第121話 晴れのち雨
雲ひとつない晴天だった。
初夏を思わせる爽やかな風が、アースシェイナ神の描かれた真っ白い帆を靡かせる。
スレイヤ城の水門が大きく開かれると、紫の龍の紋に太陽の光を受けた白い帆船が、観衆の前に威風堂々たる姿をゆっくりと現した。
七年に一度開催されるスレイヤ王国最大の催事、顕現祭の幕開けである。
スレイヤ王家に於いて最も魔力の高い姫が巫女となりアースシェイナ神に感謝を捧げる神事は、今回は第二王女のミレサリア=スレイヤ=ラインヴァイルトが栄えある巫女の任を賜っていた。
顕現祭の主会場となる運河沿いの大通りは、昨日の惨状などなかったかのように綺麗に修復されていた。
神に抗う者が企てた騒乱──。
三の鐘が鳴る頃にミレサリアが船上に姿を現し、そして四の鐘が鳴るまでにはすべての賊は拘束されることになった。
それも、偶然居合わせていたという四人の功績であることは誰の目から見ても明らかであった。
騒動に巻き込まれ負傷を追った者も、惨劇を目の当たりにして心労を抱えたものも、昨日のうちに皆回復していた。
王国唯一となる第一階級現代魔法師、ブレナントの聖女ことエミリアの献身的な奉仕の賜物である。
奇妙な術を遣う賊も、レイクホールから入都していたカイゼル=ホーク聖教騎士により討伐された。
さらに城内に潜んでいた賊も、元レイクホール聖教騎士総隊長イリノイ=ハーティスの、現役よりさらに強さを増したと思われる圧倒的な力によって瞬く間に無力化された。
無魔の黒禍は偽物であり、騒動を大きくするために神抗魔石が持ち込まれた、ということも、今回の首謀者である元近衛のタッカーからの聴取によってわかった。
が、騒乱の背景には組織的な闇が広がっており、すべてを詳らかにするにはまだ時間がかかりそうであった。
そして──
「──キョウ! 前へ!」
今、ミレサリア王女より感謝の言葉を受けるべく船室から姿を現した少年こそが、今回都に巻き起こった騒乱を、見事なまでに収束に導いた最たる功労者である。
船の甲板に設えられた壇上にずらりと並ぶ王家を筆頭に、名だたる貴族家の当主が参列していた。
当然その中にはヴァルトの名を冠した、王家を除く六家の当主の姿もあった。
「はい!」
トレヴァイユさんに名を呼ばれた僕は、近衛によって開けられた扉から甲板に出た。
太陽の光が一瞬目に入り、眉を寄せる。
吹き抜ける風は昨日とは打って変わって、都全体を祝福しているかのようだ。
ええと、返事をしたあとは、まっすぐ歩いて行って、段に上がって……
トレヴァイユさんから教わった通りに、前は向いても決して貴族の重鎮たち、特に王族の人たちとは目を合わさないように意識しながら船上を歩く。
父様も参加しているんだろうな……
ヴァルトはすべて都に集まっているっていうし……
はあ……やっぱり断ればよかったよ……
ただの商人ではないとばれてしまった僕は、騒動が収まった後、トレヴァイユさんに顔と顔がくっつくほど詰め寄られて説明を求められた。
しかしお師匠様が『この子に構うんじゃないよ!』とビシッと言ってくれたので、それ以上は誰も詮索してくることはなかった。
城に泊まった際、誰も部屋に訪ねてこなかったのは、お師匠様が上層部に通達を出してくれていたからなのかもしれない。
でも……今日、顕現祭の儀式が始まる前にミレサリア殿下から労いの言葉を受けることを了承させられてしまったのだ。
ミレサリア殿下たっての申し出というから渋々頷いたけど……
緊張して足が震えてるよ……
顕現祭はまだこの後に本番となる儀式を控えている。
僕なんかが粗相をして進行を妨げては貴族や近衛からだけではなく、見物客からも袋叩きにされてしまう……
そう本気で思っている僕はぎこちないながらも、必死で壇上に上がり──
「んあッ!?」
という、予想外のおかしな声を聞き、ついその声の方へ視線を向けてしまった。
と、そこには──
げぇッ!? モ、モーリス!? な、何でモーリスがッ!!
モーリスが、いや、”モーリス”ではなく、”クレイモーリス殿下”が席についていた。
髭も綺麗に剃り落とし、見た目だけは立派な王子だ。
出奔したって、嘘だったの……!?
さっきの声から察するに、モーリスはひと目で僕と気が付いたのだろう。
尻尾を踏んでしまったときの犬のような目をして僕のことを見ている。
いや、その顔はこっちの顔だよ……
走って行って話しかけたいが、この場でそんなんことしようものなら後ろに控えている近衛に斬って捨てられてしまう。
うう、我慢、我慢……
僕は飛び付きたい衝動をぐっと堪えると、パッ、と目を伏せて、壇上に立っているミレサリア殿下の下まで進む。
そして伏せる僕の視線の先にミレサリア殿下のつま先が見えたところで、片膝をついてしゃがむ。
この後は殿下から声がかけられるまでは決して顔をあげてはならない。
よし、ここまでは完璧……モーリス以外は……だな。
あとは、殿下から言葉を受け取り、船室に戻るだけだ。
そのあとは……昨日はみんなと城に泊まることになって帰れなかったから、コンスタンティンさんの館に戻ってロティさんの様子を聞いてみよう。
あ、あの屋台がまだあれば、ロティさんにパンを買っていってあげようかな。
ああそうだ、卵の成長具合も見に行かないといけないな。
緊張をほぐそうと、今後の予定をつらつらと並べ立てる。
ん? まだかな。
この体勢、結構きついんだけど……
だいぶ時間が経つが、一向に名を呼ばれない。
もしかして僕の名前をど忘れしてトレヴァイユさんに確認してるのかな……?
そう思い、ちら、と殿下のつま先を見るが、先ほどから少しも動いた形跡がない。
具合は問題ないと聞いたんだけどな……
王室専属の治癒師の診立てでは特に目立った外傷はなかったらしい。
薬かなにかで眠らされていただけのようだと聞いた。
いや、腰が痛い……
殿下! 早く用を済ませてしまって下さい!
ひしひしと感じる貴族からの視線も痛ければ、腰も痛い。
川に浮かぶ船なのに揺れないのは有り難いが、固い甲板についた膝も痛い。
どれも別に耐えられないわけではないが、緊張をほぐすために大袈裟にそう思っていると──
殿下が立っているつま先付近に、ぽたり、と水滴が落ちた。
あれ? あんなに晴れ渡っていたのに……?
雨……?
そして──
ぽたり、ぽたり、と殿下の足元が濡れる。
しかし他の箇所に雨が降っているような感じではない。
な、なんだ……?
不思議に思い顔を上げそうになるも、
まずいまずい、不敬罪で処罰されてしまう──とじっと堪える。
……。
…………。
……………………。
「──ぐすっ」
……。
あれ、殿下、どう、され、ま……した……か……?
さすがに無言のなかに鼻をすする音が聞こえてきたら気になる。
僕は堪え切れずにそーっと、そーっと顔をあげると……
頬から止めどなく涙を流すミレサリア殿下の顔が目に入った。
ミレサリア殿下……?
僕がなにかしてしまったのでしょうか……?
しかし──。
僕は話しかけることができない。
それはこの場で許されることではない。
平民である僕が、貴族と、ましてやその頂点に位置する王族に対して口を開いていいはずがない。
僕は殿下の涙を見てもなお、下を向き、殿下からの言葉を待った。
「ようやく……」
ここで初めて殿下が口を開いた。
が、トレヴァイユさんから受けていた説明とは違う言葉だった。
本来であればここで『キョウ、面をあげなさい』のはずだ。
「ようやくお会いできたというのに……」
え……?
やはり打ち合わせとはまったく違う言葉だ。
いざというときは臨機応変に、と言われてはいたが、これはその範疇を越えていた。
「……どうして……」
そして矢継ぎ早に言葉が発せられる。
「どうして目も合わせて頂けないのですか……」
「どうしてわたくしをお避けになるのですか……」
「私の心は、とうにラルクロア様とともにございますのに……」
──!!
な、なぜ! なぜ殿下が僕の名を!!
僕は堪らずに殿下を見上げてしまった。
罰なら後でいくらでも受ける。
でも今はそんなことよりも、殿下が僕の名を口にしたことと、殿下の涙の訳を知りたかった。
ミレサリア殿下と視線を交わす。普段であれば許されない行為だ。
しかし殿下は僕の視線をしっかと受け止め、
「──キョウ、貴方を本日付でわたくし専属の近衛に任命します」
そう言った。
ざわり、と船上の空気が変わる。
僕は驚いて声も出せなかった。
ミレサリア殿下にも僕がラルクロアだと気付かれたなんて、もしかしたら他にも気付いた貴族がいるのではないか、と、周囲を窺いたい衝動に駆られるも、ここが貴族の集まる場であることを思い返す。
そんな中、モーリスの視線を捉え、
──モーリス! どうすればいいんだ!
と懸命に訴える。
が、モーリスは僕と目が合うや否や立ち上がり、
助けてくれるの! モーリス!
「それはいい考えだ! リアのその提案には俺も賛成するぞ! キョウの身元は俺が責任を持って調べよう!」
いつもの、いや、いつも以上のしれっとした表情で言う。
くっ! それでも実兄か!
僕は声を大にして叫びたかった。
しかし視界の端に見えるミレサリア殿下は涙を流し、僕の言葉を待っている。
断ったところで貴族から誹りを受け、受諾したところで僕の行動は縛られてしまうだろう。
でも、そうであるのなら、殿下が僕を必要としてくれているのであれば、
「──承知いたしました、ミレサリア王女殿下の仰せのままに。しかし私は平民の身ゆえ、殿下のお傍に付き従うわけには参りません。ですので私は遠巻きながら、殿下を見守り、万が一にでも殿下の身に危機が迫る際には、風の如く馳せ参じ、その身をお守りいたしますことを、ここにお誓い申し上げます」
と、付きっ切りで傍にいるわけにはいかない旨を暗に伝え、殿下に判断をゆだねた。
参列する貴族が一斉にどよめく。
が、ミレサリア殿下は
「──許します」
はっきりとそう口にすると、王家との信頼の証となる紫の龍が施された勲章を僕の胸にあてがう。
そして──
ミレサリア殿下の柔らかい唇が、僕の額にそっと触れる。
貴族たちはいっそうざわつくが、両岸の見物客からは拍手喝采が湧きおこる。
僕は見物客から送られた、予想外の歓喜の声援とともに殿下の想いを受け取ると、
「──光栄に存じます」
恭しく
「──ラルクロア様、これから先、決して私はあなたを手放したりはいたしません……」
僕は驚いて顔をあげると、とても僕と同じ七歳とは思えないほど艶やかな表情を見せているミレサリア殿下と目があった。
そんな殿下の青い瞳は『覚悟して下さいね』と言っているように、僕には思えた。
幼少編 第四章 青の都 完
お読みいただき、ありがとうございます。
閑話を数話挟んで青年編の開始となります。
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