9 “アンバークローズ”
「……アティスティポラの品を持って、他の町に商売に行く予定です」
まるで言葉を選んでいるかのように慎重な声音で、ユードは言った。「僕がまだここにいることは秘密にしてください、オルヴァさん。本当は昨夜のうちに発つように命じられていたんです」
「昨夜のうちに? どうして昨夜発たなかったんだ?」
「挨拶したい知り合いが、今日しか会えないと言うので。私的な友人なんです」
自分の雇い主の命に逆らっていることが落ち着かないのか、ユードは辺りを一瞥する。「お願いですからアルフレート様たちには――」
「分かってる。言わないさ……しかし商魂たくましいなお前さんの雇い主は。いまだ起き上がれないくらいの、けっこうな怪我なはずなんだがなあ」
「そうですよ。おかげでとても退屈しているんだそうです。本当ならお客様の前に自分で立ちたい人ですからね――それじゃあ、僕はそろそろ行きます」
急いでこの街を発ちます――というユードの言葉に、オルヴァは一度「そうか」と言いかけた。
しかし、口から出たのは全く違う言葉だった。そのときなぜ自分がそう言ったのか、彼は後々もずっと不思議に思うことになる――
「お前さん、これから一緒に行かないか。とある連中と一緒に、“死の大地”に調査に行く予定なんだが――」
*
「シグリィ様。ありましたよ」
午後二時が刻々と近づいてきていたあるとき、別行動だったカミルが戻ってくるなり一冊の本を差し出した。
シグリィが受け取ったそれを、ラナーニャは好奇心から覗きこんだ。そして、
「……っ」
驚きで全身が硬直する。まさかとかすれた声が漏れ、視界が一瞬揺れた気がした。
――『月闇の扉 概説』
(著者・
あのエルヴァー島で初めて自分の素性をシグリィたちに告げたとき、シグリィが強く反応したのは叔父の名前だった。
叔父の名はヴァディシス・
『ヴァディシス・アンバークローズか?』
と、そう言ったのだ。
(叔父上……なのか?)
叔父は確かに学者だ。本の一冊くらい書いていても全くおかしくはないのだが、ラナーニャはそれを知らなかった。シレジア城の図書室へは入れてもらえない身だったから知らないのも当然ではあったが、他に誰も教えてはくれなかった。リーディナも、だ。
「確かにこれだな」
シグリィは満足そうにそう言って、分厚いその本をぺらぺらとめくった。「ラナ」
「え、あ、え、と?」
我に返って返事をすると、シグリィは落ち着かせようとするかのように片手でぽんぽんとラナーニャの背中を叩いてから、
「前に話したと思う。覚えているかな――本物の月はとっくになくなっている、という説を唱えた学者がいるという話」
「あ――」
彼女はすぐに思い出した。とても印象深かったのだ。エルヴァー島でシグリィと二人、草原へと出た夜に、彼が語ってくれた月の話。
「その学者が彼だ。『ヴァディシス・アンバークローズ』」
シグリィはその本の表紙をラナーニャに見せる。「……名前が少し違うが、君の叔父上のはずだ。この学者がシレジアの王族だということは、知る人ぞ知ることだから」
「……叔父上が……」
呆然と呟く。
月がもう無くなっているという発想は、ラナーニャには到底信じがたいものだ。けれどそれを考えたのはあの叔父だという――
「……その、説は……その、定説になっている、のか?」
恐る恐る尋ねると、シグリィは苦笑して首を振った。
「まさか。誰も取り合わないレベルだよ。ただ」
ふと彼は本の表紙に目を落とした。「……元々ヴァディシス・アンバークローズは異端の学者と呼ばれている。それゆえ彼の説は大半が聞き流されるが、その一方で熱狂的に信奉している人間もいる」
「異端……」
ラナーニャは絶句した。
ヴァディシスとろくに会話をしたことがない。顔を合わせたことさえ滅多にない。
それでも『変わった人』という印象があるのは、もちろん周囲の口から――主にリーディナの口から――知ることができる数々の噂があったからだ。
彼が王位継承権を放棄して学者の道へ入ったのはわずか十代半ばのことだったという。一度没頭すると何日も部屋から出てこず、自室はカーテンが閉め切られていて年中暗い。そしてたまに部屋の外に出るかと思えば深夜に物見台に上がり、一晩中夜空を眺めているという――
(夜空……
そして思索を巡らせ、結果導き出された発想が、『月はもうない』だったというのか?
そこまで考えたところで、ラナーニャは肝心なことを思い出した。
「シグリィ」
「うん?」
「……シグリィはどうなんだ? 叔父上……その人物の説に、信ぴょう性があると思うのか?」
「―――」
シグリィは何かを言いかけた。
しかしちょうどセレンが戻ってきたことで、一度会話は中断した。
「シグリィ様ぁ、これでいいですか?」
『くたくた』を絵に描いたような状態のセレンが差し出した一冊の本を受け取りながら、「疲れた顔をしているな」とシグリィが首をかしげる。
「疲れましたよぅ。司書さん、なかなかこの本を出してくれなかったんですよう」
「持ち出し禁止の本になっていたのか?」
「禁止っていうか、ただの閉架図書ではあるんですけどー、著者不明で、扱いが宙ぶらりんになっているそうで」
「ああ、なるほど」
「著者不明……?」
シグリィの手にある本は何の変哲もない本に見える。が……たしかに、著者名がない。
いや、正しく言うなら最初に著者名が書かれていたであろう部分に新たな紙が貼られ、隠されている。これは――
「これが例の『死の大地』の名付け親の著した本らしい。屋敷でも少し話したが、別人の名義で出された本なんだ」
私も初めて見る、とシグリィは興味深そうに本の裏表を眺めた。「アインスト・シェトルという人物の名で書かれているんだが、本物のシェトル氏が抗議したことで、名前が消されたんだな。扱いが宙ぶらりんということは、本当は本の回収を求めたのかもしれないが」
「そうですそうです、でもその本は貴重なので残すことになったんだそうです。このアルメイアの図書館と、マザーヒルズの図書館にそれぞれ一冊ずつ」
司書と話をしてきたセレンがそう説明する。「建物の外に持ち出し禁止だそうです。見ればわかりますけど、術がかかってますから大変なことになりますね、シグリィ様」
「まあそこまでされているから身元不明の私たちにも見せてくれるんだけどな。……よし」
シグリィは辺りを見渡し、「あそこに行こう」と一番近い読書スペースを示した。
「時間いっぱいまで、クルッカの森についての予備知識は入れていこう。まあ、役には立たないかもしれないが」
*
あっという間に午後二時になり、シグリィたちは約束のアルメイアの街正門へとやってきた。
「よ。目的の本は見つかったか」
先に待ち合わせ場所にいたオルヴァは軽快に聞く。ええまあ、とシグリィは適当に返し、「もう行きますか?」
「そうだな。日が落ちる前までにはついておきたい」
オルヴァは持たれていた柱から体を起こした。そしてふと思い出したように、
「ああ、そうだ。勝手に悪いが途中でひょっとしたら俺の友人が合流するかもしれない。間に合わないかもしれんとは言ってたんで、確実ではないんだが――」
「私たちは構いませんよ。どなたですか?」
「アティスティポラの遣いで行商もやる何でも屋の吟遊詩人。まあ合流したときに紹介しよう」
行こうか、とマザーヒルズの兵士はあくまで気さくな態度で、シグリィたちを促した。
彼らが進む道はどこまでも草原だった。豊かな南部の植物が春の歓びに満ち溢れ、風に揺れている。
(この方角は完全に人通りがなくなっているんだな)
シグリィは興味深く周囲の風景を確かめる。
昔使われていたであろう道はある。が、荒れてとっくに雑草と石だらけになり、草原と一体化し始めている。
おまけに元々道であったはずの場所を堂々と横切るように、小動物の足跡があった。動物たちがここを避けて通っていない証拠だ。
人が通らないということは――
“迷い子”も好んで徘徊はしない、と思うのが通常だが。
(……今回は当てはまらないらしいな)
甘い香りがどこからかただよってくるほど美しい光景の間隙を、街を出てすぐにはなかった“迷い子”の気配が、少しずつ縫うように忍び伝ってきていた。
「お……群れが見えるぞ」
戦闘を行くオルヴァが額に手をかざして、彼らの行く先を見つめる。「形は虎に似ているな。真っ黒だが」
シグリィはオルヴァが示している群れの影を眺めながらうなずいた。
「そのようですね。一体一体が大型だ」
五体。黒い虎のような形状。頭を低くして、こちらをうかがうような姿勢をとっている。
「遠方から先手必勝で行きましょうか~?」
セレンが杖をふりふり軽い口調で言う。
「……いや、よせセレン。魔術はなしだ――カミル」
「はい」
シグリィに呼ばれて、カミルが腰に刷いていた剣をすらりと抜く。
シグリィは彼の姿を見ないまま、ただ遠方の“迷い子”の様子を確認しつつ続けた。
「お前が先頭で頼む。私は後ろから援護をしよう」
「承知しました」
「こらこら、俺だって戦うぞ?」
オルヴァも剣を抜いていた。ああ、とシグリィはいつもの癖で自分の連れのみに指示を出したことを反省した。実際れっきとした兵士である彼を戦闘要員に数えないのは失礼というものだ。
「それじゃあオルヴァさんもお願いします。……それだと二人で十分そうですね」
「そうでもないな、俺も魔術を使わないとなれば戦闘方法が激減する」
オルヴァは苦笑して、「ま、我が国の名折れとならないようにするさ」
彼が片足のつま先で地面を打つ。カミルと二人、視線を見交わす――そして二人の剣士は揃って“迷い子”へと走り出した。
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