第43話 生きている証
「ラルクはッ! ラルクはどうなのッ! ノイ婆ッ!!」
ハーティス家にミスティアの切羽詰まった叫びが響き渡る。
「これ、ティア、そんなに騒ぐんでないよ」
「し、死なないわよね! 元気になるのよね!」
「魔力枯渇に似た症状だからね、こうしてしばらく安静にしていればそのうち目を覚ますだろうさ」
それを聞いてミスティアは脱力した。
へなへなとラルクの枕元に座りこむ。
誰よりも……己よりも信頼する祖母の見立てに間違いはない、もう安心だ──そう確信したミスティアはここで力尽き、ラルクの隣で寝息を立て始めた。
泥のように眠るミスティアとラルクを見るイリノイの瞳は慈愛に満ちていながらもその実、芯には色濃く怒りの色を浮かべていた。
ミスティアは馬を駆り、大急ぎでハーティス家の屋敷に戻ってきた。
途中、街の門で愛馬を見つけるとすぐさまそれに乗り換え、出動の準備をしていた衛兵たちへの説明もせずに一心不乱に馬を駆った。
自分の脇腹の傷もそこそこに全治癒魔法をラルクへ行使し、さらにラルクの身体を温めながらの疾走はなかなかに技術を要とする。
しかしミスティアは自らの痛みに耐え、ラルクを無事屋敷へと連れ帰ることができた。
ミスティアはすぐさま湯浴み場へと向かうと目を瞠るイリノイを横目に身に纏った布を脱ぎ捨て、ラルクと共に湯に浸かった。
あれほどラルクのことを疎ましげに扱っていたミスティアが何故に肌を重ねているのか、イリノイは多くは聞かない。
ただひと言『湯から上がったらその傷と童を診てやる』とだけ残すと湯浴み場を後にした。
ミスティアにはそれが嬉しかった。
今夜の急襲を往なせなかったのは明らかに自分の実力不足だ。
ハーティス家の名を継ぐものとして強者であれ──そう育てられたミスティアは誰の前でも胸を張り続けていた。
しかし、過去一度だけ、現序列一位の騎士と武技を競ったときに受けた敗者の烙印をイリノイは黙認してくれた。
あの日のように、今もイリノイはとっておきの茶葉で熱い紅茶を淹れてくれているのだろう。
その祖母の想いがミスティアの冷え切った心をじわりと温める。
負けてなお、ハーティス家に名を連ねることを許されたような気がして──。
しかし今回は負けを喫したであろうことよりも、ミスティアの頬を伝う涙がイリノイの心を打ったのかもしれない。
酷い怪我を負い、涙を流しながらも必死に少年を抱え、屋敷に戻ってきたミスティアの姿に。
序列争いに敗れた時でさえ見せなかった、愛して止まないミスティアの涙を見たイリノイの心中はいかばかりか──。
そしてこの日を境にハーティス家当主、イリノイ=ハーティスはレイクホールの表舞台から一切姿を消すことになる。
◆
レイクホールに一の鐘が鳴り響くと住人は一日の始まりとして行動を開始する。
水を汲みに行く者、自宅の前を履き掃除をする者、鍛錬を行う者。
人口こそ少ないが、レイクホールの街が俄かに活気付いて行く見慣れた光景だ。
「……ん…………」
普段であれば一の鐘が鳴り終わる前に、というより鳴り始める時分には起き出して身支度を整えているミスティアだったが、今日ばかりはそうはいかなかった。
なにせ三アワルほど前には死線を彷徨い、二アワル前に這々の体で屋敷に戻ってきたばかりだ。
一の鐘を布団の中で聞くなど数年ぶりのことであった。
「──んん……」
いつものように躰を大きく仰け反って伸びをするが
「うっ!」脇腹の痛みに顔を顰める。
咄嗟に引き戻した腕が何かにぶつかり──
「きゃ!」
隣を確認したミスティアは小さく悲鳴をあげた。
「あ、」
ミスティアはいつの間にか眠ってしまったようだ、と、この状況を理解する。
しかしなぜかラルクとひとつの布団で寝ている。
無意識のうちに潜り込んでしまったのか──。
ミスティアも騎士としての教育を受けてきている。
野営では男と床を隣にするなど、どうということはない。だか、それも四年前、十三歳までのことだ。
十四歳になり、序列二位になると宿舎もひとり部屋、野営でもひとり用の天幕が用意されるようになり、それ以降は常にひとりでの目覚めだった。
目が覚めたときにすぐ隣に誰かがいてくれる──早くから宿舎生活を送ってきたミスティアにとっては、とても新鮮だった。
しかし七歳とはいえ男だ。しかも知り合ったその晩に同衾するなど許されるのか──女としてのミスティアの心に呵責の念がふつふつと湧き上がる。が、そんなことはどうでも良かった。
この少年に命を救われたのだ。
そのことを実感すると背徳感などどこかへ吹き飛んでしまう。
それにこの部屋で起きているのは自分だけしかいない。
だから自分の気持ちにさえ向き合って、それが正しいと判断できるのであれば、ひとつの布団で寝たことなど些細なこと──。
そんな素直な気持ちを持てるのも、死の淵からギリギリのところで戻ることができたゆえのことなのか。
私が生きていることを実感したい──。
そう思ったミスティアの白く細い指が、自然とラルクの長い睫毛に向かい、そっと撫でた。
ラルクは目を覚ます素振りもない。
ミスティアの指がラルクの耳を撫でる。
そして布団をまくり、腕を触る。
数アワル前、死を待つばかりだった自分を抱え上げ、凍て付く刃から救ってくれた腕──。
ミスティアの指がラルクの唇にそっと触れる。
絶望に陥っていた自分の名を呼び、目を覚ましてくれた声──。
『もう心配いりません』
今もミスティアの耳から離れないあの力強い声が発せられた唇を撫で──
あの安心感はなんだったのだろう、とミスティアはラルクの胸に自分の頭を乗せる。
か弱いが確かに聞こえてくるラルクの鼓動に、ミスティアの頬を涙が伝う。
なぜ涙が出るのかなどわからなかった。わかる必要などなかった。
ただ、こうして脈打つラルクの鼓動を聞き、自分も生きている、ラルクも生きている、そう実感できる、それだけが今の全てだった。
ミスティアは顔を上げ、まじまじと寝ているラルクの顔を見つめる。
朝陽を浴びて輝く金髪の髪に白い肌、ラルクの顔立ちはよく見ると恐ろしいくらいに整っていた。
まだこんなに幼いにもかかわらず、遠い地からひとりで旅を続けてきたと言っていた。
思えば出会ってからというもの、酷いことを言ってきてしまったような気がする。
ミスティアは自責の念に駆られ心の中でラルクに謝罪をした。
ラルクの両頬をミスティアの手が包み、親指がラルクの小さな唇に触れると──
ミスティアは瞳を閉じた。
そして吸い寄せられるように自らの唇をラルクの唇に近付け──
「……なにしているんだい? ティア」
「──ひゃん!!」
「……」
「ち、違うの! これは違うの! わ、私の魔力を分けてあげようと──」
「そんなんで分けられるわけないだろう、ほら、ティアに伝報矢がきているよ」
「あ、ありがとう! す、すぐ行く!」
ミスティアは慌てて起き上がると、髪と衣服を直して食堂へ急いだ。
その部屋の隅に小さな光の珠が浮かんでいたことに、最後まで気が付くことなく──。
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