第十六章 過去

第十六章 過去1-1








「なあ、あんた。起きろよ」



茉莉花まりかは、コンクリートの壁にもたれて隣で寝こけている少女の肩を揺さぶった。

されるがままぐらついた身体が、こちらへかしいで来る。

支えようとして失敗し、下敷きになった。



「うぐっ……」



壁と同じく、コンクリートむき出しの床は、夕凪で風もなく、さらには真夏であるにも関わらず、ひんやりと冷えていた。

背中の温度が奪われていく。


ふっと息を吐く。


心地よさに、茉莉花はわずかの間、目を閉じた。

手のこうにじんわりと熱を感じて目を向けると、咄嗟に少女の頭を床との衝突から守ろうとしたせいなのか、り傷ができている。

茉莉花はそっと、自分の新しい傷を元どおりに治した。

目が覚めて少女に何か言われると煩わしいのだ。


部屋の唯一の光源である半分割れた窓からは、向こう側に打ち付けられたベニヤの隙間を縫って暖かな陽が差していた。

少女が話の途中で眠ってしまうまでは、ひだまりを分け合うように塵の積もる床に座り、一緒に足をのばしていたのだが……。


少女は、この状態でもまだ、眠っている。


初対面の頃から印象は変わらずで、見た目の楚々とした雰囲気の割に随分とずぼらで大雑把なところのある人だ。



「なあ、起きろってば。もしかして具合が悪いのか」



「う……ううん。ごめん。起きる」



「本当に大丈夫か」



上体を起こすと、少女の顔は茉莉花まりかよりも随分と上にあった。

背丈の差は座高で比べてもこんなにも大きい。

今のように倒れられると、どうしようもない。

未だぐらぐらと、首が座っていないかのように揺れながら少女は言った。



「ありがとう。大丈夫だよ。ちょっと寝不足で」



「眠れないのか」



「そうじゃなくって、最近、日記を書くことにはまっててね、昨日は一昨日あったことまでを書いたんだ」



「は?」



「茉莉花と会ったときのことから書き始めようと思って記憶を遡って日記を書いたんだけど」



「それは日記っていうのか」



「日記でしょ?昨日、ようやく追いついたから、今晩からは今日のことを書ける。……どうしたの?」



「なんでもない」



この変わった少女との出会いは、恐らく五日ほど前に遡る。

自分のことなのに「恐らく」なのは、これまでの茉莉花にとって、昨日も今日も明日も区別する意味のないものだったからだ。

最初に出会った日を逆算するのは困難で、いつだったかわからない日の、とりあえず昼頃−覚えている限り、太陽が昇っている時間帯だった−に、きっかけはやって来た。


与えられた病室で横たわっていると、一羽の小鳥が飛んで来たのだ。

窓という窓が全て塞がれたこの屋敷では、まず、ありえないことだった。

鳥は茉莉花の肘の上でわずかな間、羽を休め、壁をくり抜くように四角く穿うがたれた入り口を通って飛び立って行った。


追いかけなくても別に良かった。


鳥は珍しいながらも当然、どこかしらから入って来たのだ。

それが理解できていれば、鳥の侵入経路など別にどうでも良かった。

まして、小さな鳥がどうなろうと知ったことではない。

このまま屋敷から出られずに死んだとしても、かわいそうだとは微塵も思わない。



そんな茉莉花が鳥の行方を追ったのはきっと、陳腐な言葉を借りれば「運命」とでも呼ぶべきものだったに違いない。

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