怒り
図書室から下りてきたような階段はなく、天井の、蓋となっている部分を開けると、床から出られる仕様のようだった。
誰もいないと見て、出て、出入り口となる蓋を静かに閉める。
「シルビアの部屋の位置は一番上の階の奥だ。いるとするなら、そのままその部屋だろう」
地下から出てきたように、ここは一階部分。
目的地は、ここに来てまだ遠い。むしろここからが一番難しく、最も遠い気持ちにさせられる。
「出来れば被害は最小限にしたい。少なくとも召使いは殺さず気絶させるくらいで充分だろう。兄達には、そんな余裕はないかもしれないが……」
話すのは、そこまで。
ここからは音は極力立てずに進む。壁伝いに行き、曲がり角があると、足音がなくとも止まり慎重に先を確認する。
召使いに遭遇した場合は速やかに意識を奪い、事が済ませられるまでどこかで休んでおいてもらう。ヴィンスの兄弟の誰かでも、極力不意を突き、意識を奪えるなら最善だ。
とにかく、出会いそうな人間はことごとく大人しくしてもらいながら進む。
それはそうと、この離宮、見るからに広そうではあったが、中の構造がややこしい印象を受ける。時折角の角度がおかしく、そのせいか廊下が建物に対して真っ直ぐではなく斜めになっているのではないかと思うことがある。
そして運が良いのか単に人が少ないのか一階だからか。誰と鉢合わせするどころか、足音、話し声、微かな音すら──。
初めて、この建物で、自分たち以外の立てる音を捉えた。同時に、気配も。
アルバートが瞬時に止まると、ヴィンスも分かったようで立ち止まる。
誰かがいる。
だが現在姿が見えていないことからして、当然同じ通路ではない。
二歩ほどいけば合流する筋でもなく、その廊下を右に行った突き当たりの筋の廊下か。
足音がする。一つ。一人、だ。
アルバートは、ヴィンスに視線をやり、問う。やるか?だ。
ヴィンスは微かに首を振った。「出口」と、口が動く。
なるほど。足音が向かう方には出入口がある方らしい。それなら、出るのを待った方が余計な手間にはならない。
足音は、壁越しにアルバートとヴィンスのいる方向から、離れて行く方へ進んでいる。
「……兄上は抜け駆けするつもりだな」
声は、微かなれども言葉まで聞こえてきた。
ヴィンスが、声に反応した。アルバートが見ると、彼はゆっくりと口を動かす。
「兄だ」
声にはせず、言った。
ゆえに、声が聞こえたわけではないだろう。まさか、口を動かした音がするわけでもない。
「──誰だ」
姿の見えない男の声が、はっきりと問うてきた。
足音が消えた。立ち止まったか。
アルバートもヴィンスもすでに一切の動きを止めているため、さらに気を付けることなどもうない。そのまま、離れた場所の様子を探る。
アルバートもヴィンスも返事をするはずもないので、問いに答える者がいるとすれば、偶然にも他に誰かがいた場合。それならば自分達が気がつかれたのではないとなるが……。
返事は、なかった。
完全なる沈黙が続くばかりで、足音もまだ戻らない。──否、何か声が聞こえ、極限にまで消された足音が、微かに忍び寄っている。
途端、アルバートは戦闘体勢に入ろうとしたが、とん、と胸を叩いた手があった。
「……アルバート、ここにいてくれ」
ヴィンスが、アルバートの方は見ずにそう言い、どこからか取り出した短剣を手に飛び出して行った。
直後、高く、粉々に砕け散る音がした。
角を曲がった先に向かっていったヴィンスがわずかに後退し、姿がぎりぎり見えるようになる。
その男は、自分の勘を流すことなく、静かに忍び寄ってきていたのだ。
ヴィンスが兄だと言ったからには、兄。
遭遇する可能性は十分にあったとはいえ、避けられれば良いに越したことはない存在だ。シルビアの奪還において、強力な敵。
ヴィンスは一人でやるつもりか。
共犯者の存在は隠せた方が有利だろうが……。
アルバートはいつでも剣を出せるように神経を尖らせたまま、様子を窺うことにした。
「お前、どうしてここにいる?」
一体、戦場で見た三人の兄弟の内の誰か、アルバートにはさっぱり分からない。
「確か、戦場にいるはずだが」
「……」
ヴィンスは何も答えなかった。ここで何のでまかせを言おうと、効果がないと思っているのだろう。
「第一、ここへの出入は禁止しているはずだ。……お前」
この建物にヴィンスがいる時点で、一段と低くなった声が、不穏さを増した。
「また同じ罪を犯すつもりか」
ヴィンスは黙っていた。
「記憶が戻ったか、そもそもやはり知らないなど嘘だったか。──ヴィンス、同じ事を犯させはしないぞ。ちょうど重罪人は死んでおくべきだと思っていたところだ、女神が帰って来た今こそ誰より先にまずお前は消しておこう」
兄弟であっても、これほどまでに殺伐とするものなのだ。
彼らが普通の兄弟かと言えば、他人なのにアルバートは自信がないが。
一人の存在を通しての認識が違いすぎて、それによりヴィンスは拷問まで受け、目を奪われている。
そのヴィンスは、殺気と殺意を向けられ、ようやく声を発した。「兄上」と。静かで、殺意を向けられている人間の状況には合わない、普通の呼びかけだった。
「兄上の予想の通り、私は彼女をここから出すために戻ってきた。彼女はここにいてはいけない。兄上達がいる限り」
ヴィンスがほぼ口の中で、何か唱えると、手の中で白い光が弾けた。
バチバチと光が何か形を作ろうとしては、崩れ、明確な形に定まらない。
剣を作ろうとしたが、『誓い』が邪魔をしているのか。
先ほどの短剣は、一瞬のしのぎ。
ヴィンスは破れると言ったが、本当に大丈夫か。
アルバートは臨戦体勢を強める。自分が出た方がいいかもしれない状況が、いつ作られるか。
「だからお前は殺すべきだった。祖父と同じように愚かな考え方をする哀れな者だ」
神通力の剣を作れないヴィンスに対し、男は嘲笑混じりの酷薄な声で言った。
おそらく、あちらは神通力の剣を出している。明らかな力を感じ、短剣が鞘ごと容易に砕けたのはそのためだ。
「ここにいてはいけないだと? それならどこにいるべきだ。ここ以外にいるべき場所などない。あの女神はこの地に、私達の国に生まれた」
「それなら、せめて人並みの生活を与えてやるべきだった」
今度は、ヴィンスは間髪入れずに言い返した。
「部屋に閉じ込め、出たとしても部屋の外。兄上、彼女は『女神』である以前に私達の妹だ。王族として受ける教育どころか、何も教えず、彼女が話すことも知らないと気がついていたか?」
「ヴィンス、お前はおかしなことしか言わないな。なぜ人並みの、『人』と同じ生活を与えると言う。何を教える、なぜ話す必要がある場面を与える。彼女は『女神』だ。人間と同じだと考えるなどと、不遜にもほどがあるぞ」
──これが、本当に「ずれ」で済ませられる話だとは思えない。ずれでも、亀裂でも済まないほどの認識の差がある。
戦場で覚えた怒りは、これまで感じたことのない強さだと感じていたが、今、それを一瞬で凌駕する怒りが生じた。
こいつは、駄目だ。
「ヴィンス、愚かで仕方のない『弟』よ。選べ。ここで殺されるか、戦場に戻りそこで死にたいか。そこに跪け、お前の答え次第で追加する『誓い』を決めてやる」
『誓い』がある限り、物理的に刃向かえないヴィンスをどこまでも侮る声と、言葉。
「……兄上、残念ながら、私はその命令を断らなければならない」
「……何?」
「今さら思考が共有出来るとは思っていなかったが、再確認する時間になってしまっただけだった」
一際大きな音がし、ヴィンスの手の中の光が大きく暴れた。
「女神、女神、女神」
一声一声が、聞くからに刺々しかった。そして、冷え冷えとしていた。
今、ヴィンスを正面から見れば、隻眼の水色は氷のような印象を受けるのかもしれない。
──あの友が怒っていると、肌で感じた。怒っているところを目撃するのは初めてだとも、同時に知った。
先ほど怒りを覚えたのは、どうやら自分だけではなかったようだ。
怒りが満ちる声と雰囲気を辺りに撒き散らす男は、止まらない。
「女神と呼び崇めているようで、単に人間として見ていないだけだろう。天から墜ちた女神を捕らえ、その力を手中に収めた気になっている。あなたたちが欲しいのは力であり、彼女ではない。彼女を力として見ている。──利用する『もの』として見ている」
どうも、ヴィンスの怒りが限界まで達するとこのような様子になるらしい。
単なる怒りとは済ませられない雰囲気。限界値を越し、際限なく溢れ、大きくなっていくばかりの怒りだ。
「彼女を、兄上達の思うような人形にはさせない」
「……ヴィンス、調子に乗りすぎるのは止めておけよ。二度目はない」
「なくて結構だ。兄上こそ、今私の前で『調子に乗りすぎる』のは止めた方がいい」
「──」
「『誓い』が少しでも私を制限するから大丈夫だとでも思っているか。残念だが、もういつでも破ることが出来る。今の私に力を使わず、逆らわない選択肢はない。今、私の手の中には失うものはない。取り戻すだけだ。覚悟は決めた。私はあなたに
バキン、と、何かが弾けたのか、壊れたのか、そんな音がした。
「『我が剣よ、ベルギウス神の信仰の元に顕現せよ。──そして、力を』」
ヴィンスの手に、形を定めた白い剣が出現した。
『誓い』が破れた。
「私は妹に誓う。立ちはだかる敵全てを排除し、ここから再び出す」
「ヴィンス──お前!!」
音が鳴った。綺麗な音と、不快な音が混じり、むしろ不快な音が大きい。
大きく鳴る音は止んだが、次は軋むような音が聞こえてきて──砕けた。
どちらかの力が圧倒的に相手を上回り、刃が砕けた。
どちらが、とは思いながらも、無意識には分かっていた。今の様子のヴィンスが負けるはずがない。
案の定、顔を出して見ると、ヴィンスの手には神剣があり、それを真っ直ぐ前につきつけている。
「兄弟だから、さすがに殺すには躊躇いがある。誓いを行ってもらえれば、命は助けられるのだが」
「助け、だと? お前に助けられる筋合いはない。我が王家の恥さらしが……!」
「──恥さらしで結構」
肉を断つ音がわずかに、鈍く。
男が崩れ落ちる。
「ヴィンス」
動く気配がないと感じ、出ていくと、ヴィンスが少しだけ振り向く。
「生け捕りにする危険性は様々な理由からして大きい。……だが、こんなものでも兄だったようだ。いざこのようなことになると、存外妙な心地を抱くものだな」
ヴィンスは一時は拷問を受け、たった今も躊躇いのない殺意を受けていた。あちらからヴィンスがまともに兄弟だと思われていたかどうかは怪しい。
それでも兄弟だった。そして兄弟でも、今や排除しなければならない対象になった。
「残り二人、父を合わせれば三人だ。父は城の方にいる可能性が高い。『誓い』は一人ずつと繋がっているから、会うたびにやると思うと面倒だが、コツは掴めた」
ヴィンスの手は、顕現している剣をしっかり握っている。目は、兄から、前方に移された。前を見据える。
「音がかなり響いたから、人が気がついた可能性があるな。私がいると分かれば、知らせがいき、妨げが多くなるばかりだ。アルバート、今から少し別行動だ」
「……自分から進んで囮になるようなことはするなよ」
あえて自分の場所に敵を集め、注目を引き付けるような真似は。
「分かっている。君こそ、私がいなくとも怪しまれないような行動が出来るだろうな」
余計なお世話だ。
「折角嫌々その制服を着ているんだ。上手く利用し、演じるといい。兄への使者でも演じれば、私より余程自由に歩き回れるだろう。……ただし、兄達と対峙することになったときは気を付けろ。そこは私より不自由になるからな」
「分かってる」
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