記憶





 

 微睡みの中にいて、眠りと覚醒の間をさ迷うように、起きていると分かる時間が途切れ途切れにやって来ていた。

 意識が少し浮上することと、沈むことを繰り返しているよう。

 だが、心地よくはなかった。どちらかと言えば不快な方で。……けれど、シルビアはその感覚に抗う気力を持っていなかった。



 *



 たった一人、名を名乗り、「名前」を呼んでくれた人だった。

 いくつくらいのときだろう。思えば年齢の意味も分かっていなかった。

 彼は、ある日ふっと現れた。いや、彼は『シルビア』の部屋に来たことはあったのかもしれない。単に、『シルビア』の彼に関する記憶がその辺りから濃いだけで。


「私は君の兄だ。ヴィンス、と言う」


 彼は、『シルビア』が椅子に座る前に、跪いて名乗った。

 あに。

 ヴィンス。


「そうか……分からないか」


 ぼんやりと見返す『シルビア』を見て、彼は呟いた。


「構わない。これから私が教えよう」


 彼は毎日は来なかった。他の彼らは毎日来ていた。そして、その彼らが来ているときには、彼は決して来なかった。

 そのときの『シルビア』はそんなことにさえ気づかなかったけれど。


 彼は、会いに来るたび、『シルビア』に話しかけた。ただし一方的にではなく、様子を窺いながら語りかけた。

 『シルビア』が最初はろくに反応を示さなくとも、長い時間をかけて、こつこつとシルビアに自分が誰かを理解するために必要なことを教えてくれた。

 兄、名前、というものが何を示すか。

 そして、喋ることも。


 彼が「お兄様、と呼んでくれるのならそれはそれで嬉しいな」と言ったから、「……にい、さま?」と『シルビア』は途切れ途切れに呼んだ。「お」が消えてしまっていた状態だったのだが、彼の反応で、それでいいらしいとそれで呼び続けた。

 そして、そんなことを理解出来てきたため、彼は『シルビア』に名前をつけてくれた。

 「君に、名前をつけよう」と。『シルビア』はずっとずっと『女神』と呼ばれていて、名前の意味を理解したとき、それがそうなのだろうかと思っていた。

 でも違った。兄は、名前をくれた。シルビアではない、名前。

 二人だけの秘密だ、と彼は言った。秘密、という言葉はそのときに覚えた。どのみち、彼以外の前では相変わらず黙っていたし、喋る必要がなかったのだけれど。


「外に出ないか」


 『シルビア』を外に出したのも、彼だけだった。部屋の外に出ることはあっても、建物の外に出ることはなかった。地面を踏みしめたのは、あれが最初。

 初めて出た外は、明るくなかった。どんより、曇っていたのではないだろうか。

 小さな中庭の長椅子に、兄の隣に座ってしばらく風に吹かれていた。

 飴を貰った。兄は、いつからか来る度、お菓子を持ってくるようになっていたのだ。


「『    』は甘いものが──特に飴が好きだな。美味しいか?」


 『シルビア』は頷いた。あまくて、おいしい。

 兄は、『シルビア』の頭を撫でた。頭を撫でられることは心地よかった。胸に、温かい何かが、生まれるから。

 思えばそれは幸せだったのだろう。


 一度、やって来た兄の顔の一部の色が変色していたことがあった。どことなく視線を引かれて見ていると、兄は、


「少しな」


 と言うのみだった。

 そして、


「しばらく、私はここに来られなくなる」


 と言い残し、本当にしばらく、兄は姿を見せなかった。

 ジルベルスタイン家に行った後に聞いた話からすると、留学の時期だったのだろう。このときに、彼はアルバートと会った。

 しばらくの期間を経て、兄がやって来た。


「久しぶりだな」

「──兄様」


 彼が来ない間、声を出すことのなかった『シルビア』は久しぶりに声を出したために、声が掠れた。

 それが不調だとは思わず、『シルビア』は兄の登場にわらった。

 わらうと、周りに幻の花が咲いた。

 初めてわらったときは、兄はとても驚いた顔をしていた。そして、彼自身見たこともないくらい分かりやすい笑顔を浮かべた。


「他の国へ行っていた」

「他のくに」

「そう。……『    』は、この塀の外へ出たことがないな」


 このときからだろう。兄の、その様子が始まったのは。

 どこか遠くを見るような目をして、きっと、何かを考えていたのだ。その様子は、長い間続いた。

 やがてのシルビアが、城の塀ばかりか、国の外に出るまで。ずっと続いていた。


 そして、シルビアはジルベルスタイン家で新たな生活を与えられた。

 兄がおらず、『兄』ができ、養父母のいる生活。

 アルバートや養父母は、シルビアにさらに知らないことを教えてくれた。なぜ、シルビアがこの国に来ることになったのかも。

 シルビアは新たなことを知るごとに、かつての環境がどのようなものだったか、理解しそれに対しての感情も得た。


「騎士団に、入りたいのです」


 『兄』であるアルバートは、突然のことに驚いた顔をした。それから、厳しい顔をして、


「理由は」


 と短く問うた。

 シルビアは、懸命に自らの思いを言葉にした。不純な動機だと思われるかもしれないけれど。


 出来た望みは、兄との再会。

 そのために、何か出来ることがあるのなら。強さを身につけておきたい。強さが欲しい。



 ──そう、願ったのだ








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