07 失われた笑顔


「もう、我慢できねぇっ!」


 その時だ。側にいた賊のひとりが、下着姿のセリーヌ目掛けて駆け出した。

 理性が完全に崩壊している。男の、オスとしての動物的本能だけが、賊の肉体を突き動かしていた。


「おまえ、ズルいぞっ!」


 それを追って、更にふたりが殺到。その場の秩序が一瞬にして崩壊した。


「きゃああっ!」


 だが、その三人が駆けつけるより早く、横手から迫った巨大な塊がセリーヌの体を上空へ攫っていた。ベルヴィッチアの本体から葉のように伸びた、捕食器官の仕業だ。


「冷静になれ。彼女をけがすことは許さない。そう言ったはずだが忘れたか?」


 仮面の男は苛立った口調で続ける。


「遊びはここまでだ。続きを望むのなら、今晩、街で気が済むまで楽しめ」


 野獣たちの溜め息が漏れ、先走った三人は仲間から強い叱責を受けている。


「もう充分だろう。ドミニク君」


「へい。異論はありやせん」


 明らかに落ち込んでいる賊の頭を余所よそに、仮面の男が俺を見て微笑んだ。


「君が選択を誤らなければ、こんなことにはならなかった。残念だ」


 その言葉で、こいつの次の行動に気付いてしまった。背筋へ悪寒が走る。

 必死に頭を振り、口を縛っていた布を払う。そのまま仮面の男を真っ向から睨み付けた。


「セリーヌは約束を守った。てめぇも守れ!」


「彼女が話をしたのはドミニク君だ。私ではない。忘れたか?」


「リュシアンさん、逃げてください!」


 遙か頭上から、セリーヌの悲痛な叫びが降る。

 あいつの危機に何もしてやれない。無力感だけがひたすらに広がってゆく。


「ふざけんな。やめてくれ!」


 セリーヌを咥えた捕食器官が、本体である巨大な口へ彼女を運んでゆく。


「やめろおぉぉぉ!」


 空中で放り出された体。まるで時間の流れが遅くなったように、真っ赤な口へ丸呑みにされる光景が展開されていた。


「ちくしょおぉぉぉっ!」


 守れなかった。何としても助けたいと思っていたはずなのに、どうにもならなかった。あの慈愛に満ちた笑顔を、もう二度と見ることができないなんて。


 賊の頭や仮面の男以上に、自分の無力さが憎くてたまらない。俺にもっと力があれば、あいつを失わずに済んだのに。


「安心したまえ。すぐに後を追うといい。今後はベルヴィッチアの血肉となって、私に尽くせ」


 誰の物か分からない下卑げびた笑いが、この狂った空間を支配していた。それを聞きながら、込み上げる怒りを抑えることで精一杯だった。


 神殿の脇へそびえた巨大な植物型魔獣。この魔獣も問題だが、これを操る仮面の男。こいつの正体も目的も判然としない。

 とその時、仮面の男へ並ぶドミニクと不意に視線が交わった。


「あんたたちの目的は金か? 貰う物さえ貰えれば、こんな危険な奴が野放しでもいいのか?」


「愚問だねぇ……金が全てさ。大金を落としてくれる相手がどこで何をしようと、俺たちには関係のないことなんだわ」


 手にした曲刀シミターを振り上げる。


「今は、あんたたちの方が危ないねぇ」


 振り抜いた右腕からそれが飛んだ。

 薄闇を切り裂くように、ある一点へ到達。呻き声と共に、何かが倒れる音が漏れた。


「お頭、どうしたんです?」


 不思議そうにしている手下どもを見ながら舌打ちが漏れた。こいつらはあざむけても、ドミニクには通用しなかった。


「きちんと見張っておくように言ったはずだろ? 後でお仕置きだわ」


「おい、おまえら! 甘えん坊剣士が逃げようとしてたぞ。どこ見てんだ!?」


 賊どもがセリーヌへ釘付けになった隙に、注意が薄いナルシスを籠まで走らせたのだが。


「武器を取り返そうとしたの? 浅はかだよねぇ」


 ベルヴィッチアの捕食器官がナルシスへ迫った。それを追うように、ドミニクが続く。


「そいつまで手に掛けるつもりか!?」


「俺は、部下を五人も殺された恨みがあるんだわ。わかってくれるよねぇ?」


 ナルシスの右太ももに刺さった曲刀を引き抜き、鮮血に染まった刃を向ける。


「本当なら、この手で八つ裂きにしてやりたいんだけどねぇ……魔獣のエサにしたいっていう、導師様の命令なんだわ」


 巨大な球体が、ナルシスを目掛けてじりじりと迫っていた。


 曲刀の傷による痺れはかなり緩和されたが、動くのは今じゃない。ここで仕掛けたとしても全てが無駄になる。じっと耐えるしかない。


「ラグ、出てきやがれ!」


 喉が裂けるほどに思いきり叫んだが、それに答える様子はない。最後の希望はラグだけだ。竜の力さえ使えれば逆転できる。


「どうしたの碧色の閃光様? ついに気が触れちゃったのかい?」


 ドミニクは不適に微笑んでいるが、その目は少しも油断していない。


「怖いねぇ……おまえら、あいつにはまだ隠し球がありそうだわ。洞窟の外と広間の周囲を警戒しろ。それから、あの女の服も籠にぶち込んでおけ」


 八人の下っ端は二手に分かれ、広間には四人が残された。そしてドミニクは、眼下で呻くナルシスを険しい瞳で見下ろしている。

 すると、手にした血塗れの刃であいつの上着を裂き、湿布の貼られた左肩を露出させた。


「止めを刺せないのが残念だわ。にえは鮮度が大事なんだと。遺言でも聞いてやろうと思ったが、このまま食われちまいな」


 おもむろに湿布を引き剥がし、傷跡を覗き込む。悪魔のように歪んだ笑みを浮かべた矢先、その傷跡へ自らの親指を滑り込ませた。


「んがぁぐぉうぅぅぅぅ!」


「ナルシス!」


 痛みに呻き、口を塞がれたままのナルシスは激しく身をよじる。想像を絶する苦痛を思い、顔をしかめてしまう。


 咄嗟に走り出そうとしたものの、背後から賊の一人に蹴倒されてしまった。そうして俺の耳には、ドミニクのせせら笑いが届いた。


「痛いか? そりゃあそうだろうねぇ。けどね、俺の怒りはこんなもんじゃないんだわ。おまえは俺の大事な家族を五人もあやめた。おまえを五回殺してやりたい気分だよねぇ!」


 傷口を掻き混ぜていた指を引き抜き、感情を押し殺した瞳でナルシスを見ている。


「さっさと食われちまいな。おまえの顔なんて二度と見たくないんだわ」


「くそっ、やめろ!」


 ベルヴィッチアの捕食器官が、再びナルシスへと迫っていく。


 決断の時が迫っている。正直、俺だけなら逃げ延びる自信がある。だがここで、あいつを連れて逃げるのは無謀としか言い様がない。


 見捨てるのか。見殺しにできるのか。この状況で、一番大事な物は何だ。


 答えは分かっている。俺だけでも生き延びて、こいつらの存在を知らせることだ。新たな犠牲を出さないために仲間を募り、確実に息の根を止めなければ。


「ナルシス……すまない……」


 俺の眼前で、捕食器官がナルシスの上半身をくわえ込んだ。そのまま、セリーヌと同じように本体の巨大な口へ運び込み、その体は簡単に丸呑みにされてしまった。


 きつく閉じた瞼の裏へ、セリーヌとナルシスの顔が浮かんでは消えてゆく。


「ドミニク……正々堂々、勝負しろ」


「ふはっ! 面白いねぇ……賊を相手に正々堂々? そんな騎士道精神を持ってりゃ、こんなことしてないっての」


 辺りを囲んだ手下から失笑が起こる。


「さて、最後はあんただけだ。何か言い残すことはあるかい?」


 曲刀を振り回し、鼻歌交じりに近付いて来るとはいい気なものだ。


「てめぇだけは許さねぇ」


 余りの怒りに全身が震える。身を起こし、立ち膝をついて奴を睨んだ。


「おぉ、怖い。勇ましいのは結構だが、恨む相手が違うんじゃないの? お仲間に止めを刺してるのは俺じゃないんだけどねぇ」


「誤魔化すんじゃねぇよ。あいつらを追い詰めたのは、全部てめぇだろうが」


「何とでも言いなよ。どうせもう終わりなんだわ。今夜の宴が楽しみだよねぇ」


 天井を仰ぎ、肩を揺らして笑う。


「そうそう。手下が、ヴァルネットの冒険者ギルドへあんたの情報を調べに行った時、可愛いを見つけたって言ってねぇ……シャルロット、とか言ったか?」


「は?」


 心臓が強く脈打つ。動揺を隠し切れない。


「あんたのことを嬉しそうに色々教えてくれたらしいよぉ。手下がすっかり気に入っちまって、攫ってこようかと思ってねぇ」


「街の人たちに手を出すな」


「女がひとり減ったところで大した騒ぎにならんでしょ。魔獣の襲撃に比べたらねぇ。たっぷり可愛がってやるから安心しなって。奴等もだいぶ溜まっちゃってるんだわ……」


 欲望にまみれた瞳が尚も怪しく光る。その姿に、全身を悪寒が駆け抜けた。


「しかもあんた、食堂で働いてるらしいねぇ。冒険者ってのも大変だ……店の名前、何だっけ? 思い出せないなぁ……」


いさましき牡鹿亭おじかていです!」


 背後の手下から咄嗟に声が上がった。それを受け、ドミニクが舌打ちを漏らす。


「おい、興を削ぐんじゃねぇ。そんなことはわかってんだよ」


 参った。こちらの情報は筒抜けということか。このままだと俺の大事な物が全て壊されてしまう。こんな奴等のせいで。


「あ〜ぁ。完全にシラけちまったわ……碧色の閃光様、そろそろお別れの時間だ。今夜の宴は、勇ましき牡鹿亭を貸し切り。シャルロットに酌をさせて、酒池肉林の大騒ぎだ」


 ドミニクは大きく伸びをして、俺に背を向けた。

 もう、狙うとすればここしかない。

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