第56話 時が止まったような世界


 右も左も、上も下もわからない光だけの世界に、女性の「逃げて」という叫び声が木霊する。

 何度も何度も繰り返し叫ばれるその声は、激しい雨にかき消されることなく僕の耳まで届き、なにも見えなくとも確かにここが試練の森であり、そして今まさに命の危機にあるということを痛感させられる。

 

 やがて悲壮な叫びも聞こえなくなり、光の世界を静寂が支配する。

 そして呼吸三つほどの間の後、光が収まり始め視界が利くようになり──


「──!!」


 僕は目の前に広がる光景に絶句した。


 時が、世界が、今振るわれようとしていた暴力が、目にするもの全てがこの世のことわりに逆らい、動きを止めていたのだ──。


 人鬼オーガの湯気が立つ筋肉も、

 風に煽られる木々のざわめきも、

 そして礫のように振り注いでいた雨でさえも──。


 いや、違う。停止とまってはいない。


 人鬼オーガも木々も生命活動を放棄したように動きを止めているが、そんな筆舌に尽くしがたい光景の中──宙に停止とまっていると思っていた雨粒が、一斉にパラパラと音を立てて地に落下し始めた。

 雨粒全てが氷の粒となり、光の余韻を受けてキラキラと輝きながら一帯に振り注ぐ。

 そのことにハッと我に返り、


「あの人たちは!」


 襲われていた人たちがどうなったか確認する。


 すると──


 目と口を大きく開き、驚きの表情を張りつけたまま動きを止めている女の人と視線が重なった。


 まさかあの人達も人鬼オーガといっしょくたにやっつけちゃったのか!?


「な、なんだ!! どうしたってんだっ!! なにがあったんだっ!!」


 急いで駆け付けようとしたとき、僕に背を向けていた人が大声を上げた。

 その声が切っ掛けとなったのか女の人も僅かに身体を動かす。


 よかった! 生きてた!


 どうやら女の人は恐怖のあまり固まってしまっていたようだ。

 ふたりの無事を確認した僕は、とりあえず心を落ち着けようとその場で深呼吸をする。


「すぅー、はぁー、すぅー、はぁー」


 全力疾走した直後のように早かった鼓動が徐々にペースを取り戻していく。

 そして何が起こったのか思考できるまでに回復すると、改めて周りを見渡した。


 目の前にいる二体の人鬼オーガは精巧な作り物のようにピクリとも動かない。

 周囲の木々は深い緑から真っ白に塗り替えられ、厳冬の景色そのものになっている。

 見た目だけでなく実際に一帯の気温も下がっているようだ。冷静さを取り戻すにつれて濡れた身体が寒さに震えていることに気が付く。


 そこまで確認した次の瞬間、思い出したように、ざあぁ、と激しい雨が降り出し、再び地面を打ち始めた。


 そして少し前と変わらない景色が再開される。


 いったいどういった現象だったのだろうか。


「精霊……近くにいる……?」


「──精霊? 聞こえてる?」


「おーい、精霊?」


 さっきの声の主は精霊だったのか確認しようと、ぐるっと辺りを見回すが返事もなければ光の珠のひとつも見当たらない。

 

「う~ん、なんだったんだろう」


 僕の不思議な力が目覚めたんだろうか。そうだとしたら魔法を諦めていた僕にとってはこの上なく嬉しいことだ。


 理解できないことが多過ぎるが、とにかく助かったのだと、もう一度人鬼オーガの姿に眼をやる。


 雨に濡れても動き出す様子はない。

 が、躍動感に満ちた盛り上がる筋肉や今にも襲いかかってきそうな鋭い眼光に恐れをなして、僕は杳として近寄ることができなかった。


 死んでるのかな……これ……


 以前盗賊に襲われたとき、気を失う直前に見た光景と同じなんだろうか。

 

 僕は適当な石を拾うと手前の人鬼オーガ目掛けて投げつけてみた。

 放物線を描いた石が人鬼オーガの身体に命中する。

 すると、カーン、という澄んだ音が雨音に混ざって聞こえてきた。


 硬い物に当たった音だ。おそらく人鬼オーガも木々と同じように凍っているのだろう。

 だとすると雨が降り続けて溶けてしまえば動き出すかもしれない。


 はやくここから遠くへ逃げないと。


 そのことを向こうのふたりに大声で伝えて僕も早く立ち去ろう──と、大きく息を吸い込んでふたりに向かって忠告しようとしたとき


──カキーンッ!!


 という甲高い音が聞こえてきた。

 反射的に音のした方へ目を向けると、


「やめてッ! スコットッ!!」


 続いて女の人の叫ぶ声が聞こえてくる。

 見るともうひとりの方、男の人が動きを止めた人鬼オーガの角を折ろうとしているのか頭部に向かって剣を振るっていた。

 男の人が女の人に向かって何か言っているようだが雨音が邪魔をしてここまでは聞こえてこない。

 女の人は男の人の腕にしがみついてそれをやめさせようとしている。

 

 見たところあの二人は冒険者なのだろう。

 で、あの人鬼オーガの角を組合ギルドに持っていって、討伐報酬を貰おうとしている、いったところか。

 まあ、魔力吸収能力持ちアブソーブだ。

 素材としても相当な高値で買い取ってくれるのだろう。


 だとしたら


「面倒なことに巻き込まれても厄介だ……」


 これ以上はあの人たちの自己責任ってことにしよう。

 咄嗟のことで割って入ってしまったけど、冒険者としての行動を優先させている人たちに僕が口を挟むこともない。


 ふたりが言い争っているうちにこの場を離れよう、と反転しようとした僕の視界に地に倒れている数人の人の姿が目に入った。


「──!!」


 僕が声を上げるよりも早く、男の人を止めることが困難と見たのか、女の人が倒れている人に駆け寄る。


「他にも人がいたのか!」


 ひとり、またひとりと名を叫びながら身体を揺すっているがおそらく全員が事切れているのだろう。

 だんだんと名を呼ぶ声が弱々しくなっている。


「気の毒だけど……」


 これ以上首を突っ込みたくないという思いもあって、僕はこの場を後にしようとふたりに背中を向けた。

 あの男の人はこっちの人鬼オーガの角も取りに来るだろう。

 そのときに見つかって根掘り葉掘り聞かれても困る。

 

 あ、でも食べ物を持っていたら少し分けてもらえるかな……?


 いやいや、止めておこう。

 冒険者ってのは自分の利になると思ったら女でもガキでも利用するから気をつけろ、とはモーリスの言葉だ。

 僕の力がばれてどこかに売り飛ばされたり、扱き使われたりしたら堪らない。


「早いとこ先を急ごう」


 嫌な予感がした僕は逃げるようにその場から離れた。




 

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