第5話 時計持ち
時計を膝に載せ、光平はソファーに座っていた。夕刻の日差しがカーテンの隙間から漏れ、テレビの裏側をオレンジに染めていた。画面の中ではインタビュアーが昼下がりの街中を歩いていた。
「こちらに美味しいラーメン屋さんがあるという噂なんです」
裏道に入ると、カメラが急に上向き、薄汚れた壁面を映し始めた。落ちている時計は一度も画面に映らなかった。
「並んでいますねえ。ちょっと聞いてみましょうか。いつ頃から並んでいるんですか?」
「一時間くらいですね」
背に乳児を負った主婦が、左手で横髪に手を当てた。右手の時計は12と13の間を指していた。
「坊やもすっかり眠ってしまってますねえ」
「気楽なものですよね」
母親はそう言って笑った。光平はテレビを消し、時計を腹に載せたままソファーに横たわった。安物の生地が体の形に沈んだ。ローテーブルの上には携帯電話が置かれていた。光平はずっと天井を見上げていた。ふと時計を見下ろすと、逆さになった数字の間で秒針が休むことなく動いていた。窓際や携帯電話に目を移しても、針の音は首元から等間隔に伝わった。
光平は両手で耳を塞いだ。丸い時計のフレームが、息を吐くたびに腹の周りに食い込んだ。
携帯電話の鳴る音がかすかに鼓膜に届いた。画面の上に「篠田華美」と書かれていた。光平は咄嗟に時計を押さえ、すぐさま電話を手に取った。
「井上君? 今大丈夫?」
低くかすれた声が受話口から聞こえた。
「大丈夫だけど。そっちこそ大丈夫? 何かあった?」
「うん。ちょっと……」
そう言ったきり、華美は黙り込んだ。光平はしばらくの間、鼻で息をした。やがて「ねえ、今からそっちに行ってもいい?」と起伏のない声で華美は言った。
「別にいいけど、なんで?」
「電話で話せる内容じゃないの」
光平は住所を口早に伝え、道順を付け加えようとした。
「そこまで聞けば分かるわよ。子供じゃないんだから」
華美はようやく笑った。寂しい笑声だった。
電話を切ってから、光平は時計を片手に、部屋を片付け始めた。週刊誌の表紙では時計を小脇に挟んだアイドルが微笑んでいた。漫画の主人公たちは、皆がめいめいの時計を持ったままポーズを決めていた。上着を纏い、床を拭き、トイレの黒ずみを落とし終えた頃、インターフォンが鳴った。
「ごめんなさい、いきなり来て」
「……上がって」
光平はすぐさま玄関ドアを閉めた。華美は時計を持っていなかった。フローリングの上をひたひたと素足が触れた。「わ、ソファーがある。いい部屋だね」と振り向いた華美に、光平は「時計はどうしたの」と押し迫った。
「叩きつけたら壊れちゃった」
「なんで」
「あんまり部長に腹が立ったから。もう辞表出してきた」
どのみち……とまで言って、華美は口を閉ざし、ソファーに陣取った。光平はローテーブルの前に胡坐をかいて、私服の華美を見上げた。ブラウスからむき出しの腕は白く、締まっていた。ジーンズの裾から覗く足の爪は、赤く彩られていた。華美はソファーの肘掛けにもたれかかり、「ああ、楽」と目を閉じた。
「楽って、あれがないと何もできないじゃない」
「修理に出したわよ。あと三日かかるから、その間自由を満喫しようと思ってねえ」
光平は「向こう見ずすぎるよ。傷が残るでしょう」と言って、片足に載せた時計に目を伏せた。
「ちょっとそれ、持たせて」
華美が光平に両手を伸ばした。花弁のような濃淡のついたマニキュアの塗られた指先が、光平の時計をがっしりと掴んだ。
「へえ、やっぱりけっこう重いね」
「華美さんのほどじゃないけどね。でも……」
「うん。一度修理に出したら、どうなるか分からないね。あはは、真ん中の数字、私のより多いじゃない」
黒縁の時計を抱きかかえ、華美はソファーの上に足を伸ばした。そうしておもむろに時計を掲げ、肘掛けを枕にして、秒針の動きを目で追っていた。
「秋道君だけど」
頭上を仰ぎながら、華美は言った。光平はすぐさま「あいつ今何やってるの?」と応じた。
「知らないからここに来たんだよ? 電話出ないでしょ」
「俺が電話した時はもう解約になってた感じだね」
「マジで? どうするつもりなんだろ」
華美は身を起こし、時計を光平に返した。フレームには温もりが少しばかり残っていた。
「秋道君の住所知ってる?」
「知ってるけど、篠田さんは知らないの?」
「言っとくけど、別にあたしと秋道君、付き合ってたわけじゃないから」
にわかに顔をしかめた華美は、「じゃあ案内して」と立ち上がった。意志を宿した瞳が毅然として光平を見下ろしていた。
「……そうだね」
光平も時計を落とさないよう立ち上がり、革のキーケースを手に取った。
「その前に、髭を剃って着替えなさい。私は外で待っとくから」
「玄関のところで待ってなよ」
「まあ、そうだね。ゆっくり準備して」
洗面所で部屋着のズボンを脱ぎ、片手でジーンズを履いた。ずり落ちる右側の生地を引き寄せ、フロントボタンを留めて、ベルトを締めた。時計を持った右手は使うどころか、ジーンズに触れさせもしなかった。ワイシャツのボタンを器用に留め、左手でシェービングクリームを塗って、左手でメンズシェーバーを顎に当てた。
準備を終えるとサンダル履きの華美が、俯きがちに爪先を何度も土間に当てていた。
「どうかした?」
「何でもない。行くよ」
そう言いつつも、華美は光平がドアを開けるのを傍らで待っていた。
頭上に灯る屋外照明が、時計の縁に艶めいた輝きを与えた。手早く鍵を閉め、二人は駐車場に向かった。いつになく寡黙な華美に、光平も何も言わなかった。途中で一組の男女とすれ違った。二人はまじまじと華美を見つめていた。背後からは嘲笑さえ聞こえてきた。
「こういうことなんだよね。自分で蒔いた種だけど」
華美はきっと前を見据えた。茜色の空の下、物怖じしない横顔が暗中に際立った。光平はかなり離れた場所から車のドアロックを外した。
古びたアパートの塀からはみ出た紫陽花を、ヘッドライトが照らした。車から降りてみると、アスファルトには紫陽花の花びらが数えきれないほど張り付いていた。光平は秋道が住む二階の部屋のドアを見上げた。華美が「いい所だね」と小声で言った。石段の隅は苔むし、手すりは錆びついていた。階段の照明は時計の周期など無視して点滅していた。一つ一つのドアの前には、乳白色の光が円状に灯っていた。
インターフォンを押しても反応はなかった。ドアノブは鍵がかかっておらず、光平が引いたドアの間から華美が身を滑り込ませた。鼻先に木の匂いが漂ってきた。
室内はがらんどうだった。部屋の真ん中に止まったままの時計が置かれていた。窓から入る街灯の光が、二人の影を壁面に向かって伸ばした。
「あいつは……」
光平が呟いた。華美が小さな時計を抱き上げた。時計の下には紙が一枚残されていた。「旅に出る(笑)」と書かれていた。
「馬鹿なやつ……せめて持っていけばよかったのに」
そう呟く華美は、膝を突いたままずっと時計を抱きしめていた。光平は、部屋の中で唯一時を刻む自分の時計を睨みつけた。呼吸が荒くなり、一度は右腕にぐっと力を込めた。だが、それきりだった。やがて時計を抱いたまま立ち上がった華美に促され、二人は部屋を出た。華美はドアノブをそっと握りしめたが、ドアを閉める仕草は力強かった。風呂場に通じる窓ガラスが音を立てて揺れ、光平は目を丸くして華美を窺った。
華美はこれまでに見たことがないほど清々しい顔をして、「帰ろうか。それぞれの場所に」と言った。笑顔が柔らかい光に勇ましく映えていた。
「Mon」と表記された時計を右脇に抱え、光平は鞄に手をかけた。犬が遠くでしきりと吠えていた。携帯電話が震え、ディスプレイには「公衆電話」と表記されていた。光平は受話器のアイコンをスライドした。
「もしもし? 俺だけど」
「秋道か? どこで何やってんだよお前」
鞄を投げ出し、光平はがなり立てた。「まあ落ち着いてくれ」と秋道は間延びした声で言った。
「今起きたばっかりなんだよ。まだ眠くてね」
「どこで寝たんだ? ホテルとか無理だろ?」
「まあね。公園で寝た。でも何だろうね、ホテルの態度。『お断りします』の一点張りで、理由なんか言わないんだよ」
「そういうものだって。生活できないだろ。篠田さんがお前の時計持ってるから……」
「あれはもういらないよ」
言葉を失った光平の耳元で、秋道の伸びをするような吐息が漏れた。
「分かってただろ? あの会社に俺の居場所なんてなかった。いや、社会のどこにも俺の居場所はない」
「そんなの、俺だって同じだよ。友達なんてほとんどいないし、ただ毎日意味も分からずに生きてるんだよ。誰だって同じだって」
「部長の時計持ちなんだから、お前の未来は明るいだろう」
「明るくねえよ。ずっと誰かの時計を抱えて生きるなんて、俺は嫌だ」
「じゃあ、時計なんて捨てればいいじゃない。俺みたいに」
光平は顔を伏せた。時計がみしりと音を立てた。だらりと下げた手の中に収まった時計は、今も一日前と同じ時刻を刻んでいた。ただ中央の数字だけが減っていくのだった。
「それも嫌だ。今の俺にはできない」
絞り出すように、光平は言った。「まあそうだろうな」と、秋道は平然と応じた。
「別に時計のない人間だって生きていけないわけじゃない。ただ生きにくいだけだ。でも今の生きにくさは俺にとって苦痛じゃないから、いいんだよ」
「いいんだよって、お前……これからどうやって食べていくんだ。時計のない奴を雇ってくれる場所なんてないぞ」
「だから書いたろ。旅に出るって。貯金はあるから、何とかするよ」
光平の耳元にかすかなブザー音が届いた。「ああ、やばい」と秋道はようやくまどろみから覚めたように言った。
「じゃあ、華美さんによろしく。お前も頑張れよ」
「ちょっと待て。お前はどこに行くんだ」
救いを求めるように叫ぶ光平の耳元に、通話の終了を示す音が断続的に聞こえていた。
光平は駅ビルを出て、人波の中を歩いた。本来ならばもう職場に着いている時間だった。それでも光平は周囲に合わせて歩いた。ギターの音が、アーケードの下に響いた。駅前にはスピーカーを並べ、時計を抱えて歌う若者の姿があった。前回と同じく「自由」を訴える歌詞が、秒針の回る音に正確に刻まれた。誰も若者を見向きもしなかった。ただ光平だけが、「自由」と小さく呟いた。
横断歩道の前で立ち止まっている社会人たちの真ん中で、光平は空を仰いだ。電線が強風に揺らいでいた。振動の周期は一律ではなかった。足元を這う木の葉も、調子はずれな音を立てて不規則に揺れ動いた。
金色の大きな時計を抱えた女性が、強風に煽られてふらついた。光平は差し伸べた手を中途で止めた。女性は数歩ヒールを踏み鳴らしたのち、直立した。信号機の色が変わり、針の音が一斉に靴音に変わった。
時計を持ち直し、光平は一秒ごとに足を前に進めた。足元で乾いた音がした。光平は足を止め、靴を上げた。たちまち先刻の木の葉が風に舞って円状に動いた。誰もが光平の脇を通り過ぎていった。光平は横断歩道の真ん中で立ち止まったまま、しばらくの間、地の上を踊るように這い回る落ち葉をただ一人見下ろしていた。
時計持ち @BRi
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