Side:Sigrye 03

 ガナシュの町にたどりついたのは、おおよそ予定通りの時間――昼の一時だった。

 町に近づくにつれ鼻がその気配を察していた。潮の匂い。


 海が近い。


 当たり前だ。この町は船着場のある町なのだから。

 ただ、港湾都市、と呼ぶには小さすぎる。田舎にある漁師町と呼ぶのが正しいだろう。


「海の匂い久しぶりっ!」


 町の門の前で、セレンがうーんと気持ちよさそうに伸びをした。


「はあ、爽やかっ!」

「船着場はもっと爽やかでしょうね」


 カミルは剣をおさめながら、ようやく表情をやわらげた。

 ほんの数分前まで、《獣型》“迷い子”と戦っていた。その名残を、町の中にまで持ち込みたくはない。


 南西部に位置するこの土地の春は、日によっては顔が痛くなるほど潮気がするが、潮が大人しいときは非常に爽やかになる。そういう意味では、今日はどうやらだったらしい。


 しかし、爽やかな気分に浸っている場合ではなさそうだった。

 シグリィは軽く眉をひそめた。


「……今年は人里も大きく被害を受けたらしい」


 町の門は破壊されている。門だけではなく、家屋にも襲撃の跡があった。


「外をうろついている連中も五年前より数が多かったようだから、ひょっとしたらとは思ったが……」

「小さな町ですからね」


 いつもは比較的淡々としているカミルも、口調に痛ましい思いがのぞいている。


 たしかに――大都市よりも、小さな町村の方が、被害を受けやすいのが今までの常識だった。


 人間の血肉を求める“迷い子”だが、人間が群れるとめっぽう弱い。いや、能力的に弱くなるのではない。どうも本能的に、群れた人間は怖いと考えるらしい。

 それが証拠に、過去の例で見るならば、人里に“迷い子”の群れが襲いかかってくることは滅多になかった。


 《印》に関係がなく、普通の人間にも、バリアを張る能力があるという。それはたしかな力ではない。けれど効果的なバリア。

 というバリア――


 人間関係でよくある、あれである。そもそもそれは生物であればごく普通に発する空気のようなものだ。人は群れ、かたまり、人里という大きなものとなって、“迷い子”を排している――というのが、この現象についての、今までのもっとも有力な説だった。シグリィとてそれを否定する気はない。

 従って人数が少ない人里は、それだけ弱いのだ。


 とは言え――。


「ここは西部なんだがな……」


 納得しようと思えばいくらでも納得できる現状に、しかし腑に落ちない何かがある。

 背後にいたセレンが、両手でぽふっとシグリィの両肩を叩いた。


「考えてもしょうがないですよー?」

「とにかく様子を見に入りましょう」


 言葉の後をカミルが引き継いだ。

 その通りだ。シグリィはわずかに苦笑して、うなずいた。



 ――そして彼らは、楽天的に考えていたことをすぐ後悔することになる。


 町の中の崩壊は、彼らの予想以上だった。


 倒壊した建物こそないものの――“迷い子”はその攻撃力を人間を襲うことには使っても、物を破壊することにはほとんど費やさない傾向がある――屋内に隠れた人間を追い詰めるためには必要だったのだろう、壁にぽっかり空いた穴。

 そこからのぞく室内は荒れ果てて、暴風雨よりも凶暴な何かが暴れたことを如実に表している。


 赤い血の染みは、外にも点々としていた。大きいものや小さいもの、乱れたその染みの形。血を踏んだ靴、あるいは裸足の痕。すべてに、混乱して夜陰の中を逃げ惑った人々の影が見える。


 そしてその赤い染みが続く先、唐突に大きな血だまり。

 そこで途絶えてしまっていることが、残酷な事実を知らしめる。“迷い子”は骨も残さない。砕かれた破片のみが、赤い色に混じりこんでいる。


 ――大通りに面する住居の傍には、ちらほらと生きた人間の姿があった。


 足を抱えてうずくまっていたり、頭を抱えてうめいていたり、すでに倒れていたり、複数で寄り集まって震えていたり。

 心がぼろぼろに引き裂かれた彼らは、この明るい春の昼下がりに、重い空気だけをまとってそこにいた。


 いや――

 まだ、生命の火種をたたえた存在がある。


 シグリィは彼らに近づいた。

 相手がびくりと体を震わせシグリィを振り返る。まず何を言おうか――迷ったあげく、


「こんにちは」


 声をかけた相手は、寄り集まった子供たちの集団だった。一番歳かさと見える少年は、シグリィと同い年ほどと思えた。

 おそらく何かが“近づいてきた”だけで、恐怖を思い出してしまったのだろう。へたりとその場に崩れ落ちる子や泣き出す子をかばうようにして立った年かさの子どもたちは、凍りついた顔でシグリィを強く睨み付けてくる。

 その目には確かに光がある。ただしそれは希望に満ちた光ではない。

 地獄を見た者が、もはや生き延びることにしか意味を見いだせなくなったときに燃やす火だ。


 シグリィはそれ以上彼らに近づかないようにしながら、両手を開いてみせた。


「私たちは旅人なんだ。君たちの敵じゃない」

「た、旅人だと」


 中心人物となっているらしき少年が、他の子どもたちの前で大きく両手を広げる。絶対に、後ろの子どもたちへ攻撃を届かせるものかという気迫が全身から溢れている。


 ――そのぎらぎらとした目を見たとき、シグリィは安堵するのを感じた。

 良かった。終わった目ではない。彼は……何かにまだ力を見いだしている。


「そう。旅人だ」

「嘘だ、扉が開いた翌日に平気な顔で歩いてる旅人なんて!」

「腕に覚えがある。そうでなければこの時期に外をふらふらしていないよ」


 リーダー格の少年が黙り込む。シグリィは彼をじっと見つめ、彼の決して弱々しくはない体つきを観察した。おそらく平素ならば、元気いっぱいに外を駆け回るガキ大将か――あるいはスポーツをすればいつも英雄になるような子か。

 そんな子も、今や肌にたくさんの傷を作り、ブーツはすり切れもはや靴のていを成していなかった。


 しかし。

 彼の手元を見ながら、シグリィは問いかける。


「状況を知りたいんだが――この町は“白虎”は少ないのか?」


 大陸西部で多く生まれる、白虎の《印》の持ち主――


 この《印》は“迷い子”にとっては天敵とされている。実際、白虎の者が大勢固まっていれば“迷い子”はその場を避けることが大半だ。

 だから、その意味でも大陸西部で人里が襲われるのは珍しい。


 少年はうつむいた。無意識なのか、己の手をさすっている。


「……白虎は、たくさんいたけど……」


 さする手の陰から見える、白虎の《印》。他の子供たちの傷だらけの手にも。

 それ以上、彼らは何も言わない。


 シグリィは改めて彼らを見た。

 六人いる子供たちの中には、兄弟らしき者もいたが、全員が似ているわけではなかった。

 親は……

 どこにいるのか、とは、訊いてはいけないのだろう。


 巣を攻撃された動物は、子のために全力で自らが反撃する。人間とて同じだ。“迷い子”に立ち向かうことができないのならば、子供を先に逃がしたのかもしれない。


 疑問は山ほどあった。

 だが、まだ襲撃の余韻が消えていない内に、子供に聞くことでもないか――そう思い、シグリィは「悪かった」と早々に話を切り上げようとした。


「この町は今、誰を中心にしてるか分からないかな。とにかく私たちに手伝えることを聞いてこようと思うんだが」

「て、手伝える、こと……」


 きっ、と視線を上げた少年は、


「しょ、食料を、よこせ!」


 と唐突に、枯れた大声を出した。


「ん?」

「旅人なら食料持ってるだろ! 食べ物、よこせ!」


 ん、と後ろの子どもたちをかばっていた手を、今度はシグリィに向かって突き出す。精一杯、胸と肩を開いて、虚勢を張りながら。

 食べ物、と聞いて、背後の子どもたちも目の色が変わっていた。それまでシグリィをひたすら怯えて見ていたはずの彼らの目が、おずおずと輝き始めている。期待の目だ。


 ≪月闇の扉≫は常に、真夜中に開く。

 襲撃がそれから間もなく起こったとすれば、彼らは長い時間何も食べていないのだろう。食欲が戻ってくる程度には、襲撃から時間が経ったとも言えるかもしれないが。


「食べ物か……」


 困ったな。シグリィは軽く腕を組んだ。食料ならちょうど切らしている――


「これでどうですか」


 と。後ろからカミルの声がして、シグリィの横から革袋を差し出した。

 袋の口を開く。中から赤黒いベリーがのぞいた。

 あー! とセレンが大声を上げた。


「食べるものもうないって言ったくせに! まだあるんじゃないのこのケチ!」

「食料は常に余裕を持って考えるべきなんですよ。現にこんなときに役に立つでしょう」


 カミルは素知らぬ顔である。

 シグリィは笑って、カミルからその袋を受け取ると、


「ほら。食べていいらしい。残念ながらこの時期に採れたものじゃあまり甘くないが、不味くもないから安心してくれ」


 と少年に手渡そうとした。

 小さな実ばかりだが、何も口にしないよりはマシだろう。何よりこの実は水分がある。安全な水が一時的に手に入りにくくなっているときには、悪くない水分補給の手だ。


 しかし少年はなかなか受け取ろうとしなかった。


「どうした? 信用できない?」


 シグリィが首をかしげると、少年はぶんぶん首を振り、それからおずおずとシグリィの背後へと視線を動かした。

 誰かがいるのかと振り向いてみたが、そこにいるのは当然ながらカミルとセレンだけである。もう一度少年に振り返り「?」と首をかしげて表現してみせると、


「そ、そっちの姉ちゃん、食べなくていいのか……?」


 おそるおそる少年はそう言った。


 ――ああ。


 シグリィは笑みをこぼす。たぶん後ろで、二人の連れも同じような顔になったはずだ。


「大丈夫だよ、このお姉さんは。口ではああ言ってるが、頑丈だから当分食べなくても平気だ」

「そうよ! 私のお腹は頑丈だから大丈夫よ!」


 と当のセレンが豊かな胸を張った。あれほどお腹すいたお腹すいたと騒いでいた人間と同じ人物とはとても思えない。


 それを聞いて子どもたちがぱっと立ち上がった。腰を抜かしていた子どもさえも。

 そして一斉に、襲いかかるかのごとくシグリィの手の袋に群がってくる。

 

 それを必死に制止したのは、中心のあの男の子だった。


「こら! まずは俺からだ、毒見だ!」


 そう言って袋を奪い去った彼は、中から――毒見というのは本心らしい、一番小さな粒を取り出し、口にしする。


 きゅっと唇がすぼまる。どうやらすっぱいものに当たったらしい。

 全員が固唾を呑む瞬間だった。心配そうに彼を見る者、彼に何かあったら許さないと言いたげにシグリィたちを睨んでいる者、それぞれだったが――

 一様に確かだったのは、瞳に光が灯っていたということだ。今度こそ――力強い光が。


 やがて。

 年長の少年は、みるみる安堵の色をその幼い顔に広げた。


「よーし、これなら食べられるぞみんな!」


 わーい! と子供たちが歓喜した。早く早くと少年に群がる子供たちの目がきらきらと輝いている。


「こら! まずは一粒ずつだ、順番だ!」


 言葉通り一粒ずつ。そして順番に配っていくと、一人三粒は回った。

 しかし、年長の少年は最初の一粒以来、手をつけなかった。

 子供たちは三粒のブドウの実を口に含み、揃って口をすぼめる。

 そして、次の瞬間には顔を花開くようにほどけさせ、


「おいしい」


 と言うのだ。


 胸の奥に何かを訴えかけられている気がして、シグリィは胸元に手を当てる。

 ぎゅっとしぼられているような。

 けれどそれが心地いいような。

 

「シグリィ様、良かったですねえ」


 セレンが嬉しそうに声を弾ませ、腰に手を当ててくるりとカミルを見ると、


「今回は許してあげるわ! あなたもたまにはいいことするじゃない!」

「……どんだけ偉そうなんですかあなたは……」


 カミルが呆れ果てた声で言ってため息をつく。

 シグリィは笑った。


 そんな彼らに、子どもたちがふと振り向いて、


「ありがとう、旅人さん!」


 風もないのに心地よい何かが手に顔に心に触れる。

 当然か。こんないい微笑みが――目の前で見られたのだ。



 それからも三人で大通りを進み続けた。

 途中、珍しい植物を見つけ、ひとり離れて道の脇へ入ったシグリィは、大声が聞こえたことで通りへとひょいと顔を出した。


 そこにはカミルとセレンがいた。カミルは一人の青年の腕をつかんで何かを言っている。

 大通りの奥から、女性が走ってこようとしている。

 シグリィはのんびりと、カミルのところへ戻ってみた。


「どうした?」

「泥棒です」


 カミルの返答は簡潔。

 泥棒……

 目をぱちぱちさせてカミルが腕をつかんで放さない男を見やると、たしかに数匹の魚を抱えていた。

 セレンが大通りに視線をやる。


「あの、走ってくるおばさん。あの人のところで盗んできたみたいですよー」


 男は魚を必死で抱き――抱きつぶしそうなほどに抱き、


「仕方ないじゃないか! このままじゃ飢えて死んじまう!」


 彼が抱えている魚はとても新鮮そうには見えなかったが、というかむしろ痩せて不味そうな魚たちだったが、それでも重要な食料のはずだった。

 シグリィは男を見つめた。


「……気持ちは、分かる。だが、皆同じ苦しみを抱えている中で、力を合わせて復興するんだ。だから泥棒は、よくない」

「こ、子供なんかに、何が……」

「あそこの子供たちはそれを知っていたぞ」


 シグリィは今さっきまで相手にしていた子供たちを指し示した。「それを、大人のあなたが分からないはずはないだろう?」

「―――」


 男は腕をつかまれたまま、がくりと膝を落とした。

 ……腹が減っていたんだ、と小さくつぶやき、うなだれる。


「バカだねえ、ダッハ!」


 憤慨したような女性の声が聞こえて、シグリィは顔を上げる。

 見れば、大通りの奥から走ってきた女性だった。

 息を切らしながら、


「別にあたしたちは魚を独り占めしようとなんて思っていないよ。たしかに最近は水揚げ量が少なくて厳しいけどさ。――こんなときに、お前さんみたいなおバカに一食くらいご馳走する気前はあるさ」


 ダッハと呼ばれた男は顔を上げた。

 感激でぼろぼろと泣いていた。腕から力が抜け、ばらばらと魚が落ちそうになるのを、ダッハを手放したカミルが器用にすべて受け止める。


 この町の人間の優しさを感じ取って、ああそうか、とシグリィは納得する。

 だから、“迷い子”は撤退したのだ。人々を食い尽くさぬ内に。


「ほら、ついておいで、ダッハ」


 女性はカミルたちに礼を言うと、ダッハを引き連れて元来た道を帰ろうとした。

 しかし、一度膝をついたダッハは、立ち上がろうとしてもすぐにまた膝をついてしまう。


「ダッハ?」

「す、すまない……夜通し“迷い子”から逃げ回っていたから……足が」


 今になって疲れがどっと出たのだ。シグリィは小首をかしげ、


「カミル、支えてやったらどうだ?」

「そうしたいのはやまやまですが、魚が」

「魚は私が持つぞ」

「私は~……」


 セレンが唸っている。

 彼女が「私も持つ」と言えないのは、魚の生臭さが服につくのが嫌だからだろう。彼女は旅人のくせに、服装を美しく保つことにはこだわりがある。


「お前は働かなくていい」


 シグリィに言われ、セレンはほっとしたのを満面に顔に出した。分かりやすい連れである。

 そんなやりとりを唖然と見ていた魚屋の女性は、やがてぶっと噴き出して、


「なんか変な人たちだね。……あんたたちも少し食べて行くかい」

「それが可能なら、お言葉に甘えたいです」


 シグリィは微笑みとともに言った。

 そうして許しを得て、シグリィは魚を持ち、カミルはダッハに肩を貸し、セレンだけは自分の杖一本、くるくると回しながら、ぞろぞろと魚屋の女性の後ろをついていった。


 シグリィは思う。人々を救うのは、最終的にはいつだって人々なのかもしれない。

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