11 落ちた流星

   それはうつくしき女神の

   小さなひととき 秘密のひととき



 広がる一面の海は、穏やかにさざなみを立てる。


 ガナシュで見た海上には、異質な何かが凝っているように思えた。だが、ここから見る海にはそれがない。驚くほどに澄み切った海と、それを覆うぬけるような蒼い空。その美しい世界に、かすかな歌声が滲んでいく。


 波音は、寂しすぎる歌声を決して壊さないように寄り添う。


 シグリィがゆっくり近づいても、その後ろ姿はまったく反応しなかった。気配を殺したつもりはないのに、それでも気づかないらしい。


 ――歌うことに熱中しているのだ。


 目を細めて、その姿を見つめてみる。


 小柄な少女は、ゆったりとした生成りのワンピースを着ていた。

 村で出した服だとマーサに聞いた。最初に着ていた服は血や泥で汚れ、破れていたという。


『争いの中から飛び出してきたような姿だったのです。……でも、とても上等な、ふしぎな服でした』


 ふしぎな、とはどういう意味なのか、聞いている余裕はなかったが。


 足の怪我は、今はスカートに隠れているらしい。それともこの距離だから見えないだけか――シグリィの目には確認することができなかった。


 ただ、ほんの微かに。治りかけの血のにおいが――する。


 足は自然と、彼女に歩み寄ろうとしていた。


 まるで別世界にいるように、その場の空気から浮いている少女。まったくこちらに反応しないこともあいまって、“本当にそこにいるのだろうか”と不審を覚えずにいられない。


 それでも、歌は続いていた。

 細い歌声は、まるで彼女の存在を主張するかのように。


 “近づいてみたい”と思った。


 ……いったい何を見ているのだろうか。

 ……いったい何を思って、歌っているのだろうか。


 

   太陽の光あびながら やさしい声は 平和をつむぐ



 数メートルの距離まで近づいて、シグリィは立ち止まった。


 ――なんて声をかけようか。


 歌を遮るのは気が引ける。そもそも後ろから声をかけるのは気をつかうものだ。彼女はシグリィのことを知らない。


 このまま、マーサたちの到着を待ったほうがいいかもしれない。とにかく、彼女が無事だということはたしかめられた。海に飛びこみそうな様子もない。


 それに、


(……


 その歌を、シグリィはよく知っていた。


 昔、子守唄代わりにその旋律を聴いていたことがあった。ただし、ハープによる演奏だ。歌詞を知ったのはずっと後のことだったが、彼は歌詞ごと、この曲を好んでいた。


 南国の島国の民謡フォルクスリートであるそれを、こんなところで聴けるとは思わなかったが。


 久々に聴いた大切な曲。

 シグリィは目を閉じて、その響きをよく聴き取ろうとした。――


 

   なびくは漆黒の髪 輝く墨色の瞳


  

 それはまるで、くつろごうとした体に突然冷水をかけられたような感覚。


 思わず目を開けて、じっと小さな背中を見つめる。


 少女は何も感じていないかのように、同じ調子で紡ぎ続ける。

 


   ――彼の必死に呼ぶ声が

   彼女の黒の髪を引いていたのに


  

 普段だったら、そのまま気にも留めなかっただろう。

 歌詞を変えることなど、子供だって日常的にやることだ。そこに深い意味などないことのほうが多い。彼はむしろそういった、人々の“遊び”を見ているのが好きだった。しかし、


 ――こんな場所で歌っているのに?


 ――こんな声で歌っているのに?


 それはふしぎなほど大きな違和感。

 このまま聞き流すのは、何か大切なものを見落とすのと同じ気がして。


 だから、彼は言った。


「歌詞が違うよ」


 小さな肩が、跳ねるように動いた。

 はっと振り向いた彼女に向かって、シグリィは微笑んでみせた。


「歌詞が違う。女神イリスの色は黒じゃない」


 ことさら優しくそう言いながら――

 歩み寄り、初めて少女と向き合う。


 年の頃はシグリィと同じくらいか、それよりも下だろう。とっさに自分の体をかばうように出た手が傷ついている。窓から飛び降りたときにできた怪我かもしれない。


 線は細いが、肌は健康的な色をしていた。何しろ二階の窓から飛び降り、あの岩壁を乗り越えてきた娘だ――だが、それでも弱々しい印象があるのは、怯えた目つきのせいかもしれない。


 乱れた長い髪は黒、そして怯えて揺れる瞳の色も黒――


(……自分の色を歌に織りこんだのか……?)


 背後からの予期せぬ声に警戒した視線は、しかし一通りシグリィの姿を確認したあと、何かに思い至ったようにふっと色を変えた。


「――この歌を、知っているのか……?」


 その頼りなげな印象からは、思いもよらない男性口調。

 それでいておずおずとした、声の調子。

 あまりにアンバランスで、シグリィはそっと笑う。


「知ってる」


 軽くうなずいてみせると、目に見えて彼女の警戒心は解けた。ほんのり赤く染まった頬。安堵の色をおびて、少女は微笑む。


 ――驚くほど美しい娘だ、と、そのとき気づいた。


「よかった」

 と、少女は言った。「……よかった」


 くり返して小さく息をつく。


 そこまで安心する理由が分からず、シグリィは小首をかしげた。


「この歌に何か?」


 軽く問うと、少女は気弱にもう一度微笑う。


「……この歌しか、おぼえていない、みたいだ」


 少女は記憶喪失なのだと、マーサは言っていた。


「この歌も、私の夢なのかと……思って」


 だから、安心したのだと。まるで独り言のように、少女はつぶやく。

 シグリィは目の前の少女をじっと見つめ返す。


「……他のことは、何も?」


 少女は目を伏せて、首をふった。


「何も思い出せない。でも、この歌だけが頭から離れなくて」


 そこまで言ってから、ふと思い出したように視線をあげると、


「今、間違っていると言っ――仰ったのか?」


 途中でわざわざ敬語に切り替える。記憶がなくても、そういうところは普段の行いをなぞっているのだろう。


 こんなところで敬語を遣おうとするなら、彼女は育ちがいいのかもしれない。シグリィは「ふつうにしゃべってくれていい」と言ってから、


「間違っているというか、イリス神は髪が紅で、瞳が桃色なんだ。この歌でもふつうはそう歌う」

「紅……」


 当惑したようにつぶやいた少女は、やがて大きく顔をゆがめた。頭痛が襲ったのか、急に頭を抱える。


「紅……桃色……」


 うわごとのようにくり返す彼女に手を伸ばし、シグリィはその肩に触れた。


「大丈夫か?」


 ぴくり、と細い肩が震えた。


 警戒の気配が強まった。シグリィはすぐ手を離しそれ以上は近づかず、ただゆっくりと言葉をかける。


「今、村の人が来る。体がつらいなら、いったん村に戻ろう」

「………」


 おそるおそる顔を上げた少女は、シグリィの顔を見て再び顔をゆがめた。


「……ここは、どこなのだろう?」


 まだマーサたちは説明していなかったのだろうか。

 昨夜はそんな余裕などなかったか、それとも記憶が混乱しているのか。


「ここは大陸南西の、エルヴァー島だ。“福音の島”と呼ばれてる」

「ふくいん……?」

「聞き覚えはないか?」


 無言で小さく首をふる。「そうか」シグリィはうなずいて、「それなら仕方ないな」とつけ加えた。


「少し休めば、何か思い出すかもしれない。とにかく村に――」


 言いかけ、ふと辺りを見渡す。


 海上には風があるのか、相変わらず海面にはさざなみが立ち、陽光で飾られ、きらきらと輝いている。

 空気は潮に満ちているが、人里とは違い自然そのもののそれは、吸いこめば胸がすっと爽やかになる。


 翻って陸を見れば、でこぼこの多い海辺はそれはそれで趣がある。


「……君が怪我をしているのでなければ、ここで一休みというのも、まあ悪くはないんだが」


 もう一度彼女の顔を見て、苦笑気味に肩をすくめた。「潮風は、怪我にはよくない」

「けが……?」

「足を怪我しているんだろう? それに裸足でここまで来たんだし……手も痛めてる」

「―――」


 言われてようやく気づいたかのように、彼女は太ももをスカートの上から押さえた。痛みを思い出したのか、眉を軽くひそめる。


 どんな怪我なのかを知りたかったが、スカートをまくって見せてくれとは言えるはずもなかった。シグリィは異性をとりたてて意識したことはないが、そういう教育はセレンも――そして意外とカミルもうるさいのだ。


 緊急や大怪我なら別だが……少女の様子を見るに、今のところそんな心配はなさそうである。

 とりあえず少女をそのままにして、自分が来た方向を見やる。


 マーサたちがどの辺りから来るのか分からないが、まだ到着する気配はない。


「皆が来るまでもう少しかかるみたいだな。少し座ろうか?」

「いや……」


 向き直ると、彼女はぎこちなく微笑みながら首をふった。

 そしてその深く黒い瞳を、海へと向ける。


 海面が反射する光を受けて、漆黒の瞳がまぶしそうに細められた。その視線は海を――いや、そのまた遠くを、見ようとしているような――


 ――何かを求める目だ。


 海の向こうに、何か、彼女を引き留めるものがある。


 それは故郷だろうか。それとも別の何かなのだろうか。


「……もうしばらく、ここにいようか」


 囁くように、シグリィはそう言った。

 黒い瞳が、驚いたようにこちらを向く。


「皆が着いてからも、無理をしない程度なら、ここにいさせてくれるかもしれない。ここを離れたくないなら、頼んでみよう」


 なぜだろう――

 彼女をこの場から引き離すのは心苦しいと、思った。


 海を前に並んで立ち、少女の肩に手を添えたまま、視線を遠く海の果てに飛ばす。

 揺れる水面。

 まぶしく光を散らす小波。


(この先に、何を見ている?)


 水平線の向こう。そこに何がある?


 脳裏に地図を思い描いたとき、気づいた。――この島から、東、つまりこの方角に海を渡れば、そこには。


(シレジアがある……?)


 ふと、隣から――再びの歌声。

 少女は海に向き直り、歌い出していた。先ほどよりもずっと、ずっと強い調子で。


 

   それは昔のものがたり

   小さな島に うつくしき女神おりたって

   太陽の光あびながら やさしい声で ことばをつむぐ


  

「………」


 波音に重なるそれを黙って聴いていた少年は、やがてそっと自分の声を重ねた。


 

   太陽の光あびながら やさしい声は 平和をつむぐ

   なびくは紅の髪 輝く桃色の瞳


  

 彼の声に合わせて、彼女もためらいがちにその色を口にする。

 二つの声はなじむように重なり合い、心地よいハーモニーとなった。


 

   女神のこぼした涙 真珠のように輝く青

   女神は島のまわりに散りばめた


  

 少女の頬に、一筋の雫が流れた。

 シグリィはそれに気づいていた。光を浴びて一瞬だけ輝いたそれが、強く記憶に焼きついて消えなくなる。


 いったい何を想って、泣くのだろう。


(……青い光)


 夜闇に流れた一条の。


 ――あの星はこの島に落ちたのか。

 この島に落ちて、人の姿となったのか。


 だとしたら、この少女は……

 

(違う、この娘は

 

 手を添えた肩には、たしかなぬくもりがあった。彼にも馴染み深い、人の生命の営みの気配があった。


 そのことにひどく安心する自分がいて。


 ――しかし何かが動き出すことを、彼は予感していた。


 流星は落ちた。たしかにこの島に。

 そして、彼の歩む道にも、また。

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