第二章『使者の来訪』

初めての友人






 朝、起きるとまだ眠いときがある。

 眠気に目を瞬きながら寝巻きを脱ぎ、着慣れてきた衣服に袖を通す。露になった腕にある、一見しただけでは見えにくい一筋の傷痕を袖が隠す。古い傷痕だ。もう塞がってはおり、痛みは感じない。ただ単に、残しているだけの傷痕。

 衣服を着替えたところで、重い瞼をぱちりと開き、鏡に映る自分と目を合わせ、目を閉じ、──開く。水色の瞳と目が合い、鏡の前を去り、部屋を出た。


 朝食のために食堂へ向かうところで、アルバートとばったり会った。シルビアとほぼ同じデザインの衣服を身につける彼もまた、タイはまだ首もとにない。


「おはよう」

「おはようございます」


 挨拶を返したところで自然に歩き出すところ、アルバートの手がシルビアに伸ばされる。

 手は、そのまま黒い髪に触れたから、シルビアは首を傾げる。


「どうかしましたか?」

「寝癖」


 端的な一言に、ぱっと彼が触れていた後頭部辺りに手をやれば、ぴょこんと浮いた感触が伝わってきた。


「気がつきませんでした……」


 鏡を見てきたけれど、後ろだから見えなかったようだ。

 おまけに、浮いているらしき髪を押さえてみるものの、手を離すとまた浮く。直る気配がない。少し困る。


「髪はまとめるから、そんなに気にしなくても大丈夫だろう」

「そうでした」


 確かにそうだ、と言われて気がついた。

 後頭部を押さえていた手をぱっと離して、アルバートを見上げると、彼はふっ、と笑んだ。


「行くぞ」

「……」

「シルビア?」

「──はい」


 歩き出して、一旦後ろを振り返ったアルバートに慌てて返事をすると、彼は改めて前に向き直った。

 ──笑っただけなのに、おかしなものだ。いつも見ているのに、心臓がドキッと跳ねて、びっくりした。

 朝だからと言って、寝惚けていられない。理由はおそらく分かっていて、シルビアはひっそりと一呼吸置いてから、背を追って歩きはじめた。


 彼は『兄』で。自分は『妹』で。自分という身の上を忘れてはならない。



 *




 季節は微妙に変わりゆく頃だった。とは言え、首都は一年を通して過ごしやすい気候で、すごく暑くだったりすごく寒くはならない。

 今日も今日とて、騎士団の者たちは訓練に励む。

 訓練場の一つでは、神剣独特の音が鳴り響いていた。


 その場には、風を切る音と、たった数秒ごとに区切られる剣がぶつかる音が鳴る、鳴る、鳴り続ける。

 端から見ると、両者の打ち合いは目を見張る者があるほど素早い。

 片方は神剣の指導を請け負う教官、片方は今期二名出た神剣の使い手の内の一人、シルビア・ジルベルスタイン。


 教官もシルビアも手にしているのは神剣で、シルビアが使い慣れてきた神剣を奮うと、受け止められる。二度、三度、四度、五度……難なく刃を防がれてしまうが、シルビアは構わずより速く、と剣を振る。

 教官の本気は未だに知らないが、アルバートのように手合わせのときには手加減されていると分かる。

 その手加減は、純粋な剣の技術であり、神剣の力の本質そのものでもあるのだろう。彼らはやろうと思えば、剣術でもシルビアを圧倒でき、神剣の放つ威力そのものでも勝てる。

 刃に宿す力そのものを抑え、こちらに合わせている状態なのだ。


 そう思うと、何やら不思議と力が湧いてくるような思いがして、やっぱり不思議だ。

 目も、続くにつれて衰えてくるのではなく、冴える。動きを鋭く追い、隙を探す。

 そして、タイミングを見て、一歩余計に踏み出してみた。

 柄を握る力を強く、同時に神通力を強く。今までの倍、強く。

 刃を振りかぶり、渾身の力で振り下ろす──と、やはり受け止められたけれど、ここまでのように刃を離すことはしなかった。

 刃が触れ合い、擦れ、競り合う。刃越しに教官を見据える。

 まだ勝てないかもしれないが、強く、強くなるのだ。日々、進歩するのだ。昨日より強く。昨日より進化を。昨日より善戦を。


 ぐっと力を込めると、威力に押され、相手がわずかに後退った。しかし直後、押す刃に一瞬、強く神通力が走り、その一瞬に合わせて押し戻された。

 よろめかず、体勢はそれほど崩さなかったものの、その間に刃が離れ、距離が開いてしまった。


「……力を込めればいいというものではないが、私を一歩引かせたことは褒めるに値する」


 両手で剣を構え直し、睨むような気持ちで見た先には、片手で真っ直ぐ剣を構えた教官が。

 息を乱さず、服装も乱れていない教官は、淡々と、本当に褒めたのかよく分からない言葉をシルビアにかけた。


「次の段階にいっても良さそうだな」


 声音も、表情も変わらなかった。しかしながら、感じる力が変わった気がした。源は、教官の神剣だ。

 シルビアは乱れそうになっている息を一度大きくし、息を吐いて、前を見据え直した。


 教官に直接稽古をつけてもらう際は、イオとシルビアが交互に稽古をつけてもらい、片方がしている間に片方が休憩するという形で行っている。

 そして、同じく訓練を受けているイオとも手合わせを行う。


「本当に強いな、シルビア」


 イオが言った。

 イオとの勝敗は、ちょっとだけシルビアに勝ちが多い状態だった。

 いくらアルバートと毎日手合わせしているシルビアとはいえ、未だアルバートに勝ったことがないようにまだまだ未熟だ。

 アルバートと比べてしまうと実力に大きく差があるイオであっても、簡単に勝ち越せるほどではない。


 ──そうは言えど、イオも新人にしては相当であることはシルビアは気がつくはずはなかった。比較対象が乏しいのである。


「学院に来ていれば、競い甲斐があっただろうな」


 イオは、学院を今年卒業したばかりだ。騎士団に入る者は、当たり前にほとんどが学院の卒業生だ。

 学院、と名前と建物は知っている場所のことを、シルビアは彼に聞いてみたくなった。


「学院とは、どういうところでしたか?」


 単純に尋ねると、イオは考え込むように、視線を斜め上に投げた。


「どういうところと言うと……同じ目的の人間が集まっているところだから、競い合う環境だったな」

「競い合う……」

「定期的に勉強や剣術の試験があって、順位付けされるんだ」


 それで競い合う環境、と。


「楽しいところでもあった。競い合うとは言っても、何も殺伐としているわけじゃない。学院で出会った友人はこの先も友人だろうと思うしな」

「友人、ですか」


 友人が何かとは知っている。ただ、それ以上ではなく実際のものは知らない。知識だけのもので、話に出てきても想像の上でしかない。


「シルビアはそれだけ実力があるのなら、普通に学院に来れば良かったのに。どうして学院に来なかったんだ。ジルベルスタイン家でも学院に通わせるだろう」

「……騎士団に入ると決めたときには、学院に通い始めるより家での教育を受ける方が早かった、という風に聞いています」

「そうなのか」


 前に、レイラとアルバートがこんな話をしていた。

 シルビアはこう問われればこう答えるようにと言われている答えを引っ張り出し、答えた。肝は、そういう風に聞いている、となっているところだ。

 イオはすんなりと納得したように頷いてから、ふと、仄かに微笑んだ。


「学院から、おまえと競い合ってみたかった」


 過去を振り返ったような声音でありながら、目はシルビアを見る。

 一方、言葉を受けたシルビアは一度、大きく瞬く。思いもよらない言葉を真っ直ぐに向けられた気分で、そんなことを言われたのは初めてで。


「何だか、嬉しい、です」


 そう。何だか、少し嬉しくなった。

 養父母やアルバートに褒められたりしたときには嬉しくなるが、賛辞の言葉を受けたわけではないのに、なぜだろう。

 どこに嬉しさを覚えたのか。過去にまで遡り、競い合えていたらと言われたことが、いくら未熟だとは分かっていても、今の自分の腕を認められたように感じられたのかもしれない。


「私も、学院に通ってみたかったかもしれません。友人というものにも、興味がありますので」


 実際は難しかった話で、過ぎたことだからこその本音だ。興味はあった。

 ただし、一度見てみたいような気がするというくらいではあったけれど。

 騎士団の者のほとんどが通い、アルバートもまた通い、過ごした場所。


「興味があるって、友達みたいな関係がなかったわけではないだろ…………いや、そういえば貴族の集まりにも全く出されなかったとか聞いたな……」


 言いかけで言葉を切ったイオは視線を下に落とし、何事か独り言を呟いていた。そして声が消えたと思ったら、緑の目が、ちらっとシルビアを見る。

 シルビアは首を傾げて、様子を窺う。


「……おれは」


 様子が微妙に変化したようなイオが、改めてシルビアに正面から向き合い、真っ直ぐに視線を向ける。


「おれは、シルビアのこと、友人くらいの関わりはもってるんじゃないかと思ってる」


 シルビアは、ぱちぱちと瞬く。


「と、言いますと……?」

「だから、」


 食い気味に話しかけたところ、イオはこほんと空咳を挟んで、再度話し始める。


「おれで良ければ、シルビアの友人になる。同期の新人で、それなりに顔も合わせて話もしてるから」


 だから、と彼はこう言った。


「友人、でもいいんじゃないか」


 と。

 他ならぬシルビアに。


「友人……」


 シルビアは、その言葉を繰り返した。

 解釈が正しければ、イオに友人という関係の提案を受けた。イオとシルビアの。

 友人──意味だけは知っているものの、実際の存在を体験したことのないもの。どうやってその関係を得るのかも分からず、それ以前に得ようという考えが出てきていなかった。

 その関係を、イオが差し出してくれている。


 シルビアは、イオを見つめて、慎重に口を開いた。


「イオ、いいの、ですか」

「いいも何も……」


 真剣な問い返しに、イオは若干たじろいだようになった。しかし少しの時間だけ。

 シルビアの真剣な様子に報いるがごとく、彼もまた真剣な面持ちになり、「ああ、いいって言ってる」としっかり頷いてみせた。


「本当は、友人なんてこんなに宣言してなるものじゃないからな」


 そうなのか。それは知識不足で、常識外れのことをして申し訳ない。


「友人が出来るのは、初めてで。すみません」

「べ、別にそこまで咎めてるわけじゃない」


 それなら良かった、と思って、それからたった今得た初めてのことを思い出した。


「嬉しいです、イオ」


 シルビアが微笑むと、イオの顔に赤みが増した。





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