昔と今
ゆらゆらと、目の前を白い
いつ、再度意識があると自覚したのか。自分でも分からなかった。
どこかに横たわっている。無意識下では、ずっと揺れていたような気がしたのだけれど、今揺れは一切ない。
頬に、滑らかな感触がある。
ここは……。
「──終えたか」
「神剣はどうした?」
「壊せるものではないから、とりあえずは保管庫の一つに仕舞わせたよ」
「怪我の手当てはしてしまったのだったか」
「腹部の怪我は塞いだ。腕は塞いではいない」
「血を採取しなければならないからな」
声が、三種類聞こえた。
とある部屋にいた頃、よく耳にした。いや、ほとんどを占めていた声たちだった。
『彼ら』の。
頭が声を判別すると、視界に薄くかかっている白の向こうに、人影が三つ見えた。記憶の無意識に刻まれている姿だ。
──ああ、そうだった。
どこで、何が起こったのか。なぜ彼らがいるのか、思い出した。
戦場でのこと。
目じりから、つ、と何かが流れ、肌の上を伝っていった。
シルビアの瞳から、透明な雫が生まれては流れ落ちていく。
哀しくて堪らなかった。哀しさが身体中を満たしているはずなのに、胸の辺りに虚しさがぽっかりと穴を空けていた。
確かに兄を見た。あれは間違いなく兄だった。兄に刺された。シルビアだと分からなかったのだろうか。分からない。
あったことはあったことに違いはなく、頭と目に刻み込まれている。
理由が分からない以前に、シルビアには理由を考えられる余地がなかった。あるのは、起きたことによる衝撃。絶望。空虚。
「起きたか」
微動だにせず、泣くにも音がないシルビアが目を覚ましたと、三名の内一名が気がついた。
近くで話していたその人物は、会話を放り出して近づいてきた。遠かった顔が、膝を折ったことにより明確に見えそうな位置にまで来る。
だが、白い靄と滲む視界で明確にはならない。
「そういえば、顔を見させないためのベールをつけさせていた。純白のベールだろう、これは新調したものだ。
ベール。
そういえば、と言うのなら、シルビアもそういえばだった。この、白く視界を曇らせるものは、靄ではない。白の薄いベールだ。
過去、この頭からの覆いが外れたのは、『彼ら』がいるときと、兄がいるときのみだった。
そして、今、名も知らぬ男が丁寧にベールを外す。
「それに、服も。美しい君に似合うのはその色だからな。よく似合って──」
弾む感情も混じっていた声が、不自然に途切れた。
シルビアはただ、涙を流し続けていた。
「……どうして泣いている」
シルビアの様子を見た男は、ゆっくりと取ったベールをどこかに置いた。視線はシルビアに注がれたまま。
声は、固くなっていた。
「まるで、人間のようじゃないか」
信じられないものを見た、あるいはあり得ないことが起こったような言い方だった。
息を飲む音が二つ、少し離れたところからした後は、しばらく沈黙が落ちた。
その間も、シルビアの視界は滲み、涙が生まれ続ける。
ベール一枚、向こうと隔てるものがなくなっても、ぼんやりとし、全ての感覚が鈍かった。頭の中を占めていたのは、空虚さだった。
けれど、次の瞬間より、現実がじわりじわりと迫ってくる。
目の前の男が、『笑った』と感じたのだ。
そして、ベールはなくなったのに、その手が近づいてくる。
「──」
手が触れ、シルビアはビクリッ、と震えたが最後、全ての動きを失った。
そのシルビアの目じりを、手が、触れていく。涙を生む動きさえ止まってしまったように、視界の滲みが取れ、はっきりとした。
顔が見えた。こちらを覗き込む顔。そして、離れていく手が──濡れた指を、舐めた。
「……ああ、血と同じように、これにも力が満ちているようだな」
男は、息をついた。
その息遣いが感じ取れる位置にいるシルビアの体の内側に、何かの感覚が、駆け巡る寸前で凍りついている。
「君には涙などという俗物は似合わない。ほら、無い方が、美しい」
手のひらが、頬に触れる寸前、シルビアの身が勝手に避けようとした。
後ろは、下がることが出来なかった。 なぜ。
手は、触れることなく引っ込められたことには気がつかず、シルビアはそこでようやく周りを見渡した。
シルビアが横たわっていたのは、長椅子だった。
シルビアが悠々と横たわれる長さの椅子は、ふかふかの材質で、色は、淡い。
前に、テーブルがあった。その下の絨毯。床。
ここは、まさか。
気がつくのが遅すぎた。見覚えのありすぎる部屋だった。壁紙、扉、家具、その他の調度品。全てに見覚えがあった。
シルビアが、過去にずっといた部屋。
戻って──戻されてしまった。この部屋に。
ぽろり、と、涙が落ちた。今まで寸前で一時的に固まっていただけのようだった。はらはらと、落ち始める。
最後に、自然と目を戻した方には、シルビアの方を見て立っている三人の男がいた。
その姿と背景の部屋が、朧気だった記憶と重なり、記憶の中の静止画がみるみる内に明瞭になった。
三対の目が、シルビアを見ている。
「……何かおかしい」
「何か……? 兄上の目は節穴か? 明らかにおかしいだろう」
「分かっている。だが理解出来ない。したくもない。何だ、この様子は。どうして涙を流す、落ち着きがない──あんな表情をする。おかしい。何が起きている」
三名の内二名の会話で、片方がため息をつく。
「理由は明らかだ。ここから出されたからだ」
ため息をついた男は、続ける。
「みだりに外に出し、普通の人間と接させられたに違いない」
「……だから言ったんだ。ヴィンスは殺すべきだって」
「駒としては使えると意見が一致したろう」
「今、我慢ならないな。殺すべきだ」
「──ならば、戦地に戻り殺してきてはどうだ」
誰がどれを話しているのかは、シルビアはにはわからなくなっていた。
ただ、会話する彼らの間にその瞬間微かに張り詰める空気が漂った。
「兄上、そうはいかない」
独特の空気の中、互いを見据え合っていた彼らだったが、内一人が「提案をしたまでだ」と「それよりも」と空気を流した。
「しばらく強い薬を使っておくか」
「……そうだな。嘆かわしいことに、悪い影響に侵されてしまったようだ」
一人が、残念そうに首を横に振った。その男が、シルビアの方を見る。
「大丈夫。手を尽くして私が『汚染』を取り除こう」
さっき、一番近くに来た男だ。
名は知らない。皆知らない。彼らは兄ではない。
「まず何より、外に出さないようにしようか」
突如、指を鳴らす音が響いて、シルビアの体が無意識に一瞬反応した。
音は合図か。扉が開き、誰かが入ってきた。シルビアからは、よく見えない。彼らがいるからだ。
男たちが、シルビアに背を向けると、細かな高い音がした。
「もう二度と、同じことが起きないように」
振り向いた三名の男は、何かを手にし、シルビアの方に来る。
全員に近づかれて、知らず知らずの内に身を起こしていたシルビアは、また下がろうとする。下がることは出来ない。
腕が三本伸びてきて、腕と脚を取られた。
酷い混乱に襲われる内に、かちゃん、という音がほぼ同時に三つ。冷たい感触も三つ。手首と片方の足首。
見た手首には、金色の輪がついていた。動かさなくとも分かる、重量感を持っていた。
音と、感触は最後にもう一度、もう片方の足首に。
金色の輪を撫でて、接近していた気配がいくらか離れた。
周りの空気の圧が減った感覚がしたが、手足首の重みは変わらない。
手を少し持ち上げると、予想以上の重みが手首にかかり、ちゃり、と音がする。
音の正体は、金の輪についている鎖のようだった。鎖を辿ると、全てが一つの輪に纏められ、後方のベッドの柱を含んで、
「女神が、天へ帰ってしまわないように」
ガチャンと重い音を立てまさに今、輪が閉まった。
「これで一安心だな」
長椅子の横を、男が通りすぎていく。その唇は上向き、笑っている。目も、形は笑っている。その先にいる男二人も、同じ。
「誰の許しを得て、見ている」
不意に、不穏な声が発された。
シルビアに向いた声ではなく、ちょうど向こう側に歩いて行く男が発したのだ。
彼らの位置がずれているため、シルビアは声の方向である出入口の方にどんな人がいるのか見えた。
シンプルな服装の女性だ。
「目を潰されたいか」
自分が対象だと理解した女性は、青ざめた顔が見えるか見えないかくらいの早さで、顔を伏せた。
「も、申し訳ご──」
「ここで、声は出すなと命じているはずだ」
「──」
女性は謝罪を述べる術を奪われ、床に崩れ落ちるようにして両ひざをつき、床に頭を擦り付けんばかりに頭を下げた。
「床を汚すな」
合図の音が、二度目鳴る。
「出せ」
音の合図と共に外から呼んだ人間に、短く命じる声。
「兄上、仕方ない」
「仕方ない?」
扉の方を見て命令していた男が、わずかに横の方に顔を向ける。
「どこがだ」
「私達も感じているように、私達の女神は長く、長くいなかった。決まりが疎かになってしまっているようだから、再教育が必要だ」
「だからこそ、罰は罰として与えようとしている。一刻も早く思い出させなければならないだろう。……ああ、こういう話は、他でするべきだな」
シルビアは事の流れについていけず、手首の手枷を浮かせ呆然としながら、そちらを見ていた。
そのとき、男が、完全にシルビアに顔を向けて、笑いかけた。
「改めて、お帰り」
シルビアの顔にベールをつけ直し、そう言い残し、その場全ての人間ごと出ていった。
扉が閉まり、鍵がかかる重い音がした。
足音が、遠ざかっていく。小さくなっていく。聞こえなくなって、鎖の音だけが響いた。
ぞわり、と、遅れて寒気が体に走った。大きな寒気は、襲いくる寸前で凍っていた感覚が一気に解き放たれたようだった。
目の前にいた『彼ら』。ベールに曇る視界。身を包む白い衣服。部屋の内装。
何年も離れていたはずなのに、そんな気がしないのはなぜなのか。
単に記憶にあるからなのか。景色、空気が、全てがシルビアに感じさせた。
ここは、あの部屋だ。
シルビアは、戻ってきてしまった。
ただ、かつては、この感覚は持っていなかった。
体に残る、嫌な感覚。彼らが近づいてきたときの感覚。
部屋と、記憶、感覚に蝕まれながらも、頭の隅が訴える。ただ一欠片の、理性。
──逃げなければ。
兄のことは一旦、一旦、置いておいて。何もかも考えるのは後で。今のことも考えてはいけない。思い出すのも駄目だ。飲まれてはいけない。
でも。
シルビアの頭の端っこの思考が止まる。
逃げる。
どうやって。
シルビアは自分でここから逃げ出したことなんて、ないのに。
逃げる、とは、どうやってするのだろう。
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