求める強さ
朝起きて、どことなく空気がどんよりしていると思った。
原因は、予感がして外を見て分かった。雨が降っている。花が濡れ、葉が濡れ、木々が濡れ、雫が伝い落ちる。
ザアザアと音を立て、降る雨は、外の世界にベールをかけるほどの強さだ。
──その音は、耳に時おり
窓から離れると、窓ガラス一枚隔てた音は遠ざかり、耳に残る音もやがて遠ざかってゆく。
着替え部屋を出て歩いていると、廊下の先に、アルバートの姿があった。
偶然、その場に同時に通りかかったのではなく、彼はそこに立ち止まって壁に背を預けていた。
おはよう、という朝の挨拶におはようございます、と返す。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
アルバートがこの場にいた理由が分かって、シルビアはしっかりと言う。
「私は、もう泣きません」
見えていたものを掻き消すような雨に、必要以上に悲しみを覚えることはない。
「そうだな。お前は、もう大丈夫なんだろう」
アルバートが歩きはじめたから、シルビアも歩きはじめた。
雨は、夜から朝にかけてがピークだったようで、昼には勢いが弱まって小雨になっていた。
訓練は、外で。細かな雨が降り注ぐが、ずぶ濡れというほどにはならないだろう。
教官が来るまで、屋根の下で待機することにする。
「……シルビア、それ、どうしたんだ?」
イオがやって来て、開口一番、シルビアの頬のあざについて問うた。
訓練ではなく、箱の打撃という過程で出来たあざは、養母に見つかったものの、治すことは大丈夫だと断っていた。要因が要因だ。
しかし、やはり治しておくべきだったろうか。
「昨日、箱がぶつかり出来ました」
「箱がぶつかった……?」
箱に、ではなく箱が、という点にイオは怪訝そうにした。箱が落ちたのだと説明を加えると、納得した様子になった。
「今日は雨だな」
「そうですね。朝より弱まって良かったです」
「そうだな」
そのとき、横に並んだイオが、小さくため息をついた。
横にいるシルビアには聞こえて、見るが、イオは雨の降る景色を見ていて気がついていないようだ。
「イオ……」
「なんだ?」
「お疲れですか?」
尋ねると、彼は「なんでそう思ったんだ」と問い返しをした。シルビアはため息をついていたから、と素直に答える。
ため息か、とイオは自分に呆れたようにわずかに笑って、浅く息を吐いた。意外だ、という気分になった。
「動いている量は変わらないから、体力的には疲れていないはずなんだ。慣れないところに神経を使っていることで疲れているんだろうな」
自分に厳しく、妥協を許さない彼は、珍しくぽつりぽつとりと話す。
曰く、心当たりは、テレスティアの使者が来てからの環境なのだと。イオが近衛を勤める王太子は、テレスティアからの使者が王子であることも手伝って相手になることがあるという。
その間、もちろん近衛も側と周囲を警戒する。テレスティアの王子にも他の警護人員がいるが、『もしも』がある。
「刺客が現れることは滅多にない。奥まで入り込み、側に近づくことの出来ない警備体制だからだ」
イオもそんなことは分かっていると言う。そして、万が一に全神経を尖らせるような性格で生きてきたわけでもないとも。
「国の最も貴い方の身を守るという仕事が大きな責任が伴うものだとは知っていたが、そこに他国の王族が加わると違う種類の責任が加わる。……そこまで気を張る必要はないとは理解しているのに、常時、どこまで気を張っていればいいのかが分からない」
初めてだからか、その辺りがまだ掴めていない、と。
やはりテレスティアの使者の来訪は、奥では普段の城の雰囲気を変えているようだ。シルビアは、テレスティアの使者の姿を見たことさえない場所にいるのに、全体的な雰囲気の変容を感じたのだ。すぐ近くにいるイオはどんなに感じているか。
「大変、ですね」
「大変なのは、第五騎士隊も大概だろ。むしろ頻度としてはそっちの方がよっぽど多い」
イオはいつもの調子で言ったけれど、大変さはどの仕事、騎士団の中のどの隊にもあるだろうが、その種類は微妙に異なる。
近衛隊の仕事は、王族の身を守ることだ。第五騎士隊とは異なる意味で、重要で、責任のある仕事なのだ。
そして、テレスティアの王族が来ている現状が加わると……。この国で、他国の王族が傷つけられることは、責任問題にもなり得る。
「シルビアは、緊張することとかあるのか?」
大変さについて、口に出す言葉を考えている内に、話題がこちらに移ってきた。
シルビアは一旦考えていたことを置き、問われたことを考える。緊張?
「ありますよ」
例えば。
「地下で、神剣に触れるとき緊張しました」
背負う剣に触れるときのことだ。自分が、騎士団に入り、その道を歩んでいく始まりでもあった。
「何ですか?」
「……いや、シルビアは一時期を除くと、どんなことがあっても平然としているように見えていたから。そういうところで、緊張するんだなと思った」
そんな風に見えていたのか。それこそシルビアは驚きだ。
「普段もそうだが、この前の魔物のときも。怖じ気づくとか、一歩引きそうになる感覚とか」
「……いや、おれも一歩引くとかは絶対しないけど」と続けているイオを、シルビアはじっと見た。
人が他人を見て、こうだと思っている人物像は当たりではあるだろうが、全てではないのだ。
イオが、シルビアを何かが欠けた姿を認識していたように、シルビアもさっきイオがため息をついたとき、意外に思ったことを思い出した。あれだって近いのではないだろうか。
「イオ、私にもそういった感覚はあると思います」
幸いにも、感じる感情は増えたように思える。嬉しい、楽しい、嫌、恐ろしい。その感情が大きいのか、小さいのか、強いのか、気がするくらいなのか。
怖じ気づくことや、一歩引きたくなる感覚は経験したことはないかもしれないが、類する感覚は有しているはずだ。
シルビアは、また一つ、訂正することにした。
「魔物は私には『嫌』なものだと感じましたし、私はこの前海賊の命を一つ奪いました。そのとき、細かく分けることのできない複雑な感情を持ちました。戸惑うことも多々あります。──ですが、それらの感情であれ、どんな感覚に襲われても全部飲み込んでいきたいと思っています」
一歩引くことは、シルビアには惜しく思える。一歩踏み出せる力や気持ちがあれば、成せることが増える気がしているから。
「……それも、シルビアの強さなんだな」
「私の強さ、ですか?」
「何があっても、怯まないっていうことだろ? その覚悟があるから、シルビアは強いのかもしれないな」
「……いいえ、イオ」
彼が強いと評してくれていることを、否定するのではない。嬉しいことだ。
けれど、その覚悟をそんなに肯定してもらうわけにはいかない。
「私は、自分が恐れて、避けたいと思っているものがあると知っています。今、私はそれを目の前にしていないだけなのです」
きっと、それを前にすることがあったとき自分がどうあれるかが、問題なのだ。
「私は、何を前にしても立ち向かえる強さが欲しいです」
降る雨の向こうを見通しても、その先には見慣れた景色しかない。けれど、シルビアはその向こうに何かを見るような目をした。
雨の中の訓練は、予想以上にやりにくかった。
自分が濡れることや、視界に雨が降っていることばかりが注意点ではなかったのだ。
ずる、と足元が滑った。雨でぬかるんでいる地面で訓練するのが初めてで、今日は幾度もこんな目に遭うことになった。
結果、一度転んだし、踏み込むたびに泥が跳ねて制服はとんでもなく汚れた。
終わったときには、替えの制服があるのは、このためかと思ってしまいそうだった。
雨は夕方には止んだ。依然として空には雲がかかっているが、明日にはなくなっているかもしれない。
「お帰りなさい、アルバートさん」
「シルビア。……ただいま」
今日、アルバートの姿を見たのは朝以来だった。
ジルベルスタイン家にて、アルバートを出迎えたシルビアは大きく瞬く。
アルバートが、疲れているように見えて、同時に今まで、彼の疲れている様子を雰囲気さえ見たことがないと知ったのだ。
「今日雨の中で訓練だっただろう。風邪を引くなよ」
「はい」
気になりつつ、アルバートが歩いていくので、ちょっと後ろから様子を窺っていると、養母が現れた。
「アルバート、お帰りなさい。遅かったわね」
「ただいま帰った。……母上、少し話がある」
「あら、何?」
アルバートが、養母に小さな声で答えたようだが、聞こえなかった。
「──ルーカスは」
「父上は、一区切りつくまで帰って来ない」
「それはそうね……」
シルビアには、背を向けているアルバートの顔はもちろん、彼の姿に隠れてしまっている養母の顔も見えなかった。
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