新歌集より 別れの時
カレーという奇妙な茶色いものを難しい顔で食べた翌日、ヨシュアは旅に出ることにしました。
朝、鳥の姿もまばらな時間、狭い庭を見渡してヨシュアは視線を頭上に映しました。ほぼ透明になった巨大な竜が八つの目でヨシュアを見ています。
--妖精の国ともお別れか、存外悪くはなかった。茶色い食べ物以外は。
--別れの挨拶の時間はある。
竜は言いましたが、ヨシュアは何か言おうとして、言うのをやめて首を横に振りました。
--あの男に通訳をして貰うのも癪に障る。
黒い池に向かって脚を踏み出そうとすると、美咲がカーディガンを羽織って縁側に立ちました。灰色猫のマオを抱いて何事かをヨシュアに喋っています。
竜の八つの目のうち、七つまでが閉じました。
--どこかに行くの?
次の瞬間、ヨシュアは頭の中に美咲の声が再生されることに気づきました。
--竜め。
--竜?
ヨシュアの言葉も、美咲に伝わっているようでした。まったく竜というのは邪悪な生き物で、最後の最後になって、美咲と話せるようになったのでした。
--私を追放させたいのか、それとも邪魔したいのか……
--追放って何? なんで言葉が通じるの?
ヨシュアは美咲を青い目で見て、その姿をまぶたの裏に鮮やかに写し取りました。
--そなたは気にしないでいいのだ。妖精の国の巫女よ。約束は結ばれ、この地は平穏になる。代わりに私はこの地を離れる。
--えー! せっかく言葉通じるようになったのに?
--それは私も思うが、もう時間がない。世話になった。
ヨシュアはそう言うと、指輪を外して美咲に渡しました。
--身代金に使うものだ。私にはついぞ必要なかったが。売ればいかほどかの金にはなろう。さらばだ。神のご加護あることを。
--まって、待って!
美咲はヨシュアの腕を取ると、そのまま数歩引きずられました。顔を真っ赤にして美咲が抵抗するので、ヨシュアはため息をついて脚を止めました。
--待って。
美咲は荒い息で言うと、灰色猫のマオをヨシュアに押しつけて、走って家に戻りました。数分でコンビニ袋に色々つめて、それとお父さんのジャンパーを持ってきてヨシュアに押しつけました。
--旅に行くなら、色々持って行かなきゃ。
ヨシュアは色々の中に茶色の食べ物があるのに気づいて僅かに顔をしかめましたが、美咲は気づきませんでした。カレーが嫌いな人などいない、というのが美咲の国の常識なのでした。
--あと、えと。そうだ、猫。遠くに行くなら猫を探してきて。黒猫で、コンラッドという名前なの。
ヨシュアは言葉が通じれば美咲の事も少しは分かるだろうと思っていましたが、まったくそんなことはありませんでした。ヨシュアの想像の斜め上を美咲の思考は全力疾走していました。
美咲は何を言おうか迷った顔の後、ヨシュアの服の袖を引きました。
--猫を連れて戻ってきて。
--いや、私は……
追放される、二度とここには戻らぬと言おうとして、言えませんでした。美咲の顔を見てしまったからです。それで、嘘になると思っていながら、頷いてしまいました。
美咲の手が、離れました。
竜が笑っているのを邪悪な竜めとにらみ、ヨシュアはそのまま黒い池の中に脚に踏み入れました。
そこに映っていた顔は、黒い水の割に、醜くはありませんでした。
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