アビーの結婚

 娘は一人、軽やかな足取りで芝生の上を走りました。いつも通り斜面に座り込んで、心は空に飛んでいる彼に話しかけるためです。


--カズヒサー。起きてー。


 カズヒサと呼ばれた青年は。膝を抱いて空を見上げていました。いつもの通り。


--起きてるし、そもそも寝てないよ。

--また夢想してたんでしょ? それより今日は研究所も休みなんでしょ、帰って餡蜜食べに行こうよ。

--うん。研究できないのが残念だよ。今日はとってもいい話だったのに。

--ああー、教授の話?

--うん。いい話だった。すぐにもロケットエンジンを改良したいよ。もう少しで

--まあ、それはいいから、立って、歩く。右足、左足、ほんと私がいないとダメなんだからこの修士さま。

--アビーも大学入ればいいのに。

--銀髪に入れる大学なんかないわよ。

--うちは大丈夫だよ。空や飛行機好きなら正直、髪の色なんて多分誰も気にしないね。

--カズヒサと同類と。世話するのは一人で十分、遠慮しとくわ。


 アビーとしては割と正面からの愛の告白でしたが、カズヒサはこれっぽっちも、そのありがたさが分かってないようでした。アビーはため息。まあ、これくらいでへこたれていたら片思い歴一二年とはならないものです。それでカズヒサの背を押して、餡蜜屋を目指しました。

 餡蜜屋でもカズヒサは空の話ばかり、はいはいと適当に頷いていたせいで、不意に会話の爆弾が紛れていたことに、彼女はすぐに反応できませんでした。


--え?

--だから、明日からニューヨナゴの空軍研究施設にいくんだよ。

 お隣さんで生まれてこっち、これまで三日と離れたことがなかったので、アビーは足先から血が抜けるような感じを覚えました。


--ニューヨナゴって別の大陸じゃない!

--そうだね。

 銀の匙が落ちました。自分の声が震えるのを自覚しながら、アビーはいつ帰るのと尋ねました。

--いつだろうね。まあ、でも今年中にはどうにかしたい。実は、教授がね、来年退官するんだよ。だからそれまでに彼の夢をかなえたいんだ。

--な、なんでそんなことするの?

--いや、だから説明したよね。

 カズヒサは頭を掻いた後、背筋を伸ばして口を開きました。

--前から思っていたんだけど、アビー、君は僕に依存し過ぎていると思う。少しは距離を置いて適正な……

 カズヒサは皆まで言えませんでした。匙から皿から餡蜜からテーブルまでアビーがカズヒサに投げつけ始めたからです。その目には涙が光っていました。

--依存って何よ、生まれてずっと一緒だったのよ! 翼の片方、私の半分が割れるのを苦しんで何がおかしいの!? 猫だってもう少しは薄情じゃないわよ! 

 それでアビーは財布までカズヒサに投げつけると、走って家に帰って自室で泣きじゃくりました。夜になってもカズヒサが家に来ないので、それでまた泣きました。

 泣いた後荷造りして、港に向かいました。


--来ちゃった。

 そう告げると、よそ行きの格好をしたカズヒサは、がっかりしたような、ほっとしたような顔をしました。

--君は本当に僕の言うことを聞かないな。

 カズヒサはそう言った後、手を広げました。


 それでどうなったかといえば、カズヒサとアビーは結婚しました。前途の問題をカズヒサは色々言いましたが、アビーは無視し、ああ、カズヒサが言うのは本当かもしれないなと、今更理解しました。変更するつもりはこれっぽっちもありませんでしたが。


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