31 商談
(マリアという人も……《印》がなかったのだろうか)
しかしマリアは奇跡を行ったという。自分にはそれがない。
たとえ奇跡を行えたとしても、自分は地租四神に求められた人間と言えるのだろうか?
(違う。問題はそこじゃない)
冷たく湿った風が吹いて、ラナーニャの組み合わせた両手に力がこもる。
――神に見捨てられるよりは、神に選ばれるほうがよい。そのほうがいいに決まっている、はずだ。
なのにあの女の言葉を受け入れられなかったのは――
魔女が妹のことしか考えてなかったからではない。そんなことが理由ではなかった。
自分はただ。
≪
(《印》がなくても異端。地租四神に選ばれても異端)
生まれてから今までずっと英雄四神の世界で生きてきた。《印》がないために自分の居場所があやふやで、決して居心地のいい場所ではなかったはずなのに。
それなのに自分は選んだのだ。『こちら側にいたい』――と。
それは教育のせいだったのだろうか。周囲の環境のせいだろうか?
だとすれば、地租四神の世界を学び、
地租四神は異端の信仰だという。それでも……寄り添うことができるのだろうか?
「……」
疑問は次々と浮かび、尽きることがない。
ラナーニャは目を開いた。暗闇の中で、シグリィの残してくれた灯りだけが彼女を守るように在る。
彼女は両手を開き、そっとその灯りを撫でる真似をした。
――『こちら側にいたい』と願ったもう一つの理由、それは。
(彼らと、同じ世界にいたかった……)
*
深夜、屋敷の裏庭に突如現れたその人物は、バルナバーシュを見てにやにやと笑った。
「ごきげんよう、御大。歩けるようになったのなら重畳」
「……君はサモラ商人の」
ゴーシュ・ナロセイド。商人であると同時に、あの町の傭兵の一部を率いる実力者だ。
(ユードに、今回は彼の手を借りろと命じたのはアルフレートだが……)
マザーヒルズ本国との大きな取引。決して逃せない大事業。
クルッカをひとつの郵便拠点にすること。
町にするというよりは、砦のような場所にする計画だ。したがって、住む人間は戦いに特化した人間が多い方がよい。
その一部に、サモラの傭兵を使おうというのが、バルナバーシュたちの思惑だった。もちろんサモラの傭兵には教育が必要だが、それくらいならどうにでもできる。
とは言えできるだけ質のいい傭兵が欲しかったから、サモラ町内でも比較的統率が取れていると言われている、ゴーシュ・ナロセイドの傭兵団に目をつけたのだが――
バルナバーシュは黙り込んだ。
目の前の狐目の青年はいっそう笑みを深くした。他人を不快にさせる笑みだ。
「色々とお察しいただいているようで」
「――…」
遠くでほう、ほう、とミミズクの鳴く声がする。アルメイアでは夜の帝王と呼ばれる鳥。
バルナバーシュは怪我をした足を引きずって、むりやりこの庭に来ていた。家人に知られたならば叱られるどころの話ではないが、今夜はどうにも寝つけなかった。
(クルッカの調査はどうなっているのか)
オルヴァ・オストレム、そしてガナシュから来た旅人に任せたあの任務。
午後に出て行ったばかりの彼らは、今ごろどうしているのか。過去の調査隊と同じように逃げ帰ってくるのか。それとも――。
「商談に来ました、御大」
と、狐目の商人は言った。「あなたなら乗ってくれると信じています」
バルナバーシュはじっと青年を見つめる。このタイミングでサモラの商人が持ってくる可能性のある商談と言えば、
「……クルッカのことか」
「ご明察」
おどけた調子の返答。
だがその目から、笑みが消えている。
青年がゆっくりとバルナバーシュへ近づいてくる。退きかけたバルナバーシュは、すぐに足を止めた。――青年に害意は感じられない。
それにどのみち、足を怪我している自分は青年から逃げられやしないだろう。
それならば、堂々としているのが商人というものだ。
「聞こうか。家人が来る前に」
青年は、バルナバーシュの前まで来るとぴたりと足を止めた。
「最近はご子息が窓口になられることも多いと聞きました。しかし今回の話は、御大ご自身でなければ論外だろうと」
「クルッカに関しては息子の手に余る。しかしあそこが今更、我が家以外のところにとって利益を生むとは思えんが」
「ほしいのは利益ではありません」
「……なんだと?」
不審にうなるバルナバーシュの目の前で――
青年は、おもむろに膝をついた。
現れたときには、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。その青年とはとても同じ人物と思えない流麗な動作で、彼はこうべを垂れる。
「バルナバーシュ様、どうか。どうか今回のマザーヒルズの申し出を、蹴ってください」
「――それは」
「クルッカに手を入れさせないでほしい。どうか」
そう言って、青年はさらに深く頭を下げる。
庭は、数刻前までの大雨でどろどろになっている。しかし青年はそれを気にするでもなく膝をついている。
庭のどこかで、びたびたとしずくの落ちる音がする。重く不気味な音。
「……論外だな。損失が大きすぎる」
「分かってます。これは取引です、御大」
「何を出すと?」
「サモラという町を」
ゴーシュは顔を上げた。その狐目が、暗闇の中でふっと輝いた。
「――あの町そのものを、差し上げます」
ばさ、と近くの樹から鳥が飛び立つ。
ゴーシュは迷いのない目でバルナバーシュを見つめている。
「――」
バルナバーシュは次に口にする言葉を探した。頭の中でめまぐるしく情報が回転している。この青年の素性の噂、サモラの町の噂、そしてこの申し出――
「お館様!」
ふいに屋敷の方から呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、使用人の一人が泥だらけの庭を慌てて踏み越えてくるところだった。
「こんなところにいらっしゃったのですか。アルフレート様がお呼びです。お屋敷にお戻りくださいませ」
一通り早口で話してから、使用人がぎょっとゴーシュに目を留める。
侵入者と騒ぎ出される前に、バルナバーシュは口を開いた。
「何かあったのか?」
「――は、はい。あの、オルヴァ・オストレム隊長が」
「隊長が? 連絡があったのか」
「いえ。ご本人がお戻りです――大怪我をして意識のない状態で。今、医師らを呼びつけているところですが」
このアルメイアにももちろんいくつもの医務院はある。しかしはっきり言ってアティスティポラの名の下に医師を集める方が、はるかによい施術ができる。それを分かっている者がいたのだろうか。
バルナバーシュはふむとあごを撫でた。「
「お館様――」
「いや、いい。今すぐ行く。――それから、彼を」
バルナバーシュはゴーシュを示した。
泥だらけの庭に膝をついたまま、動かない彼を。
「彼を客人としてもてなしたまえ。服を着替えさせて、客用の部屋で待っていただくように。――変な顔をするんじゃない。これは私の命令だ」
*
木々の隙間から滑空してきた生物を鋼糸でからめとり、引き裂く。
断末魔の叫びが森に響く間にも、別の一体がシグリィを襲う。それを、左手のナイフで撃退する。
(朱雀の術を使うのは避けたい)
ここは『魔女様』の、あの女の術中だ。それも朱雀の幻想の中だから、同じ種の力を使うのはできるだけ避けたい。
シグリィが駆使しているのは白虎の《印》だった。元々持ってはいるものの、滅多に使わない力だ。身体能力を高めてくれる《印》だがなぜかうまく扱えないのである。
使えば必ず反動が来る。
しかし今は、そんなことを気にしている場合ではなかった。
(それに、あの女が憎んでいるのは白虎だ)
ナイフを振るうたび、森が脈動するような気がした。そして“迷い子”たちがいきり立つ。猛り狂う。
この“迷い子”たちもすべて、あの女の幻影――
(この森もよくできた『世界』だ。あの女の術者としての力は相当だが)
飛びかかってきた鳥型の“迷い子”を鋼糸でまとめて切り裂きながら、シグリィは内心眉をひそめる。
(これだけの力を、生前から持っていたのか。それとも……死んでから力を得たのか)
朱雀の術者は強力な者ほど生存率が低い。もっとも発狂しやすく、もっとも暴発しやすい力だからだ。
これだけの幻を生前から生み出せたとしたら……非常に危険な生き様となったはずだ。現実と空想の境がほぼなかっただろうから。
それゆえ死んでから力を得たと考えるほうが自然だと言える。その場合は――
(死んでから、憎しみで力が熟成したか……。それとも別の要因があるのか)
動きの俊敏な“迷い子”たちをかわしながら、シグリィは自分の思考が袋小路を間近にしていることを感じる。
(……あの女自身に聞かなくては分からないか)
本当ならそこまで知る必要はない。シグリィの個人的興味な部分が多分にあった。
ただ、ひとつだけ予感がしている。
(女の核の位置が分かったとき、その理由も分かる気がするんだ)
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