が、これ以上は言わないと語っていたからだ。
……なんだか、腹が立つなぁ。
「……お兄様も、そうやって私になにも教えず、自己完結するんですね」
世界から隔離するように私を育てた両親。
泣きながら「私のせいで」と謝ってきたお姉様。
なぜ外に出てはいけないのか教えてくれない使用人。
外出の理由に嘘をついたお祖父様。
そして今度は私に救われたと言うお兄様。
私の周りには、私の疑問に答えをくれない人ばかりだ。きっと「なぜ答えをくれないの?」と聞いても、その答えすらももらえないのだろう。
「世間知らずの自覚はありますけど、ここまであからさまに除け者にされるのは少し不愉快ですね」
この前お父様に都合のいいお人形ではないと言ったけれど、もしかしたら私の周りにいる全ての人がそう思っているのかもしれない。
そう思うと、自然と嘲笑が浮かんだ。
「ミシェル、別に僕は……」
「独り言のようなものです。忘れてください」
いや、どちらかというと八つ当たりか。
お兄様だけが私を……ミシェルをそういう扱いしているわけではないし、元を辿ればこれまで何も考えず、何の疑問も抱かずふわふわと生きてきたミシェルがいけないのだ。“私”の人格が加わった途端に周りのせいにするのは間違っている。
固まるお兄様に「ごめんなさい。気にしないで」と言って、罪悪感から逃げるようにお祖父様の膝を降りて日向へと戻った。お祖父様が呼び止めようとしたのには気づかなかったふりをした。
「なんだか最近、思ったことが勝手に口から出るなぁ……」
“私”はそこそこ大人と言える年齢まで生きていたから、自分の言葉を口に出す前にいったん考えて、無責任や不躾な発言をしない理性があった。
でもミシェルに生まれ変わってからそれができなくなることが多発している。もしかしたら、ミシェルの無知で無邪気でぽやっとしている子どもらしさの影響かもしれない。
子どもって、核心をついたことを遠慮なく言うところがあるからなぁ……。無邪気ゆえの残酷さというかなんと言うか。大きなことをやらかす前にこの癖を治しておいた方がよさそうだ。
それから八つ当たりをしたお兄様と、外へ連れ出してくれたのに空気を悪くするような事を言ってしまったお祖父様にも、あとできちんと謝っておこう。
「せっかくだし、四つ葉のクローバーでも見つけてお詫びの品にしよっ」
花冠でもいいけど、お祖父様とお兄様には似合わなそうだ。
四つ葉、四つ葉と呟きながらしゃがんで探してみるけど、さすがは幸運の象徴、簡単には見つかってくれない。これだけ広い花畑なら二つぐらいあってもよさそうなんだけど……。
「何を探してるの?」
「ん~?四つ葉のクローバー」
「これ?」
地面を見ながら後ろから囁かれる声に答えて、我に返った。
――――今の、誰?
まさしく鈴を転がしたような可愛らしい声に聞き覚えはなし、そもそも今この場に私以外にはお祖父様とお兄様しかいない。少女のような声が聞こえるわけがない。
慌てて顔をあげて後ろを見た瞬間、ばさばさっと音をたてて頭上から何かが降ってきた。手元に落ちた一つを見てみれば、それは私が探していた四つ葉のクローバー。髪や服についているのも、全部四つ葉のクローバーだった。
幸運の象徴が大量に降ってきたのだ。そして後ろには、誰もいなかった。
「…………………え?」
今、なにが起こった?
私は確かに誰かと会話をした。でも周りを見回しても遠くの木陰にお祖父様とお兄様がいるだけで、他に人影はない。花畑のど真ん中だから振り向く前に隠れることだってできない。
それにこの大量の四つ葉のクローバーだ。あれだけ探したものが上からどっさり落ちてきたなんて、どう考えたって普通じゃあない。
しかしさっきのは空耳でも、風に乗って飛ばされてきたわけでもなく。間違いなく誰かが私に話しかけて、答えを聞いて、 欲していた物を寄越してきたのだ。
「でも、誰が……?というか、もらっちゃっていいの?」
問いかけても、答えてくれる声はない。
「えっと、あ、ありがとう……」
誰もいない花畑の真ん中でお礼を言うなんて、傍目には頭のおかしいお子様だろう。
でも私はそこにいたはずの誰かに言っておきたいと、言うのが礼儀だと思った。
「ミシェルー!そろそろ帰るってよ……って、どうしたんだい?それ」
「も、もらった……ので、おひとつどうぞ。あと、さっきは変なことを言ってごめんなさい」
モップのようなくせ毛に絡まっていた一つのクローバーを差し出せば、お兄様はぽかんとした顔で私を見る。
その見開かれた深緑色の瞳には、同じような顔をした私が写っていた。
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