17 羞恥の瞬間

 ――あれはいつのことだったか……


『泣くんじゃない、ラナーニャ』


 そう囁いて、父はその大きな手で私の頬を撫でた。


『私が油断していただけだ。……お前のせいではない』


 違う、と否定したくても喉が枯れて、もはや何も声が出そうにない。

 違うのだ。この偉大な父が今ベッドで伏せっているのは、私の頬を撫でるその右手がひどく重そうなのは、すべて、


 すべて私のせい、なのに。


 ――案ずるな。告げる父の声は王者の風格そのものに、聞く者を圧倒する。


「これしきの怪我はすぐに治る。それよりも、よいかラナーニャ」


 重々しい声は、ラナーニャの耳朶じだを強く打つ。


「涙は尊いものだ。だからこそ、我ら王族は滅多なことでは泣いてはならない。……今は分からずとも、いずれきっと意味が分かる。だから、ラナーニャ」


 泣くんじゃない、と父は優しく、そして強くそう諭した。


「お前は優しい子だ。涙をこらえるのはとても難しいだろう。だが……負けないでくれ」


 そう語った父の蒼い瞳が、まるでシレジアの海のように広く深く美しかったのを覚えている。


 その双眸そうぼうに映っていたのは、涙をこらえられずにいた私の情けない顔。

 ――あれから何年経ったのか。


 父がかけてくれた期待を踏みにじりながら、私は心のうずきを涙にして落とし続ける。父はそんな私を、いったいどう思っていたのだろうか。


 もう問うこともできない。もう二度と。



「――父様!」


 叫んで飛び起きた。

 目の前で父の形をしていた幻影が揺らいで霧散する。思わず手を伸ばしても、空を掴むのみだ。


「父様……」


 全身から汗があふれていた。乱れていた呼吸はややあって落ち着き、ラナーニャはそっとため息をついた。

 と――


「ラナ」


 呼ぶ声で何気なく振り向き――それから飛び上がらんばかりに驚いた。


「シッ、シグリィっ?」

「うん。……何をそんなに驚いているんだ?」


 すぐ傍、触れるか触れないかの間近に彼はいた。ラナーニャと同じように上半身を起こし、不思議そうに小首をかしげている。


 ラナーニャはおそるおそる視線を自分がいる場所へと下ろした。


 固く冷たい感触。ひょっとすると石にただ薄い布をかぶせただけかもしれないそこは――まさしくベッドだ。それに気づいた途端、ラナーニャの頭の中が爆発しそうになる。


「な、なんっ、なんっ、なん――」

「何でここに、か? いや、君が疲れているようだったからユードさんのお言葉に甘えて彼の知り合いの宿を借りたんだ」

「なんっ、なん」

「……何で一緒にベッドに、か? いやあいにく借りられる部屋がひとつしかなくて、ベッドもひとつしかないものだから――」

「――、――」

「ああ、当たったのかな」


 のほほんと笑うシグリィに何も返すことができない。ただ口をぱくぱくさせるだけだ。


 ここにカミルかセレンがいてくれたなら少しは何か口を挟んでくれただろう。けれど二人はその場にいなかった。部屋にはシグリィとラナーニャ二人きり――


 焦った目が辺りを見渡す。部屋は複数のランプが灯すほの赤い光だけで照らし出されている。壁にいくらかひびの入った、窓のない部屋だ。時間はさっぱり分からないが、なんとなく夜のような気がした。


 ……夜に、彼と、二人きり、なんて。


 ラナーニャの動揺が収まらないのを気にしたのか、シグリィが神妙な面持ちになった。


「すまない。何も添い寝する必要はないと思ったんだが……どうしても君を放っておけなかった」

「!」


 ラナーニャの心にどんどんと油が注がれていく。

 混乱が極まっていくのに、シグリィの言葉だけがいやにクリアだ。


 彼女は生まれてこの方異性と同衾どうきんしたことなどなかった。王族だったから、シレジアの常識だから――と言うのは、この場合はあまり関係がない。単純に、彼女のそばにいたがる人間がごく限られており、しかも揃って女性だったというだけのことだ。


 そしてシグリィたちに同行するようになってからも。野営の雑魚寝はともかくとして、同じベッドでシグリィやカミルと一緒に寝たことなどない。特別な気遣いがあったわけでもなく、単に自然とセレンとだけ寝るようになっていただけなのだが。


 それが――


 添い寝。自分の隣でシグリィが寝ていたということ。全然覚えてない。覚えてない、けど!

 そんな彼女にまるで気づかぬ風情で、シグリィはとどめの一言を放つ。


「ラナが私の服を放さなかったせいもある。――どうしたラナ、顔が真っ赤だぞ?」


 熱が、と彼が手を伸ばそうとするから、その手を両手で押しとどめてぶんぶんと首を振った。


 駄目だから! 大丈夫だから! お願いだから!!!


 言葉にならなかったが目で必死に訴える。自分でも何をどうしたいのかさっぱり分からないものの、ただひたすら今の状況が恥ずかしい。


「大丈夫か?」


 顔を間近で覗き込まれて、反射的に体を離しそうになったラナーニャは――

 しかし、シグリィの目に浮かぶ心配そうな色を見て動きを止めた。


 ――彼は自分をからかってなどいない。ただ、心配してくれているだけで。


「……大丈夫」


 ゆっくりうなずくと、シグリィは安心したように表情を緩めた。


 呼吸がおさまっていく。改めて周囲を感じると、今夜はさほど静かではなかった。

 立て付けの悪い窓がガタガタと揺れる。風が強い。


 遠くで、雷鳴が聞こえる。


 まもなくラナーニャの混乱は収まった。それを見計らって、シグリィが何故ここにいるかの説明をしてくれた。カミルとオルヴァは行方不明のまま、新しく知り合った青年にすすめられてサモラにやってきたこと――


 その新たな人物の名を聞いたとき、ラナーニャは怪訝な顔をした。


「ユード……?」

「ああ。ユードと名乗った――檸檬れもん色の髪と朱雀色の瞳をした男性だよ」

「それって」


 言いかけるラナーニャに、シグリィはうなずく。


「十中八九ユキナさんの弟さんだと思う」


 ラナーニャの胸に何とも形容しがたい安堵感が広がった。ユード――ユドクリフという名の人を捜していたのだ。しかし見つけるとエルヴァー島の人々と約束したものの、いざ大陸に下りてみるとどこから探していいのか途方に暮れてしまった。それがこんなにあっさり見つかるなんて。


 と言っても不安に思っていたのはラナーニャだけかもしれない。シグリィたちはあくまでマイペースだったのだから。


「見つかって本当に良かった」


 喜びのままにラナーニャはそう言った。これをマーサたちに知らせたら、あの姉妹はどんなにかほっとするだろう――

 けれど、シグリィは難しい表情を崩さなかった。


「……困っているんだ。ユードさんに私たちが捜していたことを伝えるべきかどうか」

「え……?」

「今の彼は色々と不審なところが多すぎる。そもそもユキナさんの弟だとまだ確定していない――本名を確認できればいいんだが、本人が正直に答えてくれるかどうか」

「――?」


 不審なところ、とオウム返しに呟くと、ああ、とシグリィは肯定した。


「たぶん、ラナも実際に彼に会えば違和感に気づくと思う」

「違和感?」

「まあ、とりいそぎ彼の正体は確かめるつもりはない。今の最優先事項はカミルとオルヴァさんのことだ」


 ユードのいない今は彼の話をしても仕方がないと考えたのだろうか、彼は話を変えた。確かに、目下自分らが考えるべきことは行方不明の彼らのことに違いない。


 シグリィは窓の外を見る。雨が雨戸を打ち、うるさいほどにガタガタと鳴っている。

 セレンは、とラナーニャが尋ねると、「出かけたよ」と返答があった。


「こんな時間に……?」

「サモラの町人に呼ばれたんだ。“迷い子”が発生したとかで、手伝ってほしいと」

「……?」


 なんとなく腑に落ちなくて、ラナーニャは首をかしげる。この町には戦える人間が少ないのだろうか。

 しかしシグリィはそこを意に介していないようだった。真顔を崩さないまま、考えこむように目を伏せる。


「……カミルたちが見つかりしだい、アルメイアに戻ってバルナバーシュ氏に聞かなきゃならないことがある」

「アティスティポラのご当主に……? 一体何を?」

「クルッカの森の調査記録を」


 ラナーニャは目を見張った。「だってそれは、図書館で調べたじゃないか」

「あれは十五年前の公式調査の記録だ。それではなくて、『過去十五年間に行われた非公式の調査全て』を聞きたいんだよ。――すぐに気づかなかったのがうかつだった。あのアティスティポラの大当主殿が、一度も調査を入れたことがないはずはないんだ」


 何しろあそこはアルメイアの土地だからな、とシグリィはそう言った。


 一瞬、言われた意味が理解できなかった。


「アルメイアの土地? でもそんなことは一言も」

「これまでほとんど意識されてこなかったからな。何しろクルッカに国の調査がほとんど入らなかったのは、あそこに入るのにアルメイア市議会の許可がいるからなんだよ。まあアティスティポラ一強になってしまってからは、ほとんどバルナバーシュ氏の一存なんだが。つまり十五年前のあの調査も、許可を下したのはバルナバーシュ殿だ」

「待って、ということは――」


 かの当主は知っていたはずではないのか。調査の内容を、全て。

 だとしたら、自分らがいちいち図書館で調べる必要はなかったはずだ。事前情報ぐらい、くれても良かったはずなのに――


「たぶん本当のことをあらかじめ話すと逃げると思ったんじゃないかな。そもそも、この依頼をされるのが私たちが初めてとは思えない。全員が引き受けたわけじゃなかったんだろう。……なにせ人が発狂する類の仕事だから」

「……」

「まあ、詳しいことはバルナバーシュ殿に聞こう」


 シグリィはもぞもぞと動いてベッドの端へと移動した。「寝るかい? セレンが戻ってくるまでは、さしあたりやることもない。……君は疲れているだろう」


 寝てもいいよ――と、柔らかな微笑がラナーニャを優しく促そうとする。

 ラナーニャは首を振った。目がすっかり冴えてしまって、眠れそうにない。

 そもそも、何故自分一人眠りこけていたのか。自分はいつの間に寝ていたのだろうか――つらつらと記憶の糸をたぐり寄せ、答えにたどりつくとまた顔が熱くなる。


(シグリィにすがって泣きじゃくったんだ)


 思い出すと穴にでも埋まりたくなる。ラナーニャは埋まるかわりに膝を立て、その隙間に顔を埋めた。

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