第九章 思い出2-1









無事、極楽浄土の離れまで戻って来ると、和泉いずみは夏野の間の戸襖とぶすまの堅縁に、じょうをかってしまった。


マリカに向かって言った。



「前にドアを開けるなと言ったのは、こう言うことを予測して言ったわけじゃない。迷いやすいから気をつけろくらいの意図で言ったんだ。でなければ、誰でも入れるようにはしていない。変に不安にさせてしまって悪かった」



亜美もフォローするように言う。



「大丈夫。大丈夫よマリカ。こんなことまず、今まではありえなかったんだから。あなたが予測できることじゃないわ」



和泉も、亜美も二人とも、何があったのか全て理解しているような口ぶりだ。



「っつ」



安河内やすこうちが床に膝をつき、崩れながらうめいた。ここまで和泉に肩をかしてもらいながら自力で歩いて来たのだが、急に痛み始めたらしい。



「安河内さんっ、もしかして怪我を」



「いや、そんな大したことじゃないんだ、ごめん。一瞬、背中が」



亜美が急いで安河内の背中に回る。



「何ともなっていないみたい」



「よかった」



「……安河内様を若葉の間へお連れする。亜美と紺は若葉に残っておやすみの準備を。マリカは俺と事務室に」







月明かりの下、本館へと続く渡り廊下は薄青色に染まっていた。

どこにあるのかわからない月は、見えないながらも旅館の中庭を明るく照らしている。


今夜は満月に近いのだろうか。


安河内を支えながら前を歩く和泉の髪が、わずかに濡れている気がする。

水気を含んだ黒髪が、月明かりを受けて瑠璃色るりいろに光っていた。


そういえば、どこかから急いで着の身着のまま飛んで来たと言う様子だ。

半袖姿の和泉を見るのは初めてのことだった。

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