第四章 目がさめるとそこは・・・ 1-2





襖障子ふすましょうじの向こうから、誰かの話し声が聞こえる。


マリカは床に就きながら、夢うつつに聞いていた。

榑縁ぬれえんと外とを隔てるガラス戸の向こうは薄暮れ時で、庭木の葉先も夜の青色に溶けている。


藺草の香り。


額には水気を含んだタオルが乗っていて、こちらはほんのりと薄荷はっかの香りがした。

誰の趣味だろう。薄荷油を水に垂らしたに違いない。


「クルマ、持って帰ってこれたんだ。お疲れ」


「ああー、運転しづらかった。なんであんなでかいのを」


「大家族だからね。みんなで乗れるのを買いたかったんだよ、ご主人は」


「車高が高いのが嫌よ〜。乗りづらいもの。……でもまた家族が一人増えるのね」


足音が近づいてくるのを感じて、マリカは思わず目を閉じた。

ふすまの開く音がして、向こうの部屋の蛍光灯の光が差し込んだ。まぶたを突き抜けた光が瞳にみた。


枕元に誰かが膝をつく。薄手の掛け布団を首元まで引き上げてくれた。


「……ねえ、この子の名前は?」


「覚えていないみたいだよ」


「そっか。どうしよう」


「庭の茉莉花が見頃だからね。茉莉花はどうかと」


−いいの?だってあの花は……

もっと話を聞いていたかったのに……。一度、まぶたを閉じてしまったら、あっという間に意識が解けてしまった。


次に目が覚めたとき、座敷の中は光で満ちていた。


縁側から入った夏の日差しが奥まで届いて、何かに反射して杉板の天井に水紋が映っている。

肘で体を起こしてあたりを見ると、白色の花が浮く手水鉢が側に置かれていた。

すぐそばで蝉の合唱。

昨日閉まっていた襖障子は空いていて、ブラウン管テレビが置かれているのが見えた。古めかしいテレビCMが流れている。

音質が悪く、音が少し割れていた。


みなさん、みなさん、いらっしゃい。

苦味温泉へいらっしゃい。

一度浸かれば、貴方の悩みもするするするっと湯に溶ける。

人は言う「ここは極楽浄土だ」と

〜苦味温泉郷 旅館・極楽浄土〜


「よかった。目が覚めた?」


はっと振り向くと、縁側に向いた障子からひょこりと女性が顔を覗かせていた。

華やかな顔立ちの若い女性だ。

隙なく化粧を施して、亜麻色の髪の毛をふんわりと編み込んでひとまとめにしている。今時の美しい女性。そんな印象だった。

陽に透けた肌を見て、この人も同類だとマリカは感じた。


「私、亜美って言うの。仲居として働いて居るんだけど、ね、入ってもいい?」


マリカが頷くと、「これで顔や体を拭いてね」と、絞ったタオルを差し出してくれる。


亜美は着崩れていた浴衣を直して、マリカが身支度を整えるのを手伝ってくれた。

タオルからは薄荷の香りはしなかったけれど、なんとなく、この人がずっと自分の世話を焼いていてくれたのだと補助を入れてくれる手の感覚からマリカにはわかった。

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