7.妹、外出する①
ジャン=ドミニク・エバーグリーン。
国防のトップである騎士団長を祖父にもつ、侯爵家嫡男。魔力は風。主人公と同学年で、ゲーム一周目から攻略が可能なキャラクター。
つまりは、私が年上ロリコン貴族と政略結婚させられる原因の一人。
それが今、私の目の前にいる。
「お、お兄様?!どうしてここに?えっ、今日来る日でしたっけ?」
「急にお祖父様に誘われてね。ああ、お祖父様は今、執事と話しをしてるよ」
年頃の少女ならコロッと恋に落ちてしまいそうな甘い微笑みは、今の私にとっては胃が痛くなるものでしかない。
ジャン……ミシェルはお兄様と呼んでいるこの人の性格を一言で表すならば、腹黒。
一見すると爽やかで穏やかな好青年だが、それは表面的な部分でしかない。にこにこと微笑みながら相手が何を考えているか探り、何でもないと言いながら相手が自分に有益かどうかを見定める。人の心の善悪に敏感で、一度懐に入れた者にはとことん甘くて、一度敵とみなした者には冷徹で残酷な人だ。
そしてゲームでは、ジャンと悪役令嬢ソフィアは学園で顔を合わす度に睨み合っていた。確か、お互いに相手の性格が気に入らないと言っていたはずだ。たぶん同族嫌悪みたいなものだろう。
――――で、それがゲーム開始より五年早い今はどうかと言うと、二人ははちゃめちゃに仲が悪い。顔を会わせるとブリザードが吹き荒れるぐらいだ。
そしてその原因は、あろうことかミシェルにあるのだ。
ひきこもりで友だちもいないミシェルが、たまに会いに来てくれる従兄に懐くのは自然なこと。そんな無邪気なミシェルを、ジャンもずいぶんと可愛がっていた。
ここだけ切り取れば幼い少年少女の微笑ましい光景だろう。だが忘れてはいけない。ミシェルの姉が、世界一可愛い妹と会えなくなるぐらいなら舌を噛んで死ぬと叫ぶ超ド級のシスコンだと言うことを。
お姉様にとって、お兄様は自分から妹を奪う邪魔者でしかない。お姉様がそんな風に思っているから、他人の心の善悪に敏感なお兄様がお姉様に対して友好的になるわけもなく……。
しかしそんな状況の何が一番悪いって、元凶であるミシェルが二人の険悪ムードに気づいていなかったことだ。
右にお姉様、左にお兄様。好きな人に囲まれて幸せだなーと思って、ブリザードの吹き荒れるなかでのほほんとお菓子を食べているような鈍いお子様だったのだ。
ありえない。この仲の悪さが五年後に影響するかもしれないのに、頭のなかお花畑すぎ。全部に気づいてしまった今では、三人でお茶なんて絶対にできない。
そもそもなんで一人でここにいるんだ。親戚とは言えど訪問客。案内役の使用人はどうしたんだろうか。
「ソフィアはいないんだね」
「……クレーブス家のニコル様のお誕生会に招待されて……」
「ああ、ソフィアと仲がいいっていう伯爵令嬢か」
「あの、えっと、お兄様?今日はどうしてうちに?」
お姉様がいないって分かってて来ているだろうに、何をいけしゃあしゃあと。
テーブルの上に広がった本を片付けながら聞けば、お兄様は不思議そうに首をかしげた。
「どうしてって……ミシェル、外に出られるようになったから、今日はお祖父様と遠乗りに行くんだろう?僕も一緒にどうかってお祖父様に誘われたんだよ」
「え?」
「え?」
「えっと、誰と誰が遠乗りに?」
「ミシェルとお祖父様と、おまけで僕が……え?伯父様から聞いてないのかい?」
思わず、まとめて抱えていた本をレンガが敷き詰めてある地面に落としてしまった。そのうちの一冊が私の足めがけて角から落ちてきて激痛が走ったけれど、皮肉にもその痛みが、これは現実なのだと教えてくれる。
痛みと驚きのダブルパンチで、悲鳴は出なかった。
「ミシェル?!大丈夫?!」
「そ、んな、そんなことよりお兄様!遠乗りってなんですか!」
「馬に乗って遠くに行くことだよ」
「そうじゃないッ!!」
痛む足を抱えてしゃがみこむ私に駆け寄ってきたお兄様の肩を、がしりと付かんで激しく揺さぶる。痛い痛いと言われるけれど、その顔はからかう様に笑っているのでちっとも痛くないのだろう。
「遠乗りなんて話、聞いてない!だいたいお父様とは二週間会ってません!」
「僕に言われてもなぁ……」
「報告、連絡、相談!これは大人として大事でしょう?!なんなんですかあの人!さすがに怒っていいですよね?!」
「ミシェル、今日はすごい元気だね。これなら遠乗りも行けそうだ」
「そうじゃないッ!!!!」
お願いだから会話のキャッチボールをしてほしい。
腹が立つのでさらに激しく揺さぶっていると、温室の扉が開く音がした。それと同時に聞こえてきたのが、腹の底にビリビリと響くような豪快な笑い声。
ああ、そういえばこの人も一緒に来ているんだったか。
「なんだなんだ、ずいぶんと楽しそうだな!それだけ元気があるなら、遠乗りぐらい問題なく行けそうだな」
「お祖父様まで……」
爺孫揃って同じことを言いやがる。さてはそういう血筋だな。
でも私が聞きたいのは、なぜ今まで庭にすら出ることを許されなかった私が遠乗りにいくことになっているかだ。そんな話、初耳。準備も覚悟も何もできていない。
殴ってもびくともしない岩にような体格のお祖父様、エバーグリーン侯爵に駆け寄って「どういうことですか」と問うと、お祖父様は軽々と私を抱き上げた。
いくら私が小柄でやせっぽっちといえど、七十歳超えの老人が「どっこいしょ」とも言わずに抱き上げるとは……。さすが現役の騎士団長だ。
「遠乗りなんて、私なんにも聞いてませんよ」
「らしいな。アロイスの奴め、使用人にすら伝えていなかったようだ。そういうところは相変わらずだな、あいつも」
「お父様が言い出したことなんですか?」
「外へ出る許可を出したのに、仕事でどこへも連れていってやれない自分の代わりにと言ってな」
なんだそれ、シンプルに言って嘘くさいぞ。
急速に心が冷えてきて、笑うお祖父様に「ふうん、お父様が……」と自分でも驚くぐらい冷たい声が出た。するとお兄様が首をかしげて、お祖父様に抱かれたせいで高い位置の私を見上げる。
「どうしたのミシェル。遠乗りが嫌なら庭で僕と遊ぶ?」
「いいえ、遠乗りは嬉しいです。でも……」
言いかけて、口をつぐんだ。
仕事の都合で一緒に生活していないのは今に始まったことじゃあないし、家族でどこかへ行ったことなんて一度もない。行動に制限がないお姉様ですらお父様に誘われて遠乗りなんて行ったことがないのに、私のことをわざわざお祖父様に頼むなんてどう考えたって裏がある。
急に黙った私を不思議そうに見るお兄様は、そういうことには気づいていないのだろう。ただ元ひきこもりである私のお出掛けが心配でついてきてくれただけ。
だったらテンションが下がるようなことを言うのはやめておこう。
「……なんでもないです。お祖父様、支度をしてくるので下ろしてくださいな」
現役武人の証である丸太の様に太い腕をペシペシと叩くと、お祖父様はゆっくりと下ろしてくれた。
あまり二人を待たせては悪いので、お祖父様と一緒に温室に来ていた侍女に本を書庫に戻すのを頼み、私は足早に自分の部屋に向かう。すると部屋にはすでにニナとばあやがいて、私の着替えなどを用意してくれていた。
貴族令嬢らしいフリルたっぷりのドレスから、動きやすいシンプルなデザインのものに着替える。そして長いくせ毛をまとめてもらうために鏡台の前に座ると、見慣れないバレッタが置いてあった。
「ばあや、これなあに?」
「先ほど大旦那様がお嬢様にと置いていかれた品ですよ。せっかくですから、お付けしますね」
ばあやは、嫁ぐお母様と一緒にパールグレイ家にやってきた。つまり元々はエバーグリーン家の使用人で、お祖父様のことを今でも大旦那様と呼ぶ。
まあ、パールグレイ家の方の祖父母は私が生まれる前に亡くなっているそうなので、大旦那様と呼べばエバーグリーン侯爵のことだと分かるので問題はない。
そんなお祖父様からだというバレッタには、私の目の色と同じあせた黄緑色の石が真ん中についていた。手に取ってみると意外と重い。髪を結ってくれていたばあやに渡してから手の臭いを嗅ぐと、前世で鉄棒で遊んだ後と同じ臭いがした。
よかった、磨かれて光ってはいても鉄製か。金や銀でできたアクセサリー付けて乗馬なんて、落としたりぶつけたりしたらどうしようかと思った。
「お嬢様。お出掛けに私たち使用人はご一緒できませんから、もしも途中で気分が悪くなったらすぐに大旦那様に仰ってくださいね」
「うん」
「それから気になるものがあっても、お一人で行動なさらず、大旦那様とジャン様のお側を離れてはいけませんよ」
「うん」
「森に入るのもいけませんからね」
「遠乗りって森の中を行くものじゃあないの?」
「ああ、それもそうですね。ともかく、お一人で歩き回ってはいけませんからね?」
それさっきも聞いたよ。そう思ったけれど、ばあやは我が家の使用人のなかで一番過保護だからただ黙って頷いておく。
そうすると最後にぱちっとバレッタを止める音が聞こえて、私の身支度は終わった。
「お待たせしました!」
先に玄関で待っていたお祖父様とお兄様に駆け寄ると、後ろからばあやに「お淑やかに!」と怒られてしまったけれど気にしない。
「お祖父様、髪飾りありがとうございます」
「さっそくつけてくれたのか!よぉく似合ってるぞ!」
「それ、お祖父様がミシェル用に特注した物なんだよ。良かったね」
「特注!?」
うっわ、そうだったのか……。
鉄製とは言えど細工は細かいし、宝石も付いているからそれなりのお値段なんだろうな。壊さないように気を付けよう。
もう一回お礼を言うと、お祖父様は満足そうに頷いた。
「さて、行くとするか。ミシェルは儂と一緒の馬に乗りなさい」
「えっ、お祖父様と?馬が可哀想です……」
お祖父様は年齢のわりには図体がデカくて重量感があるから、乗馬姿は控えめに言っても世紀末覇者だ。
そこに私まで乗ったら馬が潰れてしまいそう。あまりにも可哀想だ。
そうかといって病弱ひきこもりっ子であるミシェルも、日本で平々凡々に生きた“私”も、馬に乗った経験なんて一度もない。だからお祖父様の馬に乗らないとなると、残りの選択肢はたった一つ。
「じゃあミシェル、僕と乗る?」
関わりたくない攻略対象と馬に相乗り? 誰がそんなことをするもんか。
だいたい初めての遠乗りでお兄様の馬に乗ったなんて、あのソフィアお姉様に知られたら絶対に怒り狂う。屋敷が氷漬けになるかもしれない。
それが二人の関係をさらに険悪にさせて五年後に影響するかもなんて、なにその恐ろしいバタフライエフェクト。羽むしって芋虫に戻されたくなかったらこっちに来ないで。
「ほら、おいで」
「待てジャン。ミシェルは儂と乗るぞ。孫を自分の馬に乗せて出掛けるのが夢だったのだ。だがお前とソフィアときたら気付けば一人で乗りこなせるようになりよって……」
「優秀だと褒めてくださったじゃないですか」
「それはそれ、これはこれだ。なんと言われようとミシェルは渡さんぞ。ミシェルも、ジャンよりも儂の方が安定感があって良いよな?」
前門の世紀末覇者、後門の破滅フラグ。
どっちが怖いかなんて、そんなの破滅フラグに決まってる。
「じゃあお祖父様と乗ります」
私がそう言うと、お祖父様は拳を天高く突き上げた。
やっぱりその姿は世紀末覇者。そのまま往生なんて絶対にダメですよ、長生きしてくださいな。
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