38 ダッドレイ

 洗濯を無事終えたチェッタが次に行ったことは、村の見回りを兼ねた見舞いだった。昨夜、黒鳥に襲われた村人の、である。

 三人いた怪我人のうちの最後の一人を見舞えば、今日の午前の見回りは終了だ。


 最後のひとりはチェッタも普段からよく遊ぶ年上の男友達だった。髪の毛が赤っぽいので、チェッタは彼を赤毛と呼んでいた。


 幸いにも深手ではない。怪我の具合を見せてもらってほっとしたチェッタは、


「はやく元気だせよっ! いざとなったら、みんなで逃げなきゃなんねーんだかんな!」


 わざとふんぞり返って、赤毛に言ってやった。そうすれば「えらそうなんだよお前は!」と元気に突っ込みがくると思ったのだ。


 しかし、赤毛はうつむいたままだった。

 怪我をした腕をかばいながらベッドに腰かけ、深刻な考え事でもしているかのように沈痛な表情で。


「おい、どーしたんだよ」


 顔を覗き込む。

 目を逸らされた。

 チェッタはむっとした。


「おい! 言いたいことがあるんなら言えよ、おれたち家族だろ!」

「――だって」


 ぼそぼそと赤毛は何かを言っている。どうやら言い訳らしかった。「だって、ダッドレイが」その名前が聞こえて、チェッタの苛立ちはますます悪化した。


「ダッドレイがなんだよ、あのレイケツカンが! あいつになにか、ムリヤリなんかしろって言われたのか? あっ、ひょっとしてそのケガしたのがダッドレイのせいなんじゃないのか?」


「違う!」


 赤毛は初めて顔を上げ、憤然と否定した。


「じゃあなんなんだよ。ダッドレイがどうしたって?」


 にらみつけると、再び目を逸らされた。やはりぼそぼそとした口調で。


「……助けてくれたんだ。ダッドレイが」

「は?」

「だから。襲われた俺たちを、助けてくれたんだ……ダッドレイが。それで」


 ダッドレイも怪我をした。


 そう、赤毛は言った。


「……俺よりずっとひどい怪我したんだ。でも、みんなに言うなって。それが分かったらややこしいことになるからって……ダッドレイのやりたいことの邪魔になるからって、それで」


「――なんだよそれ」


 チェッタは呆然と、目の前の友人のくすんだ赤毛を見つめた。


 混乱した頭の中でようやく意味を理解し、体の奥底からふつふつと怒りが湧いてくる。普段ダッドレイの話題を聞くと反射的に感じる苛立ちとは別の、胸が痛むような怒りだ。


「なんだよ、それ! どうしてあいつは……っ!」


 分かんないよ、と赤毛は呟いた。


「でも……ダッドレイに無理しないでって言ってみたところで、俺らじゃダッドレイの代わりできないだろ。だから、何も言えなかったよ」

「ちょ――ダ、ダッドレイのかわりたって、あいつべつにトクベツはたらいてねーじゃんっ! 大きな荷物運べねーんだぞあいつ、ヒリキだからっ!」

「だからさ」


 赤毛は途方に暮れた目で、チェッタを見返した。


「マーサの話し相手をだよ。マーサと議論する、そんな役割、ダッドレイ以外の誰がやれるんだ?」


「―――」


 言葉を失ったチェッタに、「無理だよ」と赤毛はもう一度繰り返す。


「だってさ……俺、マーサの言うことならなんでも聞いちゃうし、絶対。ユキナもそうだったけど、マーサが言ってると全部正しいって気がするんだ。そもそも俺よりずっとマーサのほうが深く考えてるに決まってるし。だからダッドレイの代わりは無理だ。できない」


「……っ、だからって、そもそもダッドレイの言ってることはいつもムチャじゃねーか!」


「そうかな。だってあいつ頭いいぜ? 俺とかお前よりずっと頭いい。絶対」


「アタマがいいとかわるいとかじゃねーだろ! どんだけマジメに村のことかんがえてるかってのがダイジで――!」


「だから、真面目に考えてんだろ? ダッドレイも。考えて、あんなこと言ってんだろ。だからマーサも門前払いにしないんだろ」


 赤毛の目は疲れ切っていた。ひょっとするとこんなことを、一晩中考えていたのかもしれない。


 うろんな目つきを窓の外に投げやる。

 外は快晴で、驚くほど平和に見えた。


「……なあチェッタ。この後、ダッドレイの見舞いに行く気ないか?」

「な」


 なんでおれが、と言いかけた言葉が尻すぼみに消えた。

 ダッドレイの怪我のことは知らなかった。けれど知っていたなら――自分は当然のごとく様子を見に行くだろう。相手がダッドレイであっても同じだ。やつも――この村の人間だから。


「俺の分も頼むよ」


 赤毛はそう言って、こうべを垂れた。「昨日、お礼言ってないんだ。かばってくれて、あの鳥追い払ってくれてありがとうって」


「じ、じぶんで言えよ、そんなの」

「正直俺ダッドレイが恐いんだよ。でもお前は恐くないんだろ?」

「―――」


 チェッタは腕を組み、つんとそっぽを向いた。


「バッカでぇ。ありがとう言うのにこわいもこわくないもあるもんかよっ」

「だってダッドレイだぜあの冷血毒舌大王! むしろお前なんで恐くないんだよ、ひょっとして鈍感なのか!?」


 赤毛は悲痛な声を出した。単にダッドレイが恐くて礼を言いに行く勇気が出ず、悶々と悩んでいたのかもしれない。チェッタは唇の端が笑いでむずむずするのを無理やり押し殺し、「けっ」と鼻で笑ってやった。


「かわりにありがとうなんて言ってやんねーよっ。じぶんで行けよな!」

「け、けちだなお前っ」

「オトナのジョーシキだっ」

「お前子供だろ!」

「おまえよりかはオトナだっ!」


 ――いいや子供だ。自分は子供だ。


 気に入らなければ不満を撒き散らす。どうしようもない子供だ。でも。


(もうそれだけで終わりにするかよ。おれはダッドレイと話ができる)


 チェッタはそう思った。


 だって、自分はあの男が恐くない。




 赤毛の家を出て空を見上げると、南東の方角に灰色の雲が見えた。


「……? なんだあれ、ヘンなくもだな……」


 しかも、あの洞穴のある方角だ。


 胸にざわめきを覚えて、チェッタは唇を引き結んだ。様子を見に行った方がいいかもしれない――そう思って、そちらの方角へと足を向ける。


 と、向こうから近づいてくる人影が視界に入った。


 出歩いている人間が他にもいるとは思っていなかった。ぎょっとして立ち止まったチェッタは、それが見知った人間の姿だと気づいてほっと体の力を抜いた。


「ロイック……」

「ちぇ、チェッタ……!」


 ちょうど向こうもチェッタに気づいたらしい、走りながら大きく手を振っている。


 相変わらずロイックは足が遅い。チェッタは呆れて自分から近づいていき、再びぎょっとすることとなった。


 ――ロイックの顔色がひどく悪い。


「ど、どーしたんだよロイック。ガラにもなくウンドーしたせいで死にそーなのか?」

「ち、ちが、ちが、」


 違う、という簡単な言葉さえ発音できない。チェッタの前で足を止めたロイックは、両手で膝を押さえてぜえぜえと全身で息をついた。


「――死に、そう、なのは、ダ、ダッドレイ、で……っ」


 切れ切れに語る内容に、チェッタはひやりと心臓が冷えるのを感じた。


「ダ、ダッドレイがどーかしたのかよっ? あ、あいつケガしてるんだっけか?」

「そ、そう――っなんか、村の外から、走って、きたと、思ったら……そのまま倒れ、ちまって……今、メリィが」


 根気よく話を聞くと、つまりこういうことらしい。メリィがしきりと外を気にするので、二人で窓の外を眺めていた。そうしたら東の方角に人影を見つけた。よく見たら、それはダッドレイだった。


 よろよろと走ってきたダッドレイは、やがて地面に倒れこんだ。


 意味が分からず唖然としていたロイックは、メリィにせかされて――どうやらメリィの方が冷静であるらしい、まったく意外ではないけれど――二人で家の外に出た。倒れているダッドレイに駆け寄り揺り動かすと、最初は頼りない反応しかなかった。


 けれど、焦るロイックを安心させるかのように、ダッドレイはやがてはっきりと意識を取り戻した。


 その足から血が流れ出していた。どこで怪我をしたのかは分からなかったが、その場で手当てできそうになかった。誰かを呼ぼうとロイックが言うのを聞いているのかいないのか、ダッドレイは立ち上がろうとする。


「マーサに、報告を」


 ダッドレイはただそれを繰り返したらしい。


 ロイックたちに、「報告に行け」でさえなく。あくまで自ら「報告に行く」というつもりらしく――ロイックを振り払って自分で歩こうとする。


 やっぱり正気ではないのかもしれない。そう思ってしまうほど、鬼気迫る表情で。


「俺じゃダッドレイを止められないよ。だからダッドレイをメリィに任せて、とにかくマーサを呼ぼうと思って」

「おい、そんなジョータイのダッドレイをメリィひとりに任せてどーすんだよ! ふつー逆だろ!」

「メリィに全力疾走なんてさせらんないだろ! メリィは運動音痴なんだぞ!」


 ロイックもどっこいどっこいだろ、と突っ込みたいのを、チェッタは何とか呑み込んだ。


 ダッドレイの無茶を止められる人間がマーサ以外にいるとするなら、それはきっとメリィみたいな人間だろうと、ふとそう思ったのだ。


「チェッタ、マーサを呼ばないと! あと怪我の手当て……っ」

「――ダッドレイは今、ロイックんちの近くにいるんだよな?」

「そうだよ、だから」

「わかった」


 チェッタは真顔でロイックを見た。「おれ、先にダッドレイのとこいってる。ロイックは、マーサとハヤナにしらせてくれ」


「う、うん。でもチェッタ、お前は」

「いーから行けって」


 ロイックの大柄な体を強引に丘の上に向かって押しやる。ロイックは腑に落ちない表情のまま、何度も振り返りつつ村長の家へと走っていく。


 チェッタは深呼吸をした。

 そして――思い切り駆け出した。ダッドレイのいるはずの場所を目指して。




 まったく、やりにくいったらない。

 ダッドレイは道を塞ぐ相手を見下ろし、強く眉間に力を込める。


 ここに残るのならロイックの方が都合がよかったのに。どうしてメリィが残ってしまったんだ。


「いっちゃ、ダメっ」


 メリィは片方しかない腕を目いっぱいに広げ、彼の行く手を阻んでいる。


「おにいちゃん、まつの!」


 ――メリィに何かあったのだろうか、と内心ダッドレイは首をかしげた。いつもはもっと内気そうな喋り方をする娘だったはずなのだが。


 いや――


 違う。メリィは最初から、こういう娘だったのだ。その強さをあらわす機会が、この村では滅多になかっただけで。


 深い橙色の眼差し。ずっと背の高いダッドレイを一生懸命に見上げ、目を逸らさない。


 こういう目は苦手だ。


(まったく――)


 ふっと張り詰めていた力が抜けた。ダッドレイはがくりとその場に膝をついた。その刺激で余計に足に痛みが走り、呻いてそのまま再び倒れこむ。


 ――なんてていたらくだ。心の中で激しく自分を罵り、両手を地面に叩き付けて無理やり体を起こした。


 あの旅人の女と別れてから――何度もそんなことを繰り返した。おかげで怪我はすっかり足だけではなくなっている。


 だが、それでもここまで自分の足で来た。

 ここで止まっては意味がないのだ。


「だめっ」


 まるでダッドレイの内心が聞こえているかのようなタイミングで、メリィが声を上げた。


「どうして、そんなこと、するのっ。むり、したら、しんじゃうのっ」


 つぶらな瞳が目の前にある。メリィは地面に這いつくばったダッドレイと視線の高さを合わせようとしているのだ。


 ああ本当に――こういう女は、苦手だ。

 肺の奥から、心地悪いため息が出る。


 気を抜くとメリィの橙色の目さえ曇って見える。痛みと熱が意識にかすみをかける。うっかりすると気絶してしまいそうだった。駄目だ、気絶などしたらメリィが泣き喚くに違ないから。


「心配するな。俺は、死ぬ気はない」


 腹から声を絞り出した。話し続けろ。目の前の小娘が納得するまで。


「でも」


「絶対に死なない。大体、俺が死んだらこの村はどうなる。誰もがマーサの言うことをはいはいと聞いて、疑うことなく同じ方向を向いて日々を過ごす――」


 俺はいったい何の話をしているんだ? ああ、何でもいいメリィを前からどかすことさえできれば、


「――想像してみろ、そんな村がやがてどんなことになるのか。マーサ以外の人間がどいつもこいつも自分で考えることを止める、マーサが正しければそれでいい、それで満足する、そんな――そんな恐ろしいことには――」


 おねえちゃんが、と小さな子の哀しげな声が漏れた。


「――それは、おねえちゃんが、さみしい」


 そらみろ。やっぱりこいつはそれが理解できるんだろう。年長の、マーサ至上主義のやつらよりよっぽど賢い。


 ――かつてユキナが絶対だった俺よりずっと賢い。


 熱い。意識が朦朧とする。ざりざりと砂を踏むような妙な耳鳴りがする。誰かが近づいてきた? いや、人ならメリィが最初から傍にいる。


 話せ。言い切れ。途中で投げ出すのがもっとも悪だ――


「俺の言うことが正しかろうが間違いだろうが、結局はどうでもいい。最終的にはマーサの意見が通る。それでいい、それでいいんだ。ただ」


 他の連中の心に、マーサ以外の声を。

 マーサ以外の刺激を。


 疑問を持ってくれ。俺の言うことを嫌悪するならそれでいい。その上でマーサを選ぶなら、それでいいんだ。


 ただ、唯々諾々いいだくだくとマーサの後をついて歩くのはやめろ。それではお前たちは、人ではなくなってしまう。


 たったひとつの価値観で村ひとつを埋め尽くしていれば、

 やがてもっとも恐ろしい世界に変わってしまうかもしれない。


 ――《印》なき子供は排除せよ。そんな価値観に染まった、大陸の俺たちの故郷のように。


 そして。そして――


「……マーサの、逃げ道を……」


 ずるり、と地面についていた掌が滑る。

 そのままダッドレイの上半身は、肩から地に崩れ落ちた。




 目の前で年長の男が魂の抜けた人形のように倒れようとする。

 思わず手を伸ばしたメリィを、別の腕が制した。


「いいよ、メリィは」


 おれがやる、と。

 チェッタはぽつりとそう言った。


「ちぇっ。かんたんにキゼツしやがんの。しかもこいつ軽すぎだろっ。なんなんだよ、ちゃんと食ってんのかよっ」


 ぶつぶつ言いながら、ダッドレイの腕を自分の肩に回し、その体を担ぐようにして支える。


 軽すぎる、とは言ってみたものの、実際には潰されそうな気分だった。しかしチェッタは、メリィの心配そうな顔に気づかないふりをして踏ん張った。


 今頃ロイックがマーサか誰かに連絡してくれているはずだ。そうなると、怪我人は地面に寝かせて安静にさせておくほうがいいような気もしたのだが。


 何となく――何となく、それではいけないような気がした。


 ダッドレイの体を地面に転がしておくことに、抵抗があったのだ。それは、多分――

 メリィに道を塞がれながらも、進もうとしていた姿を見てしまったからだろうか。


「しっかりしろよダッドレイ。おまえが死んだらこまるんだよっ」


 ずりずり引きずるようにしながら、ほんの少しずつ前に進む。


 メリィはちょこちょことその横に並び、チェッタの呟きを聞いていた。


「まずマーサが泣くだろ。じょーだんじゃねえよ、おれはマーサとハヤナをぜったい泣かさねえって決めてんだ。そんでもって、ダッドレイ、おまえの横っつらは、いつかぜったいぶん殴ってやるんだからな――」


 うつむいたままのダッドレイの顔は、ちょうどチェッタの横にあった。


 チェッタはその顔を見ようとはしなかった。けれども視界の端で、

 ……ほんの少しだけダッドレイの口元が笑ったような気がしたのは、きっとこの春最大の目の錯覚だったに違いないけれど。

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